第2話 「俺」がきみを想う話

 ラストオーダーを過ぎても居座る迷惑な酔っ払い共を追い出して、それから遅くまでアルバイトに入ってくれている連中を見送ってから店を掃除して。これでようやく俺の一日の仕事が終わる。店長は店長で明日以降のメニューの在庫確認やら発注の漏れやらを確認しているので、その間に俺は今日のスタッフたちがきちんとタイムカードを切って帰ったことを確認する。掃除はときどき他のスタッフがやってくれるけれども深夜勤務を終えたスタッフがそんなことを自主的にやってくれるのは稀でしかないので、そこを当てにするわけにもいかないし勤務内容にフロアの掃除なんか足そうものならただでさえ少ないスタッフが逃げかねない。だから明文化することもなく、もしやってくれるならありがたい、くらいのスタンスで振る舞っている。ぶっちゃけやっていって欲しい。俺には荷が重すぎる。

 フロアの掃除を終えてしまえばあとは店長の仕事が残っているだけなので在庫表と発注書と納品伝票とにらめっこをする相手を放置して、ついでに黙って帰るのもあまりにも可哀想なので一声だけかけてやって俺は仕事をあがることにしている。繁忙期には手伝ってと泣きつかれることも少なくないけれど、そういうときも臨機応変に対応しているつもりだ。具体的に言うなら、手伝ってやる元気があるときには手伝うけれどそうじゃなかったら帰るってこと。あんまり親切にしたらこの手の人間はそれに甘えて全部こっちにおんぶにだっこになってしまうし、かと言って突き放しすぎるといよいよ戦争が起きかねないし仕事もやりにくくなるのでほどほどに。なにごともほどほどがちょうどいい。

「おつかれさまでーす」

「あー……八神くん、今日ありがとうね……」

「なんすかその入り……今日は伝票整理付き合えませんよ」

「えっ」

「どうして」

「いいじゃん……僕ときみの付き合いだよ?」

「いやあちょっとね、今日はね」

「どうしてー?」

 どうしてじゃねえようるせえな、見返りもないのにそんなに優しくしてもらえると思ってんじゃねえよ。俺の仕事を増やしたいならもっとそれ相応の給料をよこすなりなんなりしろよ。言ってやりたいことはたくさんあるけれども、今後の職場での立場なんかを考えると言わない方がいいので大人しく黙ってにっこりと笑ってやる。まあ店長が大変なことはわかりますよ、わかります。わかりますけどそれはもう俺の仕事じゃないし俺ができることでもないんだよなあ。俺がこの仕事を辞めたくなったらアンタ一気に詰むからね。ちゃんと自分で自分のできる仕事量を管理する癖をつけたほうが良いですよ、うちの会社だって一時期流行ったどブラックの会社に比べたらずっと上も聞く耳持ってくれるからね。ちゃんと上にノーって言ったほうが良いですよ。

 上にいい顔をし続けたがる上司もとい店長はこうやってできない仕事内容を抱え込んでピイピイ言うのが常だ。俺以外のスタッフ連中はみんなその行動原理に気付いてしまっているので、誰も手を差し伸べない。昔だったら違うのかもしれないけれど、今はそういう時代じゃないからな。職場での飲みとかもそれなりに断られたり嫌われたりする時代でもある上にみんな言葉遣い一つにも気を配らなきゃいけない時代だ。うちの上司はそんなことないけれど、系列店の別の店長は言葉の使い方を間違えたせいで大騒動になったと言っていた。まあ時代は変わるから。俺がちょっと人並み以上に根性があるだけで、俺のことを基準に構えたらとんでもないことになるからね。いちいち言ってやらないけれどこころの中では抱えている。

 そもそも俺と店長の関係ってなんなんだろうと考えてみる。こうやってごちゃごちゃ駄々こねている時間があるなら伝票整理に集中すればいいのにそれもしない。そういうところがあんまり好きになれないので、つまるところ俺はこの上司のことをあまり好きになれないでいる。多分他のスタッフもあまり好きじゃないんだろうな、この店長のこと。なんていうか地雷が多すぎる。店長に向いていないと言いながら店長をやり、スタッフにべったりと甘えている。頼られてうれしいのは最初だけで、どんどん増えていく仕事量に毎回みんな疲弊してやめていく。そのからくりに気付いたときに俺は手を出すようにしたけれど、これじゃあ俺も時間の問題でやめるしかないってレベルになっている。

