【BL】ライナーノーツ

せり

第1話 「ぼく」がきみに出会う話

 誰にも言っていない秘密がある。言葉にしてしまえば大したことはないけれど、ぼくにはひとつだけ大きな秘密がある。性格が悪いってこと。文章にして表現するとそれだけ?って感じの話になるけれど、これはぼくにとって大きなことだし、おそらくぼくの生活に密接に関わったひとには大きな問題だと感じられると思う。けれどもぼくは、それを黙ったままでいる。「秘密」だからだ。

 上京してきて数日経った今、できるだけ早く住む場所を探さないといけないのに仕事もなにもないぼくに住むところを提供してくれるようなひとはいない。あたりまえだけれど難しいことだなあと考えながら、今日もよく知らないチェーン店の居酒屋の片隅で、田舎に住むばあちゃんとじいちゃんに連絡を返している。年齢と環境のわりに新しいものが好きな二人は、ぼくが新しい環境で新しいことに挑戦してみたいと考えたことに賛同してくれたし、実家や地元を離れる選択をするということも手放しで歓迎してくれた。そんな素敵で優しい二人にお礼をしたいし楽をさせてやりたくて今日も一生懸命仕事探しをしたけれども、やっぱりうまくいかない。原因はたくさんある。

 例えば住む場所が決まっていないということが大きな問題だ。住む場所が決まっていないのに就職を探すなんてふざけているのかと言われることもあるし、そこまではっきりと言われなくても言葉を濁されることもある。仕事が見つかったらすぐに住むところは探しますというようなことを意思表示しても、なかなかそれでは頷いてもらえない。平均身長で平均体重というごく普通の体格をもってしても都会の仕事探しはこうまで難航するのかと、テーマパークに来たような気持ちになる。じいちゃんとばあちゃんが軍資金として渡してくれた金はまだあるけれど、こうやってホテルぐらしを続けているままではすぐ底をついてしまうだろう。地元に戻るのも選択肢かなあと思わなくもない。戻りたくないんだけどなあとため息を付きながら、すっかり見慣れた居酒屋のメニューとにらめっこする。

 治安なんか考えずに安くて過ごしやすくて都会っぽいところにあるホテルを探して宿泊していたら、ちょうどすぐ近くにこの居酒屋さんがあったのだ。チェーン店展開をしているみたいで看板にはナントカ店って見たことも聞いたこともない地名が入っていたから、逆に安心して入ったのが上京初日のことだったはず。そこから一週間くらい経ったけれど、相変わらずぼくはこの居酒屋にひとりでふらっと入ってメニューとにらめっこをして食事を済ませている。いい加減に一日一食で生活をするのもつらいかもしれない。ぐうぐうと唸り続けるお腹をなだめすかしながらも都会の物価の高さと食欲の間でジレンマを抱える羽目になっている。高いんだよねえ、物価。こんなところで生活をしたらエンゲル係数がおかしくなってしまうかもしれない。じいちゃんからの連絡がピコンと音を立てて届いたようなので、メニューを一旦置いて確認する。ぼくの夕飯を見たいらしい。うーん、どうしようかな。何を食べようかなあと考えながら、田舎になかったものを注文しようと考える。

「あ、八神さん!あちらのカウンター席の方です」

「……あー……?」

「多分、喋れないみたいで」

「……マジ?」

「あの、お客様御本人からのお申し出ってことじゃないんですけど。ここ数日来てますけど、一度も喋ってないです」

「ふうーん……」

「八神さん、聞いてますか?店長に言ってきましょうか?」

「ああワリワリ、会計はちゃんとしてるんでしょ?」

「そりゃあ」

「じゃあ別にいいんじゃね。ダルいときは誰でもあんだろ」

 じいちゃんが都会っぽいものだと喜びそうなものを考えながらメニューとにらめっこをしていると、スタッフさん同士の会話が聞こえてきてしまった。地元にはこういう居酒屋があんまりなかったからちょっと新鮮だし、そもそもぼくと同じくらいの年齢のひとがこうやって働いているような光景もあまり見なかったのでとにかく面白くて聞いていた。ぼくたちの年代のひとたちはどういう会話をしながら仕事をしているんだろうな、ってものすごく興味があったから聞き耳を立てたのだ。もともとおしゃべりをすることよりも聞くことのほうが得意なので、ぼくの聴力はものすごく発達していると言っても過言ではないと思う。上京してきて友達はいないしにこやかに雑談できるような環境もないので、こういうふうに会話しているのを聞くだけで都会に来たって気持ちになれるから、わくわくしながら耳を傾けていた。

