第3話 「ぼく」がきみにときめく話

 ばあちゃん、じいちゃん。ぼくは、亮太は、ようやく都会で友達を作ることに成功したみたいです。そんなメッセージを入れる時間すら惜しくなるくらいにメッセージをやり取りしている相手ができた。しかもこの都会で。小学校から中学校、果ては高校に至るまでに出席番号が一番だったせいで友達を作ることにも失敗していたようなぼくにも、友達ができるということ。都会ってすごい場所なのかもしれないと改めてかみしめている。ばあちゃんが都会に出ることを勧めるときに言ってくれた「都会はいろんなひとがいる」という言葉の意味をもう一度噛み締めて、そうしてこれかあと納得している。

 都会の一日は目まぐるしい。一時間という長い時間がほんの数分みたいになってしまうくらいに忙しいけれど、この忙しさもぼくにはちょうどよかった。忙しいからみんなぼくのことをいちいち集中的にどうにかしようとしないでくれる。ひとつひとつ言葉を発するのに時間がかかると理解したらすぐに諦めてくれるし、はい次、というようにぼくのことを避けてくれる。どうしてもやり取りが必要なときはそそくさとスマホなりタブレットなりを持ってきて意思疎通を図ろうとしてくれるし、言葉で話すことの必要性にこだわっていない。喋れない人間がいることを普通に思ってくれていて、ぼくがちょっとしゃべることにつっかえてもびっくりしないでくれる。そういう人間もいるんだな、くらいのスタンスで放置してくれる。こんなにありがたいことはない。

 上京してきて初めて連絡先を交換した彼もそういうタイプではある、はずだ。ぼくが喋れようが喋れなかろうがあんまり気にしていないみたいだし、喋れないということに大きな驚きをみせたりしないでくれている。喋れないならスマホでやりとりしようよって感じですぐに切り替えてくれるし、話せるようになろうなんて無茶も言わないでくれる。こっちだってもう二十年以上この言葉のでにくさと付き合ってきているんだから、ちょっとなにかをやったくらいで喋れるようになるなんて思わないで欲しい。そういうところはあの田舎の悪いところであって、傲慢なところだなあと思うんだ。思い出すたびにちょっと思う。他人に対して興味津々すぎるっていうのかなあ。ぼくが喋れなくても良いはずなのに、いちいち自己紹介で出席番号順にやらせる感じも嫌いだった。喋れないことを知っているくせにそういうことをしてくる教員たちとぼくは、本当に相性が悪かったから。

『今日はそっちは何時まで起きてる予定?』

 こちらでの初めてのお友達にあたる、八神くんから連絡が入っている。相変わらずぼくの拠点は八神くんが働いている居酒屋さんのすぐそばの安いホテルでのままで、今はそのベッドの上からラインを送っている。ピロンピロンと着信を知らせる音を聞きながら、どうにもならない現実から目を背けるようにうとうととしたりテレビを見たりして過ごしている。上京資金として貯めたお金はまだあるけれど、いい加減にそろそろ現実を見なきゃいけないタイミングではある。実家にも田舎にも戻りたくないけれどこのままじゃぼくが野垂れ死ぬことも時間の問題になってしまうから、本格的にどうにかしないといけないのかもしれない。どうにかって言ったってどうにもならない。あまりの長期滞在にそろそろホテルのフロントのひとが怪しんできていたらどうしよう。

 しかしどうにも現状を打破するにはもはやぼくだけの力では手詰まりになってしまったのも事実だ。バイトなんかあの田舎の山奥で暮らしていた以上、ほとんど経験もない。言葉がうまく出せないという問題のせいで面接は惨敗だし、面接がうまくいかないってことは定職につけていないということになって、不動産屋さんもぼくのことを相手にしてくれない。じいちゃんもばあちゃんも連帯保証人になってくれると言っているし、そういうつもりで手続きをしようとしているのに、とにかく相手にしてもらえない。仕事をしていないひとに部屋を貸すような大家さんがいないと言われたらそうなんだけど。でも、ぼくはあの田舎にはもう帰りたくないし、帰ったところでぼくが生活するための環境もない。じいちゃんとばあちゃんは年金で暮らしながら農業をやっているけれど、それだってぼくが跡をついで生活できるほどのものじゃない。