 できませんやれませんと言えば上は引き下がってくれるのにそれをしないでいい顔ばかりしようとする。いい顔をするために一体どれくらいのリソースが割かれているのかということに気付いてもらいたい。一昔前の「アットホームな職場」を体現している最低な職場です。先日飛んだとかいうアルバイトくんの履歴書をシュレッダーにかけてやりながら考えてしまう。次に求人広告を出すときはそうやって書くように進言してやろうか、冗談じゃねえよ。もっと新人スタッフを大事にしてやれよ。踏み込み過ぎなんだよ。ガガガガガガと今にも壊れそうなレベルでうるさい音を立てて履歴書を吸い込んでいくシュレッダーを見ながら今日出会った不思議なお客さんについて考えてみる。

 喋れないわけではないんだと思った。喋ることがあまり得意ではないだけで、きっと喋れないというわけでもないのだ。聞こえないわけでもなく喋れないわけでもない。日本語の、国語のテストに出てきそうな問題だなと思いながらも考えてみる。ただ苦手だったから注文がスムーズにできなかったのだろう。そんなのは大都会にいればいくらでも出会うチャンスがあるし、実際デパートなんかに出向くとそういう客を相手にしているスタッフを見ることもある。対応に困っているひともいればゆっくり落ち着いて喋らせるスタッフもいた気がする。ああいうのはどれが正解なんだろうな。心の奥をチリリと焦がすような気持ちになりながら考える。うちの店長に対応させなくて本当に良かった。このひとはデリカシーってものがなさすぎる。本人はあるつもりなんだろうけど、決定的になにか足りない。

「そうだよ八神くん」

「……なんすか」

「機嫌悪いね……」

「もう勤務時間過ぎてますから着替えて帰りますよ、俺」

「そんなドライなことを言わなくても……」

 仕事だからドライに決まってんだろ。仕事じゃなかったらおまえみたいな面倒くさいやつと会話とか絶対しねえからな。毒づくことを忘れないようにしつつ適当に笑ってロッカーに引っ込んでやる。あのカウンターのお客さんの話にでもなったらどうしようかと思ったから、そうなるまえに話をぶった切ってやった。この店長はそういうところへの配慮がまるでないのだ。想像力もあまりない。自分が感じたものと見たものが全てで、自分と違う物差しを持つ人間のことを理解しようとしない。上に立つ人間なのにこのザマだ。いい加減にしないとマジでスタッフ居着かねえよ。角が立っては面倒なので進言もしない。俺には関係ない。

 店長はようやく伝票の整理に手をかけ始めたのでそれを見ながら着替えを始める。着替えたらさっさと帰ってやろうと思っていた。明日も、というか今日も文字通り仕事だし次の休みは明後日だ。明日だったら伝票整理もちょっとくらいは手伝ってやってもいいけれど今日はお断り願いたい。ドライっていうかもう今は令和の時代なんだからもうちょっと価値観を更新したほうが良いと思う、このひとは。世の中にはいろんなひとがいて、いろんな背景を持った人間がいろんなことを考えながら色んな仕事をしているということをわかるべきだ。さっきのスタッフもそうだけど。まああっちはまだまだこれからの人生だからいいしこれからいろんな経験を積み重ねるだろうしいろんな出会いもするだろうからいいけれど。問題はこっちだ。マジで。

 イライラしながら着替えていたら荷物の中でスマホが震えているのを見つけた。連絡でも来たのだろうか。誰から。時計を確認して深夜であることを再確認してから考える、両親は今頃もうとっくに眠っているだろうし両親に限らず家族だってそうだろうし、友達はそもそもこんな時間に連絡をよこしてくるほどに深く付き合っているやつがいない。俺のラインの最終受信は一昨日だし誰からも日常的な連絡はこない。学生時代もそこまで深い付き合いをしてこなかったし家族とも関係はそこまで親密なものでもない。家族でやりとりするためのグループラインは存在しているけれどもそれだって去年から一切動いていない。もともとそういう人間関係を築きやすいタイプなのだ、俺は。それを俺が良いと思っていようがいなかろうがそういうものなのだ。

 上着を羽織りながらスマホに目を通していれば店長が伝票そっちのけで覗き込んでくるので、ため息を吐くことを我慢するので精一杯になってしまう。だからこういうところなんだよなあ。デリカシーが無いと言うか他人に対しての距離感がおかしいと言えば良いのか。大人だから指摘したって仕方がないから我慢しているけれどもおそらく、っていうかほぼ確実に今まで飛んだバイトスタッフの何人かはこの距離の詰め方に引いて辞めていったんだろうことが想像できる。芸能人で誰が好きとかそういうのは本人が言いだしたらにするんだよ。友達じゃないからそういうことを聞かれたくないと思っているひとだっているんだよ。隠したいひとだっているんです。そういうひと相手にグイグイ行ったらドン引きされるに決まってんだろ。

 スマホの画面をさり気なく死守しながら考えた。このひとがあのカウンターのお客さんの対応をしないで本当によかった。あのひとは喋れないというわけではないだろうけれど実際問題喋りたくはなくて、喋ることに何かしらの難しさのようなものを抱えていて、それを説明するにも結局喋らなきゃいけないから困っていたのだと思う。スタッフに言わせると数日間うちの居酒屋に通ってきているようだったし、そのわりには注文している内容も控えめでたくさん食べている様子もなかったし、注文したものを大事そうに写真を撮っているような様子からも只者じゃないのは感じ取れた。だけれどもいちいち警戒していたら日が暮れるしそういう「やばい」案件じゃなさそうだから様子を見るだけにしておいた。まあ実際喋れなかったらなにかしら困ることはあるだろうから電話番号も連絡先も渡しておいたけれど。

 ラインの受信を示す通知が出ているのを確認してしまって、久々の仕事以外の人間との交流を予感した自分の心臓が少し踊ってしまった。恥ずかしい。まるで人間との交流に飢えている化け物みたいな言動になってしまった。デリカシーゼロの上司に覗かれていないことをもう一度確認してから、そのままポケットにスマホをしまおうとする。ブブ、と更にスマホのバイブレーションが音を奏でたのでここを出たらすぐ確認することを決めた。このタイミングで連絡をくれたってことはたぶんあの、喋れなかったカウンターの彼だと思う。いつもだったらこんなふうに客に対して公私混同レベルの親切をすることはないけれど、今回は特別だ。だって彼はかわいかったから。めちゃくちゃかわいかったし、なにか裏がありそうな顔をしていたのだ。ちょっと気になってしまったから声をかけた。

「じゃ」

「待って八神くん!あのさ、今日……」

「なんすかもう、なんかあるならはっきりしてください」

「わかったわかった。今日のカウンターのお客様対応してくれたの八神くんだよね?バイトの子が言ってたから」

 俺だったらなんだって言うのだろう。なにかクレームでも入ったのだろうか、入るわけがないだろう、彼は話すことを極度に嫌がっていた様子だったし、そんなことをどうにかしてまで口を開こうとするとは思えない。クレームじゃないとしたらなんだろうか。お礼をいちいち無理をして声に出して言うとも思えないし、そういうこともちょっと期待をして連絡先を渡したのだ。ちゃんとお会計をしていたのも見ていたし、あの身長と体格でまさか未成年ということもないだろうし、飲酒だってしていなかった。烏龍茶だ。いちいち彼のことで店長にこんな時間に絡まれるいわれはない。振り切って早く帰って風呂に入って寝たい。おまえと違って俺は明日もロングのシフト入ってるんだよ、こうやって俺に甘えてほどよく休息とってるおまえとは違うんだよ。