 そうしたらどうだろう。たぶん、ぼくの話をしていた。まだ会話をしているひとたちに話しかけてぼくの話ですか?って確認したわけでもないので確証は得られていないけれども、きっとあれはぼくのはなしだ。ふたりで小さな声で話しているつもりかもしれないけれど、そのふたりが見ている先に座っているのはぼくしかいないのだから。カウンター席に座っているのだって今のところは店内をぐるっと見回した限りでも、ぼく以外は誰もいないからぼくのことだと思う。状況証拠を集めていけば全てがぼくのことを指している。心配しなくてもぼくは食い逃げなんかしないしそんなことをやるほど人生に追い詰められていない。食い逃げなんかするくらいなら大人しく諦めて地元に帰って、じいちゃんとばあちゃんの知り合いのつてを辿って何かしらの仕事に就くよ。犯罪なんかするくらいならそっちのほうがまだマシだ。

 それとも都会って犯罪がそれくらい多いってことなのだろうか。ふたりの会話はもう終わってしまったけれどもそんなことはさておいて、ぼくは「都会っぽい」ということにものすごく興味を惹かれていた。じいちゃんとばあちゃんには都会で仕事を見つけてくるんだぞ、と言われて送り出されたけれど、最悪この犯罪者扱いの話をお土産話に地元に帰っても良いかもしれないレベルだ。ぼくの地元は山奥の奥の奥のほうで、ジジババだらけの限界集落なんて言われていたところだから。そんなところには犯罪者はいないし逃げても来ない。ちょっと別の地域から移住してきたひとでも見つけようものなら集落をあげて三日三晩でお祭り騒ぎしてしまうくらいだから、犯罪者も潜伏するには最悪の場所だと思う。まず勧めない。そういうところで育ったぼくにとって犯罪者扱いされるってことはかなり不名誉なことなんだけれど、これはもしかして都会だからということなのではないかと考えるとかなりワクワクしてしまう。

 じいちゃんもばあちゃんもミーハーだけれどぼくに対してとってもやさしい。小学校中学校高校とほとんどろくに友達を作らなかったぼくのことを社会不適合だと笑う近隣のおじさんやおばさんたちに対して、この子はいずれこの村を出ていく子だからこんな村の水準がマッチしなくても当然だと言い返したことがあるくらいだ。結果的に二人とも自分の生活基盤があるこの集落のことをバカにしてしまっているのだけれど、じいちゃんやばあちゃんの友達もみんなでぼくの肩を持ってくれた。ちょっと友だちができないくらで社会不適合なんて笑う大人がいるような村には友達なんかいないほうがいいに決まっていると励ましてくれたのは、裏の山で畑を作っているばあちゃんだった。みんなぼくが上京することを伝えたら、とうとう羽ばたく準備が整ったと大騒ぎして見送ってくれたのだ。良い地元を持ってぼくはしあわせだと思う。

 小中高とぼくに友達がいなかったのも、ぼくがこの居酒屋でそれなりに目をつけられたり噂になったりしてしまっているのも、残念なことに発端はぼくの中に存在している。そういうことをどうにかするために都会に出たほうが良いと最初に言ってくれたのはばあちゃんだったけれども、結果的にじいちゃんも賛同してくれたのでぼくは二人にお金をもらって上京しているってわけだ。ふたりともじいちゃんやばあちゃんと言われる年代だというのにぼくの「そういう」事情に対してとっても理解があって助かる。学校の先生たちは今までみんな口を揃えてぼくの努力不足だとか、もう少しぼくが頑張るべきだとか、歩み寄ってみたらどうだなんて言ったりしてきていたから。たしかにぼくだってそう思うよ、ぼくがもう少し頑張ったら解決したかもしれないけれど、残念なことにぼくがそのために頑張りたくなかったから。こういうところが「性格が悪い」なんだよね。自覚は十分にある。治す気はないけれど。