 ホテル暮らしから脱却したいけれども不動産屋さんにアピールできるだけの話術もなければ安定した仕事も収入もないから、いよいよ生活拠点に関しては八方塞がりだ。じいちゃんでもこちらに呼んで一緒に探してもらえばどうにかなるのかな。けれどそれならじいちゃんがこの先死んでしまったときに同じことが起きてしまう。いつまでもじいちゃんがぼくと一緒にいてくれるわけもないし、じいちゃんは先に死んでしまうからそこまで当てにしてもいけない。うまく言葉を発せないぼくの代わりに交渉をしてくれるような友達でもいればいいけれど、残念ながらそういうことに関してはもっと期待できない。

『明日も特に予定がないからぼくはゆっくりするつもりだよ、そっちは?』

 ひとつあくびをしながら八神くんに連絡を返した。何回か居酒屋さんに通っているうちに、彼の名前を覚えることに成功した。彼は八神くん、おそらくあの居酒屋では上から二番目くらいにえらいひとだ。一生懸命に仕事をして、いつでも誰かに頼りにされている。スタッフの誰かが至らないところを全部補うように動きながら頑張っている彼のことは、いつも誰も気付いていない。八神くんの上司にあたる店長さんは八神くんのことを扱き使っているし、他のスタッフさんはなにかあるごとに彼を呼びつけて対応させている。そんなに忙しいお店に筆談だの指さしだのと配慮を要求するぼくが行ってしまっていいのかなと思うけれど、売上になるわけだしぼくは急いでいないのでいいことにして、顔を出している。

 彼は本当にすごくてえらいひとだ。いつでもなんでもしっかり頑張ってお仕事に取り組んでいる。本当にすごいひとだなあと思う。ぼくにはああいうことはできそうにない。自分が走り回った結果は自分の功績にしてほしいし、誰かの不始末を自分が尻拭いすることもあまり好きになれない。店長ならちゃんと店長として八神くんのことをサポートするくらいの貫禄が欲しいのに、残念ながらそんなことはなさそうだった。社会経験のないぼくだって見ているだけでわかる、あそこのお店は八神くんの優しさと心の広さにおんぶにだっこで保っているようなお店だと思う。それなのにみんな彼の優しさに甘えて好き勝手にして、彼が困った顔をしたりミスをしたりしていると冷たい顔をする。客のぼくが見ていてわかるくらいなんだからさ、もっとちゃんとスタッフ同士でコミュニケーションを取ったほうが良いと思う。

『俺も明日休み』

『そっちは夜更かし得意?』

 ポコポコ、と聞き慣れない音がしてスマホに意識を集中させると彼から二つ立て続けに連絡が来ていた。ラインの画面に吹き出しが二つ並んでいる。立て続けに連絡がくるとこういう音がしてこんな表示になるんだなあなんてのんきなことを考える。ぼくにはラインで積極的にやりとりするような友達はいなかったし、連絡先の登録は田舎に残してきたじいちゃんとばあちゃんくらいのものだった。近所のおじさんやおばさんは電話番号は知っているけれどもラインまで交換はしていない。だってぼくは彼らにとっての子どもではないから。じいちゃんやばあちゃんは頑張ってラインのやり方までは学んでくれたけれど、こんなふうに立て続けに二つ送ってくれるようなことはない。まずこっちのスピードに追いついてこれない。

 スマホが吹っ飛ばないように両手でしっかりと抱え込んでから、画面の余計なところを押さないように再確認して、そうしてぼくはベッドの上でゴロンゴロンと激しく転がった。だってだって、八神くんがかわいい。身長もぼくより高いけれどもかわいいんだ。まだ彼にそれを指摘したことはないけれども、彼はきっと本来ならかわいいほうの部類だと思う。ぼくにはわかってしまう。見ているだけでなんとなくわかる。身長が高いから、筋肉がしっかりついているから、よく大きなものを運ぶように頼まれているのも見ているけれど、きっと彼は本来はそういうことをしてもらいたい側のひとだ。ぼくにはわかる。構う側より構われたいタイプのひとだと思う。そういうところも含めてかわいい。このメッセージだってきっと本当は、「一緒に夜更かししよう」って言いたかったと思うんだよね。でも、それが言えないんだ。かわいくていじらしい。あれほどに男らしい見た目をしている八神くんがそんなことを心の奥でくすぶらせているっていうのがまたかわいい。かわいいのかたまりだね、八神くん。