 ぶつけそうになった暴言をなんとか飲み込んで店長に先を促す。誰が誰の対応をしようとこの店では良かったはずなんですけど。仕事をしないでこちらに割り振ろうとする店長の言動にイライラして態度が悪くなっていることなんかとっくに自覚している。早くこの仕事をやめたいなあと思う原因もこのひとだ。系列店に異動すればこのイライラみたいなものは消え去るのだろうか。このひとの下で働くことをやめたらもっと俺は、この満たされない感情みたいなものを飲み下せるようになるんだろうか。転職するって言ってもなあ、実家にはちょっと帰りたくないし。仲が悪いわけでもないし勘当されたとかでもないし平和に一人暮らしを始めただけだから、戻ろうと思えば戻れるけれども。積極的に戻りたいわけでもない、あの家に。

「カウンターのお客様、ここ数日ずっと毎日来てるじゃん?」

「そうらしいっすね」

「ちょっと不気味じゃない?」

「……はあ?」

「いや、だってさ、自分から喋ることもしないのに、ずっと毎日うちに来てさあ……そりゃあ飲食してくれるからうちへの売上にはなっているけど」

「なにか変なことされたスタッフが居るんですか?」

「いや居ないけど」

 荷物を掴んで帰る支度を整えた。どうせあと数時間したらこの場所にまた出勤しに来ることを考えると、いちいち帰ることすらバカバカしくなってしまうけれど、今日はもうとにかく一刻も早く帰りたかった。なんだよこの店長。これがうちの店を取り仕切る管理職だと思うと泣きたくなってくる。成人したての若いフリーターみたいなことを言わないで欲しい。今の多様性を認める時代ならばフリーターにしてももう少しマシな発言をするはずだ。不気味なんて言葉は使わないだろう。

 自分から喋ろうとしないことがどうして不気味と言われることにつながるのだろうか。握りしめたバッグの取っ手に爪先がぎりぎりと食い込むような音がして、冷静じゃない自分に気付いてしまった。このまま気付かずにこのバッグを振り抜いてこのクソッタレのことをぶん殴ってやればよかった。冷静になんかならなくてよかった。ぶん殴ったところでこの店は俺のむちゃくちゃな勤務なしでは回らないんだからそれくらいしたっていいだろうって思うくらいには、とにかく腹が立っていた。あの彼がおまえになんかしたか。不気味だなんて言われるようなことをしただろうか。若い子が言うならまだしも、もう店長という役職について数年たっているくらいにはちゃんと歳を重ねた大人だろうが。

 お客様至上主義なんて立派な精神性は俺にもこれっぽっちもない。そんな精神性があったらこの店で働くことなんかとっくに辞めているだろう。チェーン居酒屋で勤務を続ける上で一番大事なことは、お客様はみんな珍獣だと思うことだ。ゲロを吐かないで帰ってくれたらそれだけで御の字だと思うしかない。ラストオーダーですよという声かけで帰ってくれる客はもはや天使だと思うしかない。ちょっとしたセクハラをされて怯えている場合ではない。とにかく相手を人間だと思ってはいけないのだ。金を持っているだけの、同じ言語を偶然にも話す珍獣だと思え。キツい言葉を言われてショックを受けている女の子にも言ったことがある。彼女は珍獣だと割り切ることに成功したみたいで、今でも働いてくれているけれど。

 だけどあの彼は毎日うちの店にお金を落としてくれて、楽しそうに食事をして帰ってくれるのだ。ちょっとした一品料理を頼んで、それを楽しそうに写真を撮ってから食べ始める。いつ見てもカウンターで楽しそうににこにことしている姿に癒やされたのも事実だ。今日スタッフに対応をお願いされるよりも前から、それこそうちの店に来始めた数日前から、こっそり俺は彼の食事を見ることで癒やされていた。このささくれ立つしかないどうしようもない店の中でオアシスを見つけていたのだ。彼がオアシスだった。面倒くさい絡み方をしてこないし、ちょっと対応が遅れても怒らないでくれる。こっちだって人間だから対応人数の限界くらいはあるのだから待って欲しい。彼の大人しさを見習ってもらいたい、酔っぱらいくそオヤジどもめ。