「でもちょっと異様なんですよ」

「なんで。どの辺が」

「だって毎日来てますし……」

「三卓のお客さんなんかもう二年くらい毎日来てんだろ」

「だから、三卓さんは常連さまじゃないですか!八神さんだってよく話しかけられてますよね?」

「じゃあカウンターのお客様だって常連さまになるんだろ」

「……喋らないのに?」

「あー……じゃあいいよ、カウンターのお客さんは俺が見とく。それでいいでしょ」

「ありがとうごさいます……!」

 メニューを決めようと思っていたらまたぼそぼそと喋る声がしたのでそちらに意識を向けてみた。じいちゃんごめんね、もうちょっと待っててね。せっかくだからちゃんと都会っぽいメニューを注文するから代わりにぼくの好奇心が収まるまで返事を少し遅らせるけど許してね。こころの中でじいちゃんに謝罪をしてから会話に耳を傾けると、やっぱりぼくの話をしていたようだった。はっきり言ってないしょ話をされることも慣れているしひそひそとされたあとでなにかを疑われることにも慣れているし、異質なものを見る目を向けられることにもすっかり慣れてしまっている。さすがにお店に入ってメニューを選んでいただけで犯罪者予備軍のような言われかたをしたのは初めてだったけれど、それ以外はもう何回か体験したことだ。真新しいものでもなんでもない。

 ぼくの経験から言ってこのあとは筆談用のボードを持ってこられるか手話ができるスタッフが手話で話しかけてくるかのどちらかだ。前者だったら別に良いんだけど後者だったらぼくは困ってしまうし、そうなるとドツボにはまるので前者であることをいつも願っている。まあいいんだけどね、後者のように手話全開で話しかけられたとしてもぼくは申し訳無さそうな顔でキョトンとしているだけでうまく回ることがほとんどだし、うまく回らなくてもお店にサービスしてもらえることが多いから。使えるものは遠慮なく使わせてもらうし、そうやってしてくれる配慮には全力で甘えさせてもらうのがぼくの生きかただ。じいちゃんはいつも言っていた。誰かが何かをする前に申し訳無さそうな顔だけしておけ、そうすればぼくが有利になるから。本当にそのとおりだなあと思っちゃう。ただ、職探しにはそれは当てはまらなかったんだけどね。だから難航しているわけで。

 デリケートなことになるから誰にも口に出して言ったことはないんだけれど、ぼくはずっとずっと不思議に思っているのだ。聴覚障害者は全員手話ができるようになっているのだろうか、視覚障害者は全員が点字を読むことができるのだろうか。どっちもできない障害者だってこの世にはいると思う。そもそもそういうのだって程度の問題じゃないのかなあ。ちょっとそれっぽいひとを見つけたからってうきうきしながら手話で話しかけてくるのは実際のところ結構腹が立つのでやめてほしいなって思ってる、ぼくはね。優しさから習ったりしたんだろうけど、障害者ってべつにそのひとのやさしさを見せつけるための道具じゃないから。そもそもぼくは障害者でもなんでもないから見当違いの意見かもしれないしいいんだけど。口に出したこともないし、これからも口に出せるとも思わない。

 とりあえずだし巻き卵を頼もうかなあと考えてきょろきょろとしていると、他のお客さんが店員さんを呼んでいるのが見えた。すいませーん、なんて感じで気安く呼んでいる。ぼくだって上京してもう数日経っているし、店員さんの呼び方くらいはマスターしている。どうやったら来てくれるかもわかっている。地元の田舎に一軒だけあったファミレスでは店員さんを呼ぶためのボタンがあったけれど、ここにはない。ここにはないってことは、注文が決まったらぼくが呼ばないといけない。昨日までは運良く店員さんを探してキョロキョロするぼくに気付いてくれて、なにもしないでも来てくれていたんだけれど。今日は運が悪いのかタイミングが悪いのか、店員さんはほとんどこちらにいない。ちょっと遠いところにいるけれど、こっちを見ていない。あー、困ったな。