『ねえ』

『寝ちゃった?』

『なんだ』

『そっか、おやすみ』

 ポコポコポコポコ。聞きたてほやほやの音が四つ続いてなにごとかとスマホを覗き込んだらこれだった。ちょっと時間が空いただけでこれだ。都会のひとはやっぱり体内時計がぼくのような田舎から出てきた人間とは違うもので出来ているのかもしれない。ちょっとくらい待っていてくれてもいいじゃないかと思うけれども八神くんも気を使ってくれたのかもしれない。それに疲れているのかもしれないし。八神くんはぼくが上京してきて居酒屋に通い始めてかれこれずっとスタッフとして勤務している。それってつまり、一週間近くずっと休みがないってことになる。

 居酒屋さんはなくてもファミレスは田舎にもあったから想像はつく。定休日のない業種はそれなりにみんなシフトを組んでかわりばんこに休みをとるっていうこと。そういうやり方をしているってことはぼくにもわかる。けれども八神くんが働いている居酒屋さんはどう見ても人員が足りているとは思えないし、どう考えても八神くんのいろんなものにおんぶにだっこだろうから彼に休ませてやろうという配慮がないのだと思う。法律でどう決まっていようとも、最終的にそれを守るのも守らないのも人間だ。ばあちゃんやじいちゃんのように自営業でもない以上は自分だけの判断で物事を決めるわけにもいかないだろうから、必死に歯を食いしばって耐えているんだろう。

 だから健康のことを考えたらこのままぼくは寝落ちなるものを装って返事をしないのが正解なんだろう。模範解答ってやつだ。けれどもぼくは模範解答も規律もルールも、ついでに一般常識もくそくらえと思っているタイプなのでそういうものは全部無視してやるのだ。だってこの「そっか、おやすみ」っていう一文。ものすごくかわいさが溢れている。気のせいでもなんでもないよ、かわいいもの。話したかったんでしょう、ぼくと。少なくともぼくに興味を持ってくれているんでしょう。そうじゃないといくら面倒見が良くても職場でちょっと大変そうだと思った人間に連絡先を渡すようなことをしないと思う。友達に飢えているってタイプでもなさそうだ。あれほどに頼られている彼なのだから、もっと日常生活では頼られながら生きているんだろう。

『起きてるよ、遅くなってごめん』

 あんまりきみがかわいかったから悶えていたんだ。まだそれは送るには早いだろうと思ったから踏みとどまった。すぐに既読がついてしまう。ぼくの連絡を待ってくれていたのかなあ。もしかして寂しがりやさんなのかな。都会に来てみて思うけれど、誰も自分のことを気にしないでくれるということはとても救いになる一方で、ときどきどうしようもない大きさの孤独とさみしさが襲ってくることがある。上京してきてちょっとしか経っていない、まだまだホテルで借りぐらしをしているようなぼくですら感じることなのだから、もっともっとこの都会に根を下ろしているように見える八神くんには大きななにかが襲ってきたりするんだろうか。そういうの、ぼくにぶつけて良いんだよ。ぼくはきみに助けてもらったから、ぼくだってもっともっときみの助けになりたい。もう少し仲良くなったらこれを伝えてみるつもりだ。

『起きてた』

『おれ、八神悠太』

『登録しといて』

 若いひとはこうやって文章にしないでラインを送り合うのが主流なのかもしれない。じいちゃんやばあちゃんとやり取りするときは全部文章にして送っていたけれど、八神くんはそうじゃない。若いひとというか八神くんが詐欺レベルで若作りをしていないのだとしたらほとんど同年代だから、きっと本来はそうやって使われるものなのかもしれない。たしかにそっちのほうが早く送れるし、早く相手に気持ちを伝えることができるんだ。ぼくは自分が喋れない分も伝えたくて、ついついその気持ちまでが指先に乗ってしまうから長文で送ってしまうことが多いのだけれど。なんだか考えれば考えるほど、人里に初めて降りてきたクマみたいな心境になってくる。クマ、そんなにおだやかな生き物じゃないけどね。田舎でクマが出たら大騒ぎだよ。農作物もそうだし家もそうだし自分たちの命もそうだし、とにかく守らなきゃいけないものしかないからね。

 こうやってさり気なく自分の名前を送ってくるところもかわいいなと思うポイントのひとつだ。コミュニケーション能力が高いのかもしれないね。ぼくはぼくで他人には負けないコミュニケーションにおける特技があるから、そこまで劣等感を抱くこともないのだけれど。高校時代で例えるなら、常にまわりに友達がいてわいわいやっていたパーティー系のひとだったりしたのかもしれない。明るくてかっこよくて、みたいな。でもぼくの特技によると、ああいうグループに属するひとはみんなそれぞれ大きな悩みのようなものを抱えているんだ。百パーセントじゃないけれど確率は高い。八神くんもたぶん悩みを抱えながらそれに蓋をして明るく振る舞っていたタイプだと思う。このメッセージたちから溢れ出るかわいさはきっと、彼をたくさん悩ませたはずだ。いいなあ、かわいいなあこの子。ぼくのものにしたいなあ。

『ぼくは吾妻亮太っていうんだ。読み方はあずまりょうたね』

『おまえもうたなんだ』

『おれもうた』

 すらすらとメッセージが返ってくるのを見てはまたぼくはゴロンゴロンとベッドの上で転がってしまう。こんなにきゅんきゅんときめくのはいつ以来だろう、はじめてじいちゃんが軽トラックの荷台に乗せてくれたとき以来かもしれない。ばあちゃんはぼくの感情の揺れ動きが少なすぎることを心配していたけれど、それもやっぱり田舎特有の刺激が少ないからだったんだね。ぼく、今すごくどきどきしている。かわいい、かわいいよ八神くん。ひらがなで入力したほうが早いからなのかな、ほとんどがひらがなだけれど。そこもまたかわいいポイントを底上げしてくれている。古代の有名な作家の皆様、ひらがなという文字を発明してくれてありがとう。大きく感謝いたします。こんなに人間がたくさんいる都会でこんなにぼくのツボを的確にプッシュしてくるひとに会えるなんて思ってもいなかったから、感動している。

 ぼくには特技がある。言葉をうまく発せないからこそ発達した特技だと思っているけれど、実際は他にも得意なひとがいるかもしれない。でもまあ、これはぼくの特技だからぼくは誇っている。うまく喋れないからって悲しいことばっかりじゃないんだよね。それで、特技。見ているだけで人間のこころの奥底に隠しているものがなんとなくわかるってこと。超能力でも読心術でもなんでもない。なんとなくイメージでわかるってだけ。ニコニコ笑っているひとを見ると、本当はこのひと楽しくないんだなあってわかるくらいのものだから、大したことがないと言われればそう。聴覚障害者の視覚がものすごく発達するとか、視覚障害者がものすごく気配に敏感になるとか、そういうものの延長線上にあると思ってもらっていい。とにかくぼくのそれは、予想を外さないってことが誇れるポイントでもある。

 顔を見なくても声だけで本音がわかる。声色を聞くだけでなんとなくわかる。あとは声がなくても表情を見るだけでわかってしまう。マスクで顔の半分が隠れていようともわかる。逆にサングラスで目元が全部隠れていても手に取るようにわかるし、その想像はだいたい外さない。高校時代はそれで何度も修羅場をくぐり抜けたし、言葉をうまく発せないことによってお説教が始まりそうなときはその特技を駆使して逃げ回ったことだってある。逃亡成功率は百パーセントなので、これはもう百発百中と言ったっていいだろう。とにかく外さない。そのひとの欲望、感情、本音、そういうものを全部探ることができる。誰かのこころの中を覗き見しちゃってるみたいだけど、ぼくはうまく話せないからその分のアドバンテージだから。大したことはないとも思ってる。別に問題ないでしょ、お互い様だよ。だってぼくうまく喋れないから。誰かに言いふらしたりもしないから安心して欲しい。好きなだけ腹黒いことを考えていていい。

『やがみゆうたくん、でいいのかな』

『違うんだよねえ』

『やがみはあってる』

 相変わらずかわいいし相変わらずレスポンスが早い。現代人って感じがする。ぼくも同じ世代なのに、同じ時代に生きているのに、同じ現代人なのに。八神くんとたくさんメッセージをやり取りしていったらそのスピードまでたどり着けるかなあ。今度話題に困ったときはそれを話そうと決めて、彼からのメッセージに集中する。ひらがなが多いのはスピード重視だからなのか、それとも変換することを面倒くさいと思っているのか。変換が面倒だとしても、それでもぼくと話そうとしてくれているのはとってもうれしい。うれしいという気持ちが膨らんで膨らんで、ついうっかりかわいいキャラクターがジャンプでうれしそうに跳ねているスタンプを送り付けてしまった。返事が止まる。既読はついている。今度はあっちが寝落ちしてしまったのかなあ。疲れているのかな、それなら遠慮なく眠って欲しい。明日もぼくは節約のためにホテルから出る予定がないから。

