第37話 神殿生活

 エラいこっちゃ。農家の住宅(中)から神殿(小)に建て替えた後、エレベータが付いたばかりかWi-Fiが入るようになってしまった。ネットワーク名はYuto Farm。IPアドレスなんかのことは、俺には分からん。しかし、オカルトで出て来るような0.0.0とかそういうのではなく、ちゃんとそれっぽい数値が見て取れる。多分うちのアパートと同じだ。


「マジか…」


 こっちでネットに繋がるようなら、いよいよあっちで休日を過ごす理由がなくなってしまう。いや、買い出しなんかがあるからアレだけども。ああこれはもう、こっちにパソコンとプリンタまで持ち込む流れでは。


 それにしても、国王の移住といい神殿といい。今回は驚くことばかりだ。しかし、腹が膨れると全てがどうでも良くなってきた。風呂だ。こういう時は、風呂に限る。




 風呂場に足を運び、俺は言葉を失った。ジャグジー風呂が、温泉の小さい家族風呂みたいになっとる。ライオンの口から滔々とうとうと流れ出るお湯。マジか。


 一瞬、掃除が大変そうだな、とか、お湯張るの時間かかるんじゃ、とか、いろんな考えが交錯した。しかし、大きな風呂を前にして、日本人は無力だ。どうしたって風呂の魅力には抗えない。俺はシャワーで丁寧に掛け湯して、ザッと体を洗ってから、ザブンと湯船に身を沈めた。


「ふうううう〜〜〜…」


 たまらん。この開放感。体の中から、全ての緊張が解き放たれる感覚。生きててよかった。それにしても、買ってきた入浴剤が無駄になっちまったな。こんなデカい風呂には、何袋あっても太刀打ちできそうにない。幸いジャグジーは隅っこで生きていて、腰や背中をいい具合にマッサージしてくれるが。まあ、俺には風呂の中で体を洗う習慣はない。泡風呂は一度堪能したし、もういいだろう。


 風呂場が広くなって良かったことがもう一つ。これまでは採光用のはめ殺し窓が付いていたが、今回は透明の掃き出し窓に坪庭が用意されていた。そう、ここを開けば半露天風呂だ。こっちは北側で、日当たりという面では微妙だが、石造りの塀と、塀を隔てた森から聞こえる自然音。1/fゆらぎってヤツだ。小鳥のさえずりに、小川のせせらぎ、木々のざわめき。たまらん。


 風呂のへりに腰掛けて、ノンアルビールを開ける。そしてまた浴槽へ。何だこの永久機関。ずっとここに住んでいたい。




 さすがに手足がシワシワになったので、いい加減で切り上げる。どうせこれからいつでも入れるしな。ああ、いいのか俺の人生、こんなに幸せで。


 俺は鼻歌を歌いながら新しいスウェットに袖を通し、タオルと共に洗濯機を回す。そして、干してあったシーツと布団を持って塔の上の寝室へ。今、こっちの寝室で使っているのは、三次元あっちの布団だ。元の布団と入れ替え、あっちのはインベントリに収納しておく。これであっちでも、ふかふかの布団で寝られる。最高か。


 なお、一旦下に降りて風呂掃除をしようと思えば、浴室の清掃も乾燥もコインで行けることが分かった。しかも水回りどころか、家中だ。掃除グッズを持って来なければと思っていた俺、完全に出鼻を挫かれた。良い意味で。何だこれ、神殿って最高じゃないか。正直、王族が来たって聞いて厄介とか面倒とか思ってしまったが、移住してくれてマジで感謝だ。


 今回はいろいろあったが、プラマイで言えばかなりプラスだ。風呂が充実、掃除不要。そしてWi-Fiに魔導エレベータだ。たまらん。


 最後に塔の上の寝室に戻り、畑を整理して適当に作物を植えて。眼下の村人に手を振って、昼下がりのベッドに潜り込む。楽しかった。おやすみなさい。




 おはようございます。こっちは日曜午前8時。コタツで寝ていたので、体中がバキバキだ。しかし、あっちで布団を干し、シーツを洗って来た。次からはふかふかベッドでトリップだ。


 あっちで風呂に入り、洗濯機を回して干してと動いて来たので、ちょっと小腹が空いた。久々に食パンモーニングだ。最近、サラダを付けるのが当たり前になってきた。コーヒーも、インスタントじゃなくて粉をドリップしたヤツ。だんだん舌が肥えてしまっている。しかし、心と時間の余裕さえあれば、こういう幸せって意外と簡単に享受出来るんだなっていう。


 こっちで社畜やってると、1日24時間じゃ足りないんだ。朝は6時半に起きて、7時出勤。定時なんて夢のまた夢、8時に会社を出て10時に帰って。コンビニ弁当食べて、シャワー浴びて、寝て起きたらもう朝だ。優雅にサラダなんて食ってる暇はない。


 それが、寝ている間にあっちに行って、酒飲んで飯作って、飯食って風呂入って。もうアプリは俺の人生の一部だ。あっちの時間なくして、俺の人生は成り立たない。つい一昨日までは、もうアプリを辞めてしまおうかと思っていた俺だが、とにかく楽をするためにアプリを使うことを決めてから、随分心が軽くなった気がする。願わくば、あっちでまたアプリを辞めたくなるような面倒な事態に巻き込まれないよう、祈るのみ。


 さて、こっちも良い天気だ。少し換気して、掃除して。食器を洗って、片付けて。部屋に電子レンジも洗濯機も冷蔵庫もないのが新鮮だ。ヤバいな、余裕が出来ると途端に部屋を整えたくなる。どうしたことだ。結局100均の開店時間まで無駄に掃除をして、身支度を整え、街へと繰り出した。




 俺は学習した。まずは本屋だ。こないだ立ち読みして買わなかったつまみレシピ本と、パスタ本をゲット。ネットでも見られるが、これをアウグスト夫妻に渡しておけば、再現してくれるんじゃないかと思い当たった。我ながらナイスアイデア。てか、あっちの住民は日本語が読めるのか?分からん。最悪、写真だけでも何とかなるだろう。


 次に100均。言わずもがな、漏瑚ファンネルだ。ワインを注ぐのに漏瑚ろうとが必要になるとは思わなかったが、1つくらいあってもいいだろう。そういえば、良さそうなガラスピッチャーもある。居酒屋でもワインはカラフェで頼むもんな。よし、ゲットだ。


 それから最後にスーパーへ。枝豆が俺を呼んでいる。コスパを度外視すれば、この時期でも置いてあるのが有り難い。そういえば枝豆は大豆だが、栽培したら大豆になってしまうんじゃないだろうか。一抹の不安はあるが、その時はその時で大豆を育てればいいだろう。


 そうだ。スパイスを育てようと思ってたんだった。とりあえず胡椒。それから、手作りカレー用のミックススパイス。こないだオレガノの栽培に成功したところだ。乾燥粉末からでも育つと信じたい。まあ、ダメなら頑張ってスパイスカレーへの道を歩むだけだ。


 ああ、それなら本屋でインドカレーのレシピ本でも買っておくべきだった。そしたら、アウグスト夫妻に頼んで、いろんなカレーを作ってもらえたかも知れないのに。全部彼らに押し付けるのも厚かましい話だが、所詮素人と料理人では出来に雲泥の差がある。しかも、彼らが調理に成功すれば、村人も恩恵にあずかることが出来るだろう。Win-Winだ。


 面倒臭がっている場合ではない。俺はもう一度本屋に引き返し、初心者向けのインドカレーレシピ本もゲットした。これであっちでカレーまで量産出来るかも知れない。どこまでも夢が広がる。




 歩き疲れて、カフェで一休み。ここ数年外食といえば、会社帰りに飲み会に捕まって、居酒屋に連行されるくらい。カフェすら久しぶりだ。いつもスマホで新作ドリンクのニュースを見ながら、もうそんな季節か…と遠い目をするだけだった。こうして行き交う人をぼんやり眺めながら、コーヒーを啜る余裕もなかったなんて。


 ———カフェ?そうか、カフェだ。あっちでコーヒーの栽培はどうだ?コーヒーが行けるなら、紅茶もだ。お茶は?抹茶は?ほうじ茶は?


 俺は急いでスマホをタップした。コーヒーは色々大変そうだ。誰かやりたいって人がいればいいんだが。それからお茶ってのは、緑茶も紅茶もウーロン茶も同じもんらしい。ほへー。緑茶とほうじ茶は何となく分かるけど、紅茶とウーロン茶は意外だったな。これも作るのが面倒といえば面倒だが、誰か引き受けてくれないだろうか。


 結局俺は一度スーパーに引き返し、コーヒー豆と緑茶を買って帰ることにした。

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