 ひそひそと話をしていた店員さんの話だって、まるで間違ったことを言っていたわけじゃないんだよなあ、ってちょっとひとりで笑ってしまう。悲しいけれどあれってなにも間違っていないんだ。都会ではどういう判定を下すのかわからないけれど、ぼくが居た田舎ではたしかに何日も続けて同じお店に外食をしに行っていたらあっという間に噂になるし、ぼくがどうして家で食事をしないのかという詮索めいたやり取りが開催されてしまうに違いない。実際ぼくが高校時代に家出をしたときにはそういう噂がたったし、ぼくが家出をしたという事実を大きく受け止めてくれたじいちゃんばあちゃんですら、その噂をしっかりと聞いた上でぼくが自分で帰るのを待ってくれていたらしいから。そういう感覚は都会も田舎も一緒だったりするのかなあ、だとしたらぼくにとって生きやすい世界ってこの国にないのかなあ。ばあちゃんはそれこそ都会に出ればもっとぼくが生きやすくなるからってずっと応援してくれていたけれど、実際ぼくは今に至るまで仕事探しのひとつも成功していない。

「……あ、あ……」

 思い切って声を出そうと挑戦してみたけれども失敗に終わってしまった。上京してからはほとんど声を出す前に決着してしまう就職面接やら声を出すことができなくてうまく探している物件の条件すらも伝えることができない不動産屋さん相手やらでしか会話のチャンスがなかったものだから、前よりももっともっと声が出にくくなってしまった。あーあ、面倒くさいな。これが近くに知り合いでもいてくれたら配慮してもらえて楽だったけれど、そういう甘えに近い環境を捨てて都会で頑張るというのが本来のぼくが上京する理由でもあるのでがんばらないといけない。がんばらないといけないんだけど、でも、やっぱり面倒くさい。面倒なものは面倒なんだよな。使えるものを使って何が悪い、って感じだし。

 お腹が空いてしまった。どうにかしてぼくは夕ごはんにありつきたいものだから考える。ボタンはないし店員さんは夕ごはんの時間だからか忙しそうだ。出にくい声をいちいち出したところで聞いてくれないだろうし、聞き遂げる余裕もないだろうから無意味に近い行動になる。こういうとき一瞬だけぼくは思うんだ。本当に耳が聞こえなかったらな、本当に声が出なかったらな、って。そうしたらみんなこっちのことを諦めて優しくなってくれるから、文句が一つもない。期待なんかしないで欲しいとまでは言わないけれど、ぼくだっていっぱいいっぱいのときはあるんだ。どうにかして諦めて欲しいなんて思うときもある。変なひと扱いされてもいいから、早く注文をさせて欲しいです。忙しそうでこちらに気を配る余裕もなさそうな店員さんの後ろ姿をじっと見て念じる。こっち向け、こっち向いて。

 だいたいそもそも思うんだよな。本当に耳が聞こえないひとと耳が聞こえるけれど聞こえると都合が悪いひとの違いって一体何なんだろう。どちらにしても耳を当てにしていないのは一緒だし、それならば同じ対応を取ってくれても良いんじゃないのかな。ぼくはそういう性格が良いとは言えないような部分を持っていたので、地元の高校を卒業するまでは平然と特別扱いをしてもらっていた。喋りたくないときは喋らなかったしそれで許してもらっていた。ぼくのことをなにかしらの障害持ちだと思っていた保護者もいたし、同級生もそうやって思っているひとがいただろう。いちいち訂正なんかしなかった。だってぼくも生きづらさを感じているんだからそれでいいじゃん。ぼくが本当は発声することができて喋れることを言ったところで、なにも解決なんかしないんだから。

 助けが必要なのは同じことだ。言葉を一つ発声するのにかかる時間を待つことを考えたらぼくのことを話せない人間だとして扱ったほうが全てにおいてスムーズだ。今だってそう。耳が聞こえないお客様にはきっと特別な対応があるんだろうな、都会だから。ぼくにもそれをやってほしい。そうしたらぼくは楽に注文をすることができて、店員さんは楽に注文を聞き出すことができる。どっちもいいことしかない。回数制限があるわけでもないし、どうして「正しさ」みたいなものにこだわるんだろう。それをしてもらう側がそれでいいと思うのなら、それでいいじゃないか。ぼくはこの、ちゃんとした正しさ、みたいなものがひどくきらいだ。どうしようもなくきらいだ。だからこそあの地元を出てきたと言っても良い。