 ぼくが八神くんのことをかわいいと思っているのは、きっとぼくの特技が関係している。きっとっていうか絶対だ。違う色の名札をつけているスタッフに呼ばれて慌てて返事して行くときの彼を見ていれば一番よくわかる。とにかく嫌ですって感じなのに嫌な顔ひとつせずにその場にまっすぐ向かっていくのだ。呼ばれたら断らないし、ものすごくいやでもちゃんと対応している。けれど対応が終わったときはいつも褒めてほしいなって思ってるし頑張ったのになあ、なんて思っていることもある。スタッフのひとが対応しきれないときには代わりに怒鳴られていることもあることもあるらしい。こころの中では泣いていたり怒っていたりして、それでもちゃんと申し訳無さそうな顔をして頭を下げているところも見たことがある。ちゃんとしている。だけど、誰も彼を褒めない。言葉の上の感謝だけ。

 もっと大事にされたいのにな、と思っているのも見たことがある。とにかく忙しそうに走って回っていて、店長にあたるひとは暇そうにお会計の前のデスクに向かっているだけのこともある。八神くんはいつでも一生懸命頑張っているのに、誰もそれにお礼を言わない。感謝をしない。全部全部当たり前だと思っている。ただの客でしかないけれど見ていてどきどきするし心配になる。いつか八神くんがこころの中に抱えているさみしさとか一生懸命な部分が爆発しちゃうんじゃないかって思いながら、いつもぼくは彼に注文をお願いしてしまうんだ。だってぼくが呼ぶと、ちょっとだけうれしそうだから。ぼくもうれしいし彼もうれしいならメリットしかないと思ってお願いしてしまう。少しでも彼の役に立ちたくて、彼のためになりたくて注文をお願いする。烏龍茶一杯だけでも、なんでも。

『寝た?』

『起きてるよ。やがみゆうたくんじゃないなら、なんて読むのかなあって考えてたところ』

『おれ、うた』

『悠太って書いてうた』

『うたくん?』

 なるほど、うたくんっていうのか。ゆうたじゃないんだ。名前までかわいい。感心しながら確認のためにメッセージをひとつ飛ばしてみると、急に返事が止まってしまった。ぼくなんか変なこと言ったかな、心配になって読み返す。ぼくの感覚ではなにひとつ変なことを言っていないのでおそらく彼のなかでなにかが起きてしまった可能性がある。それとも本格的に寝てしまったとか。寝てしまったのならせめて布団のなかで眠っていてほしいなと思う。あれほど普段からがんばって働いているのだから、せめて寝ているときはあたたかく安らげるように過ごしていてほしいなと思うんだ。八神くん、もというたくんにいっぱい助けてもらっているしいっぱいときめきももらっているから、ぼくにできることはなんでもしたい。安眠を心配することとか、あるいは注文をお願いするくらいしかできないけど。彼はすごいんだ、ぼくが戸惑いながら手を挙げるとすぐに飛んできて確認してくれる。本当に気配りがすごくて、疲れちゃわないかなあって心配になる。でも不思議なことに、ぼくが呼ぶと毎回彼は嬉しそうな感じになるから呼ばせてもらっている。あんなに視野が広かったらやっぱり疲れてしまうんじゃないかと思うんだけどどうなんだろう。大丈夫なのかなあ。

 返事が来ないからこれまでのやり取りを見返してみる。今日は初めて彼の名前を知った日だった。もう既に彼の居酒屋さんのスタッフのひとには顔を覚えられているほどにお店には行っているのに、言葉を話すことに精神的に抵抗があるぼくと色んな人に頼られて呼ばれて忙しそうな彼という困難だらけの組み合わせのために、一度も落ち着いて自己紹介すらしたことがなかった。ぼくはうたくんが八神くんと呼ばれているのを知っていたから一方的に名字だけ知っていたけれども、向こうは名字どころか名前も知らないままでぼくとこうして毎晩のようにラインで話をしてくれていた。ラインの名前だってりょうたってひらがなで設定しただけだから、まあなんとなくぼくのことをりょうただと知ってくれている、くらいのものだろうし。いずれにしてもやっと自己紹介できたと思うとまた少し彼と近づくことが出来たような気がする。うれしい。

