第4話 「俺」がきみに魅入られる話

 運命とか宿命とかそういうのは一切信じていなかったし神さまがみんなを平等に愛してくれるみたいな思想も信じていないはずだけれど、今回ばっかりはいるかいないかわからない神さまにも感謝の言葉を一時間位にわたって述べてやってもいいと思えるくらいには幸せな気持ちを味わっている。明日は休みだしもう寝ようと思っていたはずなのに、ベッドの上でずっと正座してスマホを眺めて過ごしている。風呂は済ませたし炊飯器に米もセットしたので本当に寝るだけの状態なんだけど、それだけができないでいる状態だ。

 そわそわしてどうにも落ち着かない。布団の中からスマホをいじって返信しようかと考えていたのに、それもできないくらいにどきどきしている。スマホを眺めてそわそわそわそわ。こんなに落ち着かない精神状態でよく風呂に入れたなと自分で自分に感心するけれども、冷静に考えてみれば風呂に入ったのはもう少しよそよそしい連絡を返している状態だった。もう少し自分の心の中にも落ち着きが残っていたはずだ。今はもうなにも落ち着いていない。どきどき、どきどき。心臓が早鐘を打っている。人間が人生で打つことができる鼓動の回数が決まっているのだとしたら俺は、もういよいよ寿命が縮んでしまっているかもしれない。もったいないけれどそれでもいい。このメッセージのやり取りを止めたくない。

 職場に常連のような頻度で来てくれている青年の名前を知った。吾妻亮太というらしい。年齢は俺とあまり変わらないけれども身長は少し小柄。並んで比べたら少し小さいくらいだろうなと思うけれども、見た目の雰囲気からしてその体格がマッチしていた気がする。毎日のように職場に来てくれているから俺も見た目に関しては気持ち悪いくらいに詳しいのだ。居酒屋のホールスタッフの忙しさには結構波があって、暇なときには本当に暇になってしまう。もっとも俺は社員雇用なのでホールの仕事以外にも書類関係の仕事やら販促関係の仕事やらがあるけれども、そういうのはホール仕事を嫌っている店長がやる話になっているので。こちらはホールメインで動いていいことにしてしまった。

 今までだったら客のことなんか人間とも思わずにいたしモンスターの顔がいろいろ種類があるくらいにしか思っていなかったのに、どうしてか彼は俺の視界にちゃんと飛び込んできたし、俺も俺で彼のことを人間だと認識してしまったのだ。どうしてなんだろうな。居酒屋なんかで働いていると客のことを人間認識してしまえばしてしまうほどに苦しくなってしまうし、誰もが接客業で一度はぶち当たる壁がそれらしい。まあみんなモンスターだよな。できれば俺だってホールの仕事よりもバックヤードに篭って片付ける書類作業をメインで過ごしたいけれど、残念なことに店長と俺が二人でそんなことをやっていたらこの店は回らなくなってしまって終わるので、どちかが我慢しなきゃならない。だから俺が我慢している。

「はー……」

 言葉を話すことがあまり得意ではないらしい亮太が見せてくれた一生懸命さみたいなものに、惹かれてしまったのだろうか。ゆっくりと綴られるラインのメッセージの返信をじっと見ながら考える。俺はどうして彼に連絡先を渡そうと思ったのだろう。彼に惚れたからかな。いや、まだ惚れてないし。惚れたところでどうこうなれるとは思えないしどうこうなりたいとも思っていないのだ、俺は。どんなに彼が一生懸命に生きていたところで、身長差みたいな覆せないものは存在しているし、それがセックスにおける体位のようなものであるということもわかっている。どうせ俺がタチをやることになるんでしょ、わかってるよ。

 亮太からきたメッセージの返信をどうしていいのかわからずにずっとスマホの前に正座して、もう二十分くらい経ってしまった。おやすみ、だとかもう寝る、だとかそういう今どきの人間が連絡の途中で寝るときに交わすやり取りのようなものはなかったけれど、きっと彼はもう寝てしまっている。出身は田舎の方らしいし上京してきたとは言っても近くに頼れるような親戚もないらしく、うまく話せないというポイント以外は全てにおいてマイペースなところがあるように見受けられる。メッセージの内容一つとってもそうだ。ひとつひとつ言葉を大事に選んで、大事に返信を綴ってくれている。今どき珍しいくらいにマイペースだ。