「なに、八神くん機嫌悪い?」

「……もう眠いんで」

「え、本気でもう帰る感じなの?」

「明日もあるんで」

「じゃあこの伝票はどうすればいいの!ねえ!」

「自分でやってくださいよ……」

 もうあんたのことなんか知らねえよ、勝手に伝票整理でもなんでもやってろよ。今日の営業時間中になにやってたか知らないけどさ、もう勝手にやってくれよ。イライラして喧嘩をおっぱじめる前に帰りたい。早く帰ってあの、かわいいカウンターの彼に連絡を返したいんだから。そもそももう業務時間は過ぎているし帰る権利はあるはずだ。定時に上がって帰ることに問題があるというのなら自分で上に申し立てるなりなんなりしてほしい。まあうちの店長は残念ながらビビリでチキンの事なかれ主義なので、なにも起きないんでしょうけどね。こんなに残業ばかりやっていたらそのうち上から怒られると思うけどね。手際が悪すぎるとかなんとか言われると思いますけどね。俺もそう思います。

 そもそもなにも悪いことをしていない客を捕まえて不気味だなんて言い出すことがおかしい。喋ろうとしないからおかしいっていうのか。常連になろうとするなら喋らないといけませんってか。冗談じゃない、そんなの本人の勝手だし本人の自由だろ。特別に彼が彼自身のことを覚えてほしいと言ったわけでもないし、常連になるから特別扱いしてほしいと言い出したわけでもない。ここ数日間やってきて食べて飲んで帰っているだけの客だ。俺たちになにも要求しないし、なにもひどいことをしたわけでもない。酔っ払って罵詈雑言を俺たちに浴びせたわけでもない。

 たしかに自分たちが日常的に生活している「普通」の枠組みから少しずれているかもしれないけれど、だからなんだというのだろう。若いバイトのスタッフならまだ言い分がわかる。引いてしまうのもわからなくもない。けれど店長、アンタは俺よりも歳上だろ。それなりに色々経験してきてここに至っているわけで、そうしたら少なくともあの客のことをほとんど名指しの状態で不気味、だなんて言わなくてもいいだろう。アンタの視野どれだけ狭いんだよ。本人だって好きで喋れない状態じゃないのかもしれないのに。なにか原因があって喋れないのかもしれないのに。言うに事欠いて、不気味って。いい歳をした大人がそれを言うって、本当になんなんだ。

 喋れないことが彼のコンプレックスだったらどうするのだろう。本人に言っていないからセーフってか。冗談じゃない。人間にはいろいろそれぞれの事情があってそれぞれ抱えて生きているものが山のようにあるのだ。誰にも言えなかったり、誰かに言えても別の誰かには言えなかったり、あるいは誰かに言うことができるほどにしっかりとしたものではなかったり、いろいろとみんな事情を抱えて生きている。簡単に口にできるようなものじゃないなにかを、みんな抱えて生きている。アンタみたいにお気楽に生きているわけじゃないんだ。不気味なんていう言葉で、鋭利なナイフを突き立てていいわけがない。みんな必死にどうにもならないものと戦いながら生きている。必死に。見なかったふりをして。見えないふりをして。そんなコンプレックスなんかないふりをして。

「えー八神くんまじで帰っちゃうの?」

「帰ります、お疲れ様でした」

「しかたないなあ……また明日ね?」

「っす」

 ドアに手をかけて乱暴に閉めて店を出た。イライラが収まらない。いつだって仕事終わりは理不尽な酔っぱらいからの絡みに耐えたりだとか、突然酔っ払って怒り出した客のことをなだめてみたりとか、そういう仕事が多いのでイライラしている。だからまあ、店長は俺がなににそこまで不機嫌になったかなんてわかっていないだろう。そういう鈍感なひとだからあの彼のことも不気味なんていう言葉で片付けることができたんだ。失礼なひとだと思うし、そろそろあの失礼さをどうにかしたいとも思っている。バイト相手にもあのトーンとあのテンションだからそりゃあどんどん若いバイトは飛んでしまうに決まっている。普通は守ってくれるはずの立場の人間が、自分のことを矢面に立たせてくるからね。とんでもねえ管理職。