「あっ……」

「お待たせしましたお客様、ご注文お決まりですか」

「……っ、……」

「指差しで大丈夫です、……注文するものを指さしてください」

「……だs……、た……」

「だし巻き卵、おひとつですね。ドリンクはどうしますか?」

「こ、……」

「烏龍茶ですね、かしこまりました。……すぐ戻ってくるんで、心配せずに待っててください」

 もういっそ胸元にでかいバッジでもつけようかと考えたぼくはバカじゃないはずだ。聴覚障害には補聴器があるし視覚障害には白杖がある。それならぼくだって胸元にバカみたいな大きさでうまく発声できませんとつけておけば配慮してもらえるかもしれない。主にこういうときに。でもこういうときって大抵そういうアピールにも気付いてもらえないことが多いものだからぼくはひとりさみしく俯いて過ごすしかないんだよねえ。小学校の頃、授業中に頭が痛くなってそれを誰にも伝えられなくてそのまま教室で寝ていたら怒られたことなんか思い出しちゃったりして。ぼくは悪くないのにものすごく怒られて呼び出されたじいちゃんがぼくの顔色を見抜いて結局先生をぶん殴って終わったんだけど。

 それにしても今日は運が悪い日じゃなかったのかもしれないな。小声ですぐに戻ってくることを教えてくれた店員さんの後ろ姿を見ながら、ぼんやりと考えてみる。注文は終わったから無理に戻ってこなくてもいいし、忙しそうだから他のお客さんのところに行ったっていいんですよ。ぼくも潤沢にお金があるわけじゃないからだし巻き卵となにかを食べて今夜の晩餐を終わらせようと思っていたところだったし。こういうことを伝えることができたらいいんだけど、残念ながらそれすらもできない。いそいそと飲み物を持って帰ってくる店員さんを見ながら、軽く会釈をしてみる。こちらに向かってくる店員さんは結構強面のお兄さんだったから、そういう意味でもびっくりした。さっきのひとと一緒かなあ。一緒かなあ?本当に?

 ひとは見た目で判断しちゃいけないっていうのはぼくもわかるんだよ。ぼくは顔も知らない母親が頑張ってくれたおかげでこういうデメリットを抱えている以外はそれなりにちやほやされやすい見た目をしている。高校時代はかわいい系のビジュアルだとか言われて女子にもちやほやされていたっけ。ぼくはぼくで話すことに難しさを感じているのでなにも言わないものだから、こういうふうに性格が悪いということも知られずに済んでいたのでぶっちゃけ少しモテた。かわいいかわいいと言われてモテたんだ。高校を卒業すると同時にぼくは田舎の山に引っ込んだので全部夢のような感じで終わってしまったけど。だからまあ人間は見た目じゃわからないんだよね。ぼくのびっくりするほどの性格の悪さだって、ここまで誰にも知られることなく生きているし。

 烏龍茶を持ってお兄さんが近づいてくる。強面かと思っていたけど近づいてくると結構男前なイケメンに分類される顔立ちだと思う。モデルとか普段はやっていたりするのかなあ。すごいなあ都会、なんでもない居酒屋さんにこういうイケメンさんが働いている。そもそもこの居酒屋さんがなんでもない居酒屋じゃない可能性もあるのかもしれない。ぐるぐると考え込みながらこちらに近づいてくるお兄さんをじっと見つめ続けている。変な客だって思われているかもしれないし思われていないかもしれないし、どっちでもいいんだけど。とにかくめちゃくちゃ優しくてめちゃくちゃ気が利いた店員さんだった。ぼくが声を出せないでいることにすぐに気づいてくれて、まわりから変に思われないように自然に接客をしてくれて。自然にオーダーも聞き取ってくれた。

 障害があるわけでもないし病気があるわけでもないらしい。ただぼくは言葉をうまく発声することができないだけで、それに関してはこれといった治療法があるわけでもないらしい。緊張しているとかしていないとかも関係がなくて、ただ言葉がうまく出てこないだけ。じいちゃんやばあちゃんのように本当に親しい人相手ならばちょっと時間をかければそれなりに言葉を出しながら喋ることができるけれど、そうじゃなかったら言葉がつっかえてしまって無理になってしまう。向こうが無理じゃなくてもぼくがもう無理だ。恥ずかしいとかみっともないとかプライドがとかそういう問題じゃなくて、あまりにも疲れ切ってしまうから無理。たぶん言葉を発するために普通のひとの数倍脳みそを使うはずだ。あとは体力も。ものすごく疲れてしまう。