 返事がこない。本当に寝ちゃったのかな。寝ちゃった?って送ってみてもいいのかな。けれどももし着信音や通知音で起こしてしまったらかわいそうだし、お疲れのうたくんを起こしたくはない。できればぐっすり寝ていてほしいし、なにも心配することなんかないくらいの安心した気持ちで過ごしていて欲しい。いつもお仕事であれほどいろんなひとのために頑張っているんだから、休みの日くらいはゆっくりしたっていいと思っている。じいちゃんもばあちゃんもまわりの畑のみんなだって言ってたよ、うたくん。頑張って働くために休むことも大事なんだっていつも言ってた。年は取ってるから時代についていくのは大変だけれど、ぼくみたいにわかりにくいものを抱えている人間にも「それでいい」って言ってくれるやさしいひとたちだから。きっとそんなに間違ったことは言っていないと思うんだ。

『ごめん』

『びっくりしてた』

『起きてる?』

 数分おきに起きてるか確認してくるの、やっぱりかわいいようたくん。本当は寂しかったりするのかなあ。そんなに睡眠時間かなと思って時計を確認したらたしかに、ぼくも田舎にいた頃は部屋を真っ暗にして寝静まっている時間ではあった。でもぼくは明日も残念ながら面接も不動産屋さんめぐりもないから、ホテルから一歩も出ないんだよね。いくらでも夜更かしはできる。そうやって説明してあげたほうが彼も安心してくれるのかな。ぼくと話すことをそこまで重要視してくれていたらの話なんだけど。でも、少なくともどうでもいいとは思っていなさそうだからな。そう思っているなら会うたびに、お店に行くたびにあんなふうに嬉しそうにしないだろう。見ている限りでは他のお客さんにはそんな態度を取っていないし。ぼくのことを少しでも気に入ってくれているはずなんだけどな。

『うたくん、起きてたんだね。眠たいんじゃないの?お布団に入っていてね。ぼくは明日もお話ができるから』

『うん』

『りょうたって呼んでもいい?』

『だめだったらだいじょぶだから』

『だめならだめって言って』

『まじたのむ』

『ねえ』

『寝た!?』

 一人で一方的にものすごい勢いでメッセージを送ってくる彼に、思わず口角が上がってしまった。これはもう多分間違いないよ、きっとうたくんはぼくのことを好きだ。それが恋愛なのか友情なのかは聞いてみないとわかんないけど、でも間違いなく好感は抱いてくれている。ぼくもきみのことを好きだから一旦は両思いってやつになるよね。こんなふうに同年代と真摯に向き合ったのなんか初めてだから、どきどきしてわくわくして、こころの奥もきゅんきゅんしているよ。自分で自分の感情が他のひとにできるみたいに見えたのなら、きっととても楽しそうにしていると思う。高校までは本当に感情を見透かして、いかに喋らずに楽に過ごすかみたいなことしか考えていなかったから。こういうやりとり、本当に新鮮で楽しくてしあわせだ。

『起きているよ、うたくん。ぼくは上京してきたばかりで仕事も住居も見つけられていないから、明日もきみの居酒屋の近くのホテルから出る予定はないんだ』

 こうやって言ってあげたらうたくんは安心してくれるかな。それにしてもあんなにザ・男って感じに男らしくてかっこよくて頼れるイケメンって感じの彼がこんなふうにぼくの一挙一動で動揺してくれるのはかわいくていいなあ。本当は寂しがり屋で甘えたくてひとりがいやだったりするのかな。日程があったら、今度ぼくが自宅を見つけたときには一度くらい招待して、一緒に寝てもいいかもしれない。さみしくて不安なときはじいちゃんが一緒に添い寝をしてくれて、そうすると不思議と安心したんだ。今度はぼくに大事なひとが出来たらそういうことをやってやるんだぞ、ってじいちゃんはぼくに教えてくれたんだ。うたくんと添い寝、いつかできるといいなあ。それとも都会のひとは添い寝とかしないのかな。どっちでもいいや、ぼくはぼくの価値観でうたくんに接すればいいのだから。

 うたくんからの返信はない。落ち着いてリラックスして眠ってくれたら一番うれしい。明日は彼が勤務しない日だろうから、コンビニのご飯に挑戦するのもいいかもしれない。高校の近くには一軒だけコンビニがあったけれど、あれはどれだったっけ。都会にはコンビニの種類もたくさんあるしせっかくだから一度も見たこともないようなコンビニでご飯を買おう。あんまり無駄遣いばかりしてはいけないけれどもこれくらいは大丈夫なはずだ。そのうち住む場所も見つかって、仕事も見つけられるようになるだろう。ポジティブなひとのところにはポジティブなことが舞い込んでくるとばあちゃんも言っていた。

 返事はないしそろそろ寝よう。マナーモードにして、枕元にスマホを置いてぼくは目を閉じた。また明日ね、世界。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る