 夜道をせっせかと歩きながら気持ちを落ち着かせていく。いつもより沸騰した脳みそはなかなか落ち着いてくれないから、諦めてスマホは家に帰ってから確認することにした。イライラした気持ちであの彼からのメッセージに触れたくなかったのだ。久々に震えたスマホ、久々にやってきた業務連絡じゃないメッセージ。本当は離れて暮らしている家族ともこういうまめなやり取りをしたいけれど、俺の家族はそういうラフな感じではやりとりをしないので無理だし。地元の友だちとかはそこまで仲良くないし、みんなそろそろ結婚し始めたりしているし。まあ、俺がそこまで友達と仲良くないのも結婚やら恋愛やらに関して深く触れられたくないからだから、自業自得といえば自業自得なんだけど。でも、やっぱりこういうときに寂しさを感じるのだ。ちょっとだけだけどさ、ほんの少しだけだけど。

 店長に怒鳴り散らしてやればよかったのかもしれない。アンタがいつも頼りにして甘え尽くしてるスタッフの俺は、残念ながらゲイですよって。自分の近くに居ない存在を全て気持ち悪いだの不気味だのと口にするあの上司はいつだってそうだ。今日に限らず店に少し変わった属性の客がやってくるといちいち気持ち悪いだの不気味だのなんだのと騒ぎ立てる。子どもじゃないんだからと言ったこともある。暇なときには客の洋服の色ですらああじゃないこうじゃないと笑いのタネにして遊んでいる。接客業だからとかそういう真面目な話をするわけじゃないけど、普通に聞いていて不愉快だ。俺もゲイだし、あの彼だって好きで喋れないというわけではないだろうし。そもそも俺にしても彼にしても、その属性からいって店長に迷惑をひとつもかけていない。

 それだというのにどうしていちいち不気味やらなにやら言われなきゃいけないのか。俺にしても彼にしても。もちろん店長に俺がゲイだという話はしていないし、する必要がないと思っているからいいけれど。けれど、どうしてもイライラしてしまう。人間の属性で人間のことを推し量ろうとするな。なんでもかんでもわかったようなふりをするな。なんにもわからないんだから、わからないことを受け止めればそれでいいのに。わかってほしいなんて言ったこともないんだから、わかろうとしないでほしい。なにも理解なんか求めていないから。彼だって俺だって。彼には黙って彼が言いたいことを聞くという対応だけでいいんだ。指先で示してくれたものをオーダーするだけでいい。特別ななにかを求めているわけじゃないことくらいわかってほしい。他のことはなにひとつわからなくて構わないから、それだけを理解して欲しい。

 夜風が俺の頬を撫でていく。ぬるいような冷たいような風が、俺の沸騰しきった脳みそを落ち着かせていく。そもそも人生においてなにも関係のない人間たちに理解を求めることが間違っているのかもしれないという結論に行き着いてしまった。鏡を見ることが嫌いだった。昔から身長が高いせいであまり頭を撫でてもらえなかった。抱きしめてもらえなかった。同じ属性の人間が集まるようなパーティに出向いて自分がゲイであることを告白すると、すぐに男性たちが俺にしなだれかかってくるようになった。筋トレが好きだから体つきはたしかにしっかりしていると思うけれど、でもそれだけだ。同じ属性の人間ですら、俺のことを理解してはくれなかった。

 昔から抱きしめられるのが好きだった。誰かに頭を撫でてもらうのが好きだった。魅力的に見えた男性教師に、背中から包み込むように抱きしめてほしかった。ずっとずっと「してほしかった」。この願望を同じゲイであるという属性の人間に話すと、笑われた。きみはどう考えてもタチだから、きっとタチになったほうがモテるよ。そういう話をしているんじゃないと思った。たまたまそいつが話を聞けない人間だったのかもしれないし、たまたまそいつがバカだった可能性だってあるのだから、主語を大きくして考えるのはよくないとわかっている。わかっているけれど、理解してほしかったのだ。理解してほしかった俺に残されたのは失望だった。身長が高いから抱きしめてほしいと思ったらいけないのだろうか。頭を撫でてほしいと思ったらいけないのだろうか。笑われなきゃいけないのだろうか。そんな話、あってたまるかよ。アパートのドアを乱暴に開けて、荷物を投げた。ただいま。彼からの連絡を確認しよう。深呼吸して心を落ち着かせた。

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