『起きているよ、うたくん。ぼくは上京してきたばかりで仕事も住居も見つけられていないから、明日もきみの居酒屋の近くのホテルから出る予定はないんだ』

「すごい……すごいな……」

 トーク画面に最後に残されたメッセージをもう一度読み返して、内容と文面に震え上がる。悪い意味じゃなくていい意味だ。同世代でメッセンジャーでしかないようなツールを使ったやり取りで、ここまで丁寧な文章を送ってくれるひとがいるなんて思わなかった。いや、この広い地球上を探せばいくらでもいるだろうし、そんな大規模に捜索範囲を広げなくても日本中を探せばいっぱいいるだろうこともわかっているんだけど。それでも俺と関わりを持つような人間の中に、こんな丁寧な文面で俺にラインをしてくれる人間が存在するなんてことを、一度だって想像したことはなかったのだ。

 自分を卑下しているわけじゃない。自分に自信がないわけでもない。こう見えて人間関係をスムーズに回すことは得意だと言えるし、こうやって居酒屋での労働中心の生活を始めるより前はそれなりに友人と遊んで休日を過ごすことが当たり前のような人間だった。パリピってほどじゃないけど、まあ週末を一人で過ごすことのほうが少なかったし、常に誰かしらと遊んでいるようなことが多かった。友達関係を構築するのは嫌いじゃないし、友達と四六時中一緒に居るのだって苦痛じゃない。その相手が男性であれ女性であれ、それなりに振る舞うことはできるし、それなりに楽しさを見出すことだって得意だ。

 けれどもその連中は、こういうメッセージのやり取りをしない。短縮された言葉を使って要件だけでやり取りする。必要最低限のワードを使って思いついたことを片っ端から投げ込んで、相手の解釈に任せるような投げやりなコミュニケーションを取っていた。そういうのが当たり前だったから、亮太とのやりとりは新鮮でどきどきした。そうだ。仕事終わりの楽しみといえば睡眠を貪ることでしかなかった自分の睡眠すらも妨げるほどに興奮して落ち着きをなくしてしまっているのは、きっと亮太が珍しいやりとりをするから。言葉が丁寧だから。普段接しないものに触れて、自分がどきどきしてしまっているから。恋をして、あるいは恋をしそうになって浮足立っているわけじゃないはずだ。

「なんて送ればいいんだ……?」

 こんなにも得難い縁を得てしまったのだから、それをどうにかして維持したいと思ってしまった。維持なんて言葉では言い表せないくらいの大きな感情を抱いてしまっていることもとっくに自覚している。今まで他人にこんなに大きな感情を抱いたこともなかった。ふつふつと湧き上がるよくわからない感情に惑わされながらも必死に、自分で自分を冷静にさせようと頑張ってみる。どきどきと心臓が波打ってしまっているので、もはや今更眠れないだろう。明日も休みだし平日休みだから友達をいちいち見つけるのも面倒だから予定はこれといって無いし、どうせ寝て過ごすだけだったかもしれないけど。それでも、やっぱり規則正しく寝ておきたかったというかなんというか。こんな時間から興奮している自分が悪いんだけど。こんなちょっとしたことでギンギンになってしまうくらいに興奮していることがまた、なんとも言えない気持ちになる。

 丁寧な文章を送ってくれる相手に恥じない存在であればよかったのになんて、そんなことを思った。恥の多い人生を送ってきたわけでもないし、これと言って恥ずかしいような経験を抱えているわけでもないはずだ。他人と上手くコミュニケーションが取れないかもしれない問題を抱えているだろう相手のことを考えたら、俺のなかのもやもやした感情なんか大したこともないはず。だけれど、それでもどこかで引っかかるのだ。きれいな文章を丁寧に送ってくれるひとと友だちになりたい。できればそのひとが自分のことを好きになって欲しい。あれ、友達ってどうやってなるんだっけ。正座したまま前のめりになってばふんと、掛け布団の上に自分の顔面を突き立てた。

 もう一度文章を読んでみる。冷静に冷静に。自分に言い聞かせるようにしながら冷静さを取り戻そうとして、そうして諦める。どきどきとうるさすぎる心臓に見切りをつけて、冷蔵庫までのそのそと歩いていった。扉を開けてミネラルウォーターを取り出して、ごくりとそのまま直飲みする。体の中を新鮮な水が通り抜けていったような気がして、少し冷静になることができた。深夜に考えごとをするのはよくないことだと学生時代に心理学を専攻した知人が言っていたことを思い出すけれど、じゃあいつなら考えていいのかと責任転嫁なことまで考えてみる。ぐるぐる、脳みそが無意味な空回りを続けているのだ。

