第9話 花の金曜日

 いつも金曜日は、ちょっと元気なんだ。平日に溜まった疲れがピークに達しているが、それでも週末への希望と期待が俺を衝き動かす。どんなに遅くなっても、帰ったらビールと決めている(休日出勤のない週は)。しかし今日は違う。俺はさっさと仕事を終わらせて、あっちに行くんだ。やりたいことは、山ほどある。朝の食パンとコーヒーが美味い。


 満員電車に揺られ、コンビニで昼飯を買い込み。あ、あれがあったらいいかなとか、これも持って行きたいなとか、いつもと違い、つい目移りしてしまう。はやるな。まだ焦る時間じゃない。これから仕事が控えている。週末、欲しいものは量販店にでも行って買い揃えよう。


 金曜日の仕事はいつも通り。途中、厄介な案件に巻き込まれそうになったが、気合で回避した。重箱の隅をつつくような部長の横槍。それに合わせて仕様書を隅々まで手入れし直して提出すると、後で「やっぱ最初ので」ってちゃぶ台返しされるヤツ。俺も周りも、何度泣かされて来たことか。ゴマを摺り、褒めておだてて丸め込む。リーマン怒りの一句だ。


 しかし最後の最後で、面倒臭いのに捕まった。月曜の午前中までにって、それは実質、今日か土日にやっとけってことだ。しかし、俺が過去の案件からさらって格闘している間に、同僚たちは上司に捕まって飲みに連れて行かれた。不幸中の幸い。奢ってもらえるわけでもなし、ただ時間とお金を浪費して、愚痴に付き合わされるだけの罰ゲームだ。エナジードリンクで残業する方がいくらかマシ。お陰様で、終電にも間に合った。飲みに捕まったら、タクシーコースだもんな。




 終電は、いくらか混んