第56話 そして退職へ
何だかいろんな実感が湧かないまま、俺は翌日出向元の会社に退職の意向を伝えた。昼には慌てた様子の折り返しメールが届いていた。そして金曜日には、都心のオフィスに出頭することとなった。同じ知らせが、こちらのオフィスの上司にも届いたのだろう。
「安積君、いきなりどうしたのかね」
「はぁ、まあ諸事情で」
愛想の良い上司が、「腹を割って話そう」などと猫撫で声で擦り寄って来るが、俺は適当にお茶を濁した。案の定、裏では「都会者は根性がない」とか「せいせいする」とか悪口三昧だが。もういいけどね。罵ってくれればくれるほど、気兼ねなく辞めることができる。
金曜日、俺は久しぶりに古巣に出社した。結構な長旅だったので、数ヶ月しか経ってないのにまるで浦島太郎のようだ。出向を伝えられた時は、ワンチャンギリ通えるかなと思ったが、バスも含めて片道二時間半は無理だ。
会議室で、課長と面談。俺は退職届とUSB、レジュメを提出した。例のスマホ警報騒ぎの時も、ちゃんと別角度で動画を撮ってくれてて助かった。
「あちらの皆さんが仰る通り、俺は役立たずで不要なようですので、お望みの通り辞職しようかと」
「待ちたまえ安積君。こういうことはどこでもある。そんなことではどこへ行っても」
言いかけた課長が、パソコンで再生される動画から流れる音声に、ぴたりと止まった。まあ、そうだよね。彼らが悪口を楽しんでいたのは、俺のことだけじゃないんだ。今日の面談の相手が課長だと分かっていたので、当然彼に言及した部分も用意してあった。課長の額に、青筋が浮かぶのが見えるようだ。
「…安積君。この件は私が預かる。いいね」
いや、良くはない。俺はもう総務に退職届を出し、有給を申請してある。出向中の俺は、元いた課の所属であると同時に、一人部署のような扱いだ。本来なら庶務関係は出向先に丸投げ出来るんだが、どうも面倒を見てもらえる様子でもなかったし、幸い俺には庶務会計の経験もある。自分でサクッとシステム入力、承認。駄目なら労基に駆け込むだけだ。
翌週、出向先に出向くと大騒ぎになっていた。
「安積君、どういうことだね」「話し合いを」「誤解が」なんて台詞から、「こんなことをしてタダでは」「恩を仇で返しやがって」なんて物騒な声も飛んでくる。しかし俺は淡々と私物を回収し、「お世話になりました」と手土産を置いて撤退だ。あっさりしたもんだった。季節はもうすっかり夏。普通なら6月末のボーナスに合わせて退職するんだろうが、イレギュラーな時期に退職して、時期はずれに異動する後任に対しては、ちょっと申し訳ない気持ちになった。後は知らん。
有給消化中、どうしても押印が必要だということで、一度だけ都心のオフィスに足を運んだ。オフィスの中の反応は様々だった。前田さんは、「やってくれたな」と馴れ馴れしく肩を叩いて来た。彼はあそこで一年も我慢したんだ。もっとも彼なら、彼らに迎合して取り入るくらいの芸当は出来ただろうけども。四席の彼は、「もう社外の人間に用はない」といった感じでほとんど無視。去年新卒だった末席の彼は、申し訳なさそうに頭をペコリと下げた。
意外だったのは、上長だ。内心、推薦してくれた彼の顔を潰したのではないかと一番気にしていたのだが、彼は俺を自販機まで呼び出すと、「よくやってくれた」と言った。彼は表向きは企画畑の人間とされているが、実際は監査部の所属なのだそうだ。いや、俺はひたすら言われたことをこなすだけの無能な量産型社畜に過ぎないから、内偵の役になんか立ちそうにないんだが。「真面目で、不正に加担せず、報連相を欠かさない」そういう従順な社畜が、こういった膿を出すのに役立つそうだ。
「君ならどこに行っても大丈夫だ」
という言葉が、一番嬉しかった。いや、見方によっては「コイツなら辞めてもいいや」と思って送り出されたということなんだろうが。しかし、会社にしがみつく必要のなくなった今の俺にとっては、
なお、押印云々は建前に過ぎない。元々郵送で何とかなったことだ。本当の要件は、俺の処遇について取引をすること。俺が証拠を盾に表立って会社を訴えたりしなければ、退職は会社都合にしても良い、退職金にも色を付けるとのこと。俺としては、退職理由も会社都合とか自己都合とかどうでもいいんだが、退職金が少しでも増えたら有り難い。ちょっと悪いことをしているような気がしなくもないが、出向で引っ越して車を購入した金額を考えると、少し赤字かな。まあいい。それで了承した。
それよりも出向先の子会社の問題は、俺へのパワハラのみならず、実は以前からいくつも苦情が上がっていて、根が深かったようだ。彼らの処遇については知ったことではないが、我が社を頼りにしてくれる顧客には迷惑にならないようにしてあげて欲しい。短い付き合いだったが、エンドユーザーと顔を突き合わせて仕事が出来るって、ちょっと楽しかった。まるで村人と交流しているみたいな。
帰りには、給湯室で女傑に呼び止められた。彼女は心底申し訳なさそうにしていたが、逆に彼女が出向しないで良かったと思う。既婚の彼女には家族がある。都心から片道二時間も三時間もかけて通っていられないし、独り者のオッサンでもあのアルハラパワハラはキツいもんがあった。俺に決まってラッキーだったんだ。そう言うと、彼女はちょっと涙ぐんでいた。まあ、そう気にしないで。
それにしても、ちょっと前に農村に大軍が押しかけて来た時にはどうしようかと思ったが、結果は善き住民が大量移住。そのちょっと前には王族が来ててんやわんやだったが、彼らのお陰でスムーズに事が運んだ。その前には栗鼠族の襲撃なんかがあったが、結局彼らがドレイパー軍を連れて来てくれたわけで、最終的には全てが良い方に転んだ。
この出向騒ぎもそうだ。これがなければ、俺は未だに社畜に励んでいたことだろう。もちろん、こうして退職を決意出来たのは農村様々だが、毎日朝から晩までコンビニサンドイッチとコンビニ弁当で働き続ける、先の見えない日々。それでも何とか会社員という身分にしがみついていたかったのが、最後は出向先の連中に揉まれて、何の未練もなく辞めることが出来た。しかも思ったより早く、退職金に色まで付いて。
全てが良いようになっている。そう思える。俺は晴れやかな気分で、社屋を後にした。
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