 ひとつずつ噛み締めて理解してみよう。丁寧な文章を送ってくるところからして、亮太はきっと俺がもっと丁寧に返信をしてくることを望んでいるはずだ。少しでも悪く思われたくないし少しでも俺のことを良い存在だと思っていて欲しい。まだ出会って数日の関係の人間に抱くにしては大きすぎる感情を、自分の中でも持て余してしまっている。どんな顔をして寝ているんだろうか。あどけない寝顔を見せているのかな。その寝顔をいつか見せてもらえるような関係になる日が来るのかな。亮太になら、なかなか他人に話すのに勇気が必要だと思ってしまうようなことを、話してもいいような気までしている。適切な距離を測りそこねている実家との関係とか、自分ではどうしようもないセクシャルなことの悩みとか、あるいは自分が願う属性と反する形で大きくなりすぎてしまった身長や体格の話とか。

 いろんなことを聞いてくれるくらいの関係になれたらいいな、なんて女々しいことを考える頭を軽く左右に振って思考回路のリセットを試みる。こんな深夜に考えごとなんか本当にするべきじゃない。深刻なことやネガティブになりやすい方向のことであるならなおさらだ。

 亮太からのメッセージを噛み砕こう。今夜はもう彼は寝ただろうから返事は明日にしよう。いつもだったら寝ている相手にそのまま返事を送って起きたら見てもらえばいいやと思っていたけれど、あの入力スピードやあのメッセージの丁寧さに、そもそも彼におやすみモードやマナーモードの選択肢が提示されているのかもわからない。せっかくの安眠を俺のメッセージで妨げるなんてこと、あってはならない。少しでも好感度は高いほうがいいんだから。文面を見ながら返事を考える。ひとつでも間違いや失礼がないように、丁寧に。こういったラインなんかにあんまり慣れていなさそうだからそういう意味でも丁寧に送ったほうがいいだろうし。田舎生まれっていうようなことを教えてくれたけれど、そんなにど田舎だったんだろうか。そういうことも今後聞くことが出来たらいいな、と思う。聞きたいことも取り出したい話題もたくさんある。

 さて。起きているよ、うたくん。これに関しては特になにも返事をしなくていいだろう。うたくんと呼ばれたことにはかなりドキドキしたし緊張もしてしまったし、ぶっちゃけ赤面までしてしまったことを自白しておく。赤面なんてこの仕事をやるようになってから久しくしていなかったけれど、こんなメッセージの文面を見ただけでそんなことになるなんて本当に、自分が未知の領域に足を踏み入れたことを実感する。こんなの初めてだよマジで。今までゲイ専門の出会い系からマッチングアプリからいろんな出会いに挑戦してきたけれど、こんなふうに大事に言葉を扱ったこともなかったし、大事に俺に向き合ってもらうこともなかった。文面一つで赤面なんて。もうとっくにそんな純情なところは失くしちゃったと思ってたんだけどな。

 ぼくは上京してきたばかりで仕事も住居も見つけられていないから、明日もきみの居酒屋の近くのホテルから出る予定はないんだ。気にかかるのはこの一文だ。上京してきたばかりというのはなんとなくわかる。うちの居酒屋のメニューひとつひとつにかなり嬉しそうな顔をして向き合っていたし、毎日違うものを頼んでは写真を撮って誰かに送信しているらしき画面を見た。気になってちょっとだけ覗き見しました、ごめんなさい。こういうふうにあまりにも心がささくれる職場であるので、居酒屋で大事な連絡をしないことをおすすめします。そこで手に入れた情報を元にどうこうするわけじゃないし、なんとなくの癒やしを求めているだけだし、そういうのは気になった相手にしかやらないから。

 上京してきたばかりというのはいい。良くはないんだけど納得はできる。もしここが地元なり地元の近くなりだったのなら、言葉を発することに難しさのようなものを感じているのだからそれを補うために事前に友達に連絡をして一緒に外食をするくらいのことをするだろうから。そういうことを事前に考えないタイプには見えない、亮太というひとは。俺に声をかけるのもいつも忙しくないタイミングを見計らっているし、少しだけ申し訳無さそうにしているのもわかっている。こっちはそういうのを含めて仕事なんだからそんなに申し訳無さそうにしなくていいのに。いつかこれは本人に言ってやろう。まあとりあえず、亮太の地元はこの辺じゃないっていうのはそうだろう。誰だって迷惑をかけたくないはずだし、できる対策はするタイプのはずだ。

 次、問題はここ。仕事も住居も見つけられていないということ。そのあとに続く文章からして、彼はホテル暮らしをしているのだろう。それもかなりの期間。うちの店に現れ始めてからすでに数日以上経っているし、仕事も住居も見つけられていないというのがかなり心配だ。育ちは悪くなさそうだし、うちのスタッフなんか彼の数倍育ちが悪そうなヤツだっている。だからきっと彼はなんらかの理由で嘘をついて地元を出てきたか、あるいは家出同然に出てきたか。こっちに来てから仕事を探そうと思って来たんだろうな。ついでに住むところも仕事探しのついでにしようと思っていたのかもしれない。都会って仕事がたくさんあるって思ってるようなこと、地方在住者にはよく言われるもんな。

 実際都会には仕事がたくさんあるだろうし地方よりも給料が良いかもしれない。けれどもそれは亮太にはあまり関係のないことであるはずだ。あまり喋ることが得意ではない亮太が仕事を探すとなったら、喋るのが得意ではないのに自分の長所を口頭でアピールしたりだとか自分になにができると説明してみせたりとか、初対面のひと相手に自分のことを延々と売り込んだりだとか、そういうことが必要になってくる。かなり難しい話だと思う。俺のような一回きりの関係を前提とする人間にオーダーを通すのにあの状況だったんだから、面接なんかかなり難しいんじゃないだろうか。面接官全員が亮太の言葉を待ってくれるほど親切とも限らない。

 同じことが物件探しにも適応される気がする。そもそも亮太の実家はここの近くじゃない田舎で、話している感じ的にもどこかしらでなにかしらの訳があるような素振りを見せている。連帯保証人とかその辺の問題がクリアできても、そもそもバイトひとつしていない亮太にはいドウゾと親切に部屋を貸してくれるような大家がそうそういないだろう。家族連れだとか連帯保証人を連れてやってくるならまだわかるだろうし、堂々と言えないような仕事をしている場合でももう少しなにかしらのアプローチをするはずだ。亮太はおそらくそういうことをしていないから、門前払いか良くてお断りをされている状況なんじゃないだろうか。住むところも働くところも事前に探さないで上京してしまうなんて、あまりにも無鉄砲な気がするけれど。

「それとも地方から上京してくるってのは、そんな感じだったりすんのかな。俺が知らないだけで」

 考えれば考えるほどに放っておけない状況に追い込まれている亮太の境遇に思いを巡らせているうちに、少しだけ冷静になることが出来た。鼓動が少しだけゆっくりになってきて、布団の上で大の字になっていても心臓がうるさくない。この調子でリラックスして眠りたいと思う自分と、亮太にどうやって返事をするべきかを考えている自分がせめぎ合っている。どうにかこうにか彼の未来を開いてやりたくて、自分のときはどうだったかと考えながら天井に向かって独り言を投げつけた。答えも返事もない空虚なつぶやきだけれど、どうにかこれが風に乗って亮太に届けばいい、なんてことを考えた。

 自分のときはどうだっただろうか。そもそも実家と自宅はそこまで離れていないのだ。同じ県内である上にそこまで距離から言っても離れていないし、電車を使えば一時間くらいで実家に帰ることもできる。ひょんな雑談から俺の地元と実家のエリアを知ったバイトの若いスタッフには、そんな距離ならもうちょっと実家の近所で職場を探してお金貯めたらいいのに、なんてことを言われてしまったくらいだ。ここのアパートも広くはないからそういうことを言いたいバイトの気持ちもわからなくもない。終電を逃したとかで泊めたことがあるけれど、そのときにはボロクソに言われた記憶がある。ウチのスタッフは俺のことをナメ過ぎなのではないだろうか。

 結局俺はここを契約するときはもちろん父親に書類関係をお願いしたし面倒事が起きては困るので一緒に不動産屋まで出向いてもらった。契約のときだけだけれど。それから何度か更新の時を迎えているけれど、それもまたその度に父親に連絡をして書類にサインをしてもらっている。そういうことができる親子関係は維持したままであるので、バイトのスタッフの言いたいこともわからなくもないのだ。実際このあたりが地元の人間が一人暮らしをするメリットとデメリット、なんて感じでネットにまとめ記事を作られたことだってある。金のことだけ考えたら実家一択だろう。俺の場合は金のこと以外にも考えたいことや守りたいものがあったから、実家を出ることにしたけれど。