 言葉が出せなくて変な目で見られることはもうどうでもいいことでもある。ぎょっとした顔をするひともいるし、不思議な生き物を見るような目で見るひともいる。でもそういうのは例えばぼくの腕が無かったとしても同じことだろうし、ぼくに向かって意地悪をしてきているわけではないので気にしないことにしている。そもそもいちいちそんなことで傷つかないし、面倒くさいことをしてきたらぼくは大げさに傷ついた顔をして見せることで乗り切っていた。田舎のいいところであり悪いところでもある。弱いものをいじめてはいけませんよと過剰なまでに教育されるぼくたちのような田舎の子どもたちからすればぼくは、完全に弱いものなのだ。言葉が自分でうまく出せないんだから、いじめてはいけない弱いものという扱いを受ける。

 田舎における弱いもの認定はそりゃあもうかなり快適だった。無理に言葉を絞り出さなくていい。なにも言わなくていいしなにもしなくていい。朝登校すればぼくの顔を見た教師がすっ飛んできてあっという間にイエス・ノークエスチョンを投げてくるんだ。今日のご機嫌はいかがですか、みたいな感じで。ばあちゃんがそれだけ権力者だったとかそういう話も一切ない。強いて言うならじいちゃんがぶん殴った小学生時代の話が教員たちのネットワークを伝って届いていたのかもしれないけれど、それ以外はなにもない。だからとにかく快適だった。ちょっとでも機嫌が悪いときはそれを堂々と盾にして過ごしていたこともあったし。あんまり良い子どもじゃなかったと思う。田舎でのぼくはね。でも弱いひとをいじめてはいけないというルールがあるからだれにもぼくには注意をできない。そういうふうに増長したぼくのことをばあちゃんもじいちゃんも見抜いて、このままではいけないとぼくに都会に出るように命じたのだ。都会ならもっとぼくがぼくらしく生きる場所があるとかなんとか言って。

「烏龍茶どうぞ、おまたせしました」

「……あッ、……」

「ご心配なく。……後ろに控えてますんで、振り返ってもらえたら伺いに来ます」

 烏龍茶をもってきたお兄さんは声までかっこよかった。ぼくのことをかわいいとか言って持て囃していた高校時代の同級生とか先輩たちに教えてやりたいくらいだ。都会のひとはもっとずっとかっこいいからね、ぼくで満足してちゃだめだよ。言おうと思っても口から言葉が出ないから無駄だけど。上京してきて数日この居酒屋さんに通っているけれども、このお兄さんに会ったのは初めてな気がする。これまではずっと筆談で対応してくれる女性スタッフさんとか面倒くさそうにひとつひとつ指差しで確認してくるスタッフさんとか、得意げに手話を披露してくるひととか、なんかそんなのばっかりだったから。めちゃくちゃイケメンでスマートだ。ずっとお兄さんの行動を見つめてしまう。するとお兄さんはお尻のポケットからメモ帳を取り出して、何かを書き始めた。何をされるんだろう。どきどきする。筆談対応に切り替えられてしまうのかな。なんかもったいないなあ。嫌いってほどじゃないけれども、どことなく苦手なのが筆談対応だ。そのために一つ道具を増やしてしまうのがちょっと申し訳ない。あと、ぼくの字もそこまで綺麗じゃないし。

 お兄さんがピッとメモ帳の紙を一枚ちぎってぼくに渡してくる。何が書いてあるんだろう。ぼくにもペンを貸してくれるのかと思ったら違って、紙だけだった。紙の中身を見ることが少し怖くてそわそわしてしまう。どうしようか、そこに罵詈雑言が書いてあったら。口もきけないくせに上京してきてるんじゃねえとか書いてあったらちょっと、ぼくはここで泣いてしまうかもしれない。泣き虫じゃないけれど地元に居た頃はぼくのような弱者が泣くことでうまくまわることって結構あったから、こういうときに感情表現としてすぐに泣くことがくせになってしまっているのだ。よくないことだけど。わかってるよ、性格悪いでしょ。どきどきしながら思い切って紙を開いた。連絡先とラインを検索するための文字列が書いてある。これってあれか、漫画で読んだことあるあれか。ホテルに帰ったらふかふかのベッドの上から連絡させていただきます。

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