第55話 行き詰まり

 その後、社会人生活は表面上は何事もなく進んでいった。俺はひたすら愛想笑いを浮かべ、外回りの仕事を積極的に引き受け、オフィスでの滞在時間を出来るだけ短縮し、毎日をやり過ごした。驚いたことに、こちらでも都心部と同じくらい飲み会が頻繁に開催されていたが、「すみません、俺、酒があんまり得意じゃなくて」「引っ越したばかりで、代行代が馬鹿にならなくて」でスルーした。


 それがいけなかったのだろうか。


 ある日、うっかり油断してスマホを置いて手洗いに行ってしまった。するとオフィスの中から、けたたましいアラーム音が聞こえてくる。びっくりして駆け戻ると、なぜかスマホは部下のデスクの近くに落ちていた。


『キュッ!キュッ!キューッ!盗難です、盗難です』


 俺は慌ててスマホを拾い、電源ボタンを押した。落ちない。顔認証で、ようやく止まった。


 オフィスは静まり返っている。部下は、「知らない…俺は知らない…」とぶつぶつつぶやいている。


「あのっ、すみません。お騒がせしました…」


 俺はオフィスの面々に謝って、再び手洗いに向かった。




 その日から、社員がよそよそしくなった。あからさまに無視をする者もいれば、それとなく会話をはぐらかし、拒否する者もいる。幸い、こちらでの仕事の内容は一通り覚えた後だし、庶務や経理なども経験があるからセルフで出来る。孤独ではあったが、必要な仕事は無難にこなした。会社は仲良しごっこをするところじゃないし、逆に煩わしい人付き合いが減って良かったかもしれない。


 しかし困ったのは、必要な連絡が回って来ないことだ。客先からコールバックがないとクレームを受けて初めて、取り次ぎがなかったのだと分かる。一度や二度じゃない。仕方がないので、俺は社用携帯の番号を案内し、直接掛けてもらうようにした。


 その他、社内の稟議書や事務作業も同じ。俺に敵対心を隠さない上司や部下のところで書類が止まる、無くなる、握りつぶされる。コイツら正気なのか。仕事を回さなければおまんま食い上げだってのに、気に入らない余所者をハブりたい一心で、顧客に迷惑を掛け、業務を停滞させるとか。


 まあしかし、こういうのは世間ではよくあることなんだろう。地味に胃に来るが。




「はぁ…」


 俺が朝っぱらから(向こうで仕事して来たので、俺的には夜なんだが)ため息をついていると、ベルティーナがUSBメモリを渡してきた。


「ユート、大変そう。色々っといたけど、使う?」


 中身は、編集した動画の数々。前はスマホのインカメラだけだったが、今回は彼女に渡された小さなカメラからのものも含まれている。いろんな角度から撮影されているので、前より状況が把握しやすい。コイツ生意気とかしぶといとか、あの書類が無くなった時の間抜け面とか、そんな会話が含まれている。鍵付きのデスクやロッカーも合鍵でこっそり開けられているようだ。参ったな。


 彼らが俺を気に入らなかった一番の原因は、飲み会を断ったこと。あれは「僕は飲まないので」とハンドルキーパーを買って出て、延々と酌をしながらサンドバッグになるのが正解だったらしい。前田さん、そういうのが得意な気さくなキャラだったのに、一年で帰って来るなんて相当だったんだな。


 ああ、何だか頑張って仕事すんの、馬鹿らしくなってきた。俺、今度こそ転職しようかな…。


「何をおっしゃいます、ユート様。ユート様があちらであくせく働く必要など、どこにもないのですわ?」


「アプリの会社、買い取った」


「はっ!?」


 いや、ベルティーナがアプリを開発して、ビビアーナが投資家みたいなのを始めた、それは大軍が来た時に知った。しかし、それがまさかアプリ会社を買収して、えっ?


「これでアプリのサービス終了の心配はありませんわ♪ユート様への報酬のご送金も思うままですのよ?」


「えっ?!」


 ちょっと待って。理解が追いつかない。どういうこと。




 おさらいすると、彼女らは既にアプリ会社を買収し、掌中に収めていた。それは分かる。そして、アプリの運営は既にベルティーナが行っていて、サ終の恐れもない。ここまではいい。この世界に来られるようになってから、俺のスマホはアプリを起動しても真っ白で、代わりに視界の端っこにコンソールが現れるようになっているから、アプリの会社の変更やアップデートについて何も知らなかったのは仕方ない。


 俺の理解の斜め上を行ったのは、あの「ユート農園」という謎の振り込み先と、振り込み金。あれをベルティーナが任意で行えるようにしてくれてたらしい。しかも、既に会社法人の役員として俺を登録し、役員報酬を振り込む準備が出来ているそうだ。


「役員?!」


「ああ、税金や社会保険料についてはこちらで事務処理致しますのでご安心ください♪外部にアウトソーシングしてありますので。後はユート様が退職されるだけ♪」


 なん…だと…。


 俺は夢を見ているのか。数ヶ月前にアプリの世界に入り、大軍が攻めて来て、出向して、今ここ。どういう夢だ。幻覚か?


「どうした?ユート。ほっぺたなんかつまんで」


 ギュウ。


「ギャア!痛い!」


 右頬をつねっていたら、アニェッラに左頬を引きちぎられそうになって、思わず絶叫した。夢じゃないらしい。

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