 亮太は一体なんのために上京してきたのだろうかと考えてみる。実家の家族に協力してもらって物件を事前に用意するでもなく、就職先を事前に探しておくでもなく実家を離れたのは一体どうしてなんだろう。家出。勘当された。一家離散とか。コンプレックスや精神的な負担こそあっても家を出なければならないという切迫したものが無かった自分からすると、地元を大きく離れて上京してきたらしい彼の目的がまるでわからない。俺が実家を出た理由なんかは想像するまでもなく亮太には当てはまらないだろう。少数派だからマイノリティって言われるわけで、少数派だから亮太が当てはまるってこともないだろうし。想像で考えるのは物騒なものだけだ。

 失礼なことを承知で述べるならば、亮太という人間の場合はどう考えても田舎という彼自身が育った街で過ごすことがマッチしているはず。言葉をうまく発せないことだって、幼少期から居るだろう地元ならばまわりの理解もそれなりにあるだろう。その理解のもとで生きていくほうがきっと亮太にとってはまるくて平和な解決方法だと思う。住居のことだってそうだ。お金だって降って湧くようなものじゃないから、いつかはホテル暮らしを続けることに限界があるはず。昨日だって今日だって彼は一食しか食べないで、顔色もあんまり良くなかった。無理をしているんだろう。簡単に想像がつく。

 それをしないってことはきっと、地元に帰れないってことなんだろうな。家出で出てきたとか勘当されたとか。実家がないのかもしれない。家庭環境が良好な人間だけがこの世にいるとは思っていないので、実家に居場所がなくて上京した可能性もあるだろう。言葉がうまく発せないことからトラブルに発展して、地元にいられなくなってしまったということも考えられる。田舎で暮らしたことがないから偏見的なことをいうならば、田舎だからこそちょっとした違いを抱えている人間にとって生きにくい場所にもなるはずだ。亮太ならそれが当てはまるような気もする。新天地を求めて上京してきた、とか。

「ライン、こんなに丁寧に送ってきてる時点でまあ……そんなにいい環境に居たわけじゃなさそうだよな」

 ひとつひとつの文章が丁寧に送られてくることに違和感を覚えないと言ったら嘘になる。それなりに他人と付き合いがあるのなら、ラインの文章をあんなに丁寧に送っている場合じゃないということがわかるようになるはずだ。友達が少なくてもなんにしてもちょっと違うはず。第一友達が地元にいたのなら、実家を出るにしても状況は無謀だと止めるかもしれない。止めない友達しか居なかったのかもしれないが、それならもう少しやりようがあったはずだ。協力するとか応援するとか。一緒に物件探しをしてやるとか。だって亮太がうまく話せないことくらいは知っているだろうし。

 そういう友達の影が見え隠れしていないということは、そういう友達がいないということだろう。いきなり上京したところで生活拠点がないと大変だということ。賃貸には保証人が必要であるということ。仕事を探すのは大変だということ。面接ではそれなりにコミュニケーションを要求されるので、亮太にはそれなりに大変な道のりになるということ。これらのことを教えてくれるような有益な友達がいなかったんだろうな、地元には。だから俺にもこんなふうに丁寧に接してくれて、ラインの文面だってここまで丁寧なんだ。自分を取り繕うこともしないで、バカ正直に自分の状況を話してくれる。住居がなくて仕事がない人間なんてそこまで開示しなくてもよかったのに。だって相手、俺だぞ、俺。ただのよく知らない居酒屋でちょっと接客してくれてるだけのスタッフだろ、俺。いい子だな。

 こんなに真摯に向き合ってくれる素敵なひとを欲しくなるなんて時間の問題だと思う。彼をみすみす手放してしまった田舎の人間たちは、失ってしまったひとの大きさに震えたらいいと思う。俺は彼を手放したいとは思わないし、どうにかしてこの無謀とも言える上京生活を続けさせてやりたいと考えている。だって俺たち、亮太が諦めて実家やら田舎やらに帰ってしまったら、もうほとんど接点なんかなくなってしまうのだ。亮太が男を好きになるとは限らないし、かわいくてちいさくてふわふわのいい匂いがする女の子を好きになるかもしれないけれど、それでも俺は隣にいたいと思う。彼の隣にいたいと思う。都会での一番の理解者になりたい。

 明日の朝になったら連絡を入れてみようと思う。もちろん、亮太に。この部屋はワンケーの小さなアパートだけれど、それでもホテル暮らしを続けるよりはずっと現実的だから。いつか仕事が見つかるまではここに住んでいていいよと言って、ここに住むことを提案してやろうと思う。素敵な優しさをもらったから、今度は俺が天使のようないきものを見つけて拾ったということにすればいい。大家さんには別に一人しか住んではいけないとは言われていないし、優しいひとであることは間違いないのであとで紹介でもすればいいだろう。家賃をもっと納めろというのなら支払ってやる。

 亮太は生活にお金がかからなさそうだから、しばらくは俺が養ってやってもいい。亮太にその気があるのなら、俺に養われてもらってもいい。物事に真摯に向き合うことが出来て、ただ店内を呼ばれるがままに走り回っているだけの俺にすら配慮をしてくれるような彼だから、きっとなにかしらの事情があるのだ。実家を、田舎を出なきゃいけなかった大きな問題を抱えているに違いない。そういうものなら俺にもあるからわかるんだ。不慣れでもうまく出来なくても問題だらけでも、それでも前に進もうと考えて行動した彼に寄り添って、応援をしてやりたい。これが運命でも運命じゃなくても、俺がそうしたいと考えているんだからなにも問題はないはずだ。

 メッセージのやりとりという変則的な会話だけれど、とにかくそのテンポ感が心地よかった。いっぱいこちらが送ってしまっても怒らないでくれる。嫌な顔ひとつしないで受け入れてくれる。実際には顔を突き合わせているわけではないので、嫌な顔をしていたのかもしれないけれど。それでも返事をくれていたのだ。家族とはこんな感じにならなかった。家族仲が悪いわけでもなければ、俺だけ特別に意地悪をされていたわけでもない。ゲイだということをカミングアウトできていないけれど、正直そこだって理解なんかしてくれなくていい。同じ男性を愛する仲間にすら、おまえにはネコは無理だと言われるくらいだから。同じ趣味を持っていない人間だったらなおさら、俺のことなんかわからないだろう。わからなくていい。放っておいてくれるだけでいい。

 男性が女性を愛することが当たり前だという両親の期待に答えられなくて、それがどうにも苦しくて家を出たのだ。それ以外はなにも問題がなかった。小さい頃から両親のテンションと俺のテンションが噛み合わなかったり、兄弟が俺よりも数倍優秀でプレッシャーに感じていたけれどもそれだけだったし、なにも俺に対して酷いことを言ったりしたこともなかった。友人には気にしすぎだと言われたけれど、俺には大きな問題だったのだ。誰にもこの問題の大きさを理解されないまま、俺は独立心旺盛な子どもとして実家を出た。本当にそれだけだったけれど、それは俺にとって非常に大きな問題であったのだ。それぞれにしかわからない問題の大きさを抱えて、俺は実家を出た。

 だから亮太にもそういう問題があるんじゃないかと思った。両親は実家にいてもいいと言っても、亮太は地元が嫌だったのかもしれない。嫌じゃないにしても、亮太なりに違う世界で生きてみたいと思ったのかもしれない。あるいは切迫してなにか家を出なきゃいけない理由があるのかもしれない。俺にはどれもわからないし想像でしかないけれど、どれだったとしても笑うつもりはない。彼に少しでも幸せを与えることが出来て、彼に少しでも暖かい場所を与えてやれたらそれでいいんだ。その見た目でネコは無理だとか、男性が好きなんておかしいとか、とにかく言われたくないようなことを散々言われてきた俺にとって、なにも否定しないでくれる亮太はとっても眩しい存在だった。一生懸命前を向いて、自分なりに進もうとしている亮太。その強さに励まされた俺だから、今度は俺が手助けをしよう。

 俺のことなんか利用してくれて構わない。実家を出たいと言った時、家族はみんな大げさだと言ったのだ。もっと近隣の就職先にして、もっと地元で結婚しやすいところを選んだらいいのに。そんな言葉を投げかけられたこともあった。結婚なんかしないし地元はできるだけ離れたかったんだから、就職先なんかどこでも良かった。たくさんの人間に紛れて、自分の異質さを人間の多さで塗りつぶせるようなところに行きたかった。そういうところで生きたかった。ほろり、ぐにゃり、天井が大きく滲んで涙が出てきた。泣くほど苦しいようなことではなかったはずのことなのに、あの頃のことを思い出すと泣いてしまう。亮太もそうかもしれない。泣きたいときに抱きしめてくれる存在があったらいいのにな。ごろりと寝返りを打って、ついマッチングアプリに手を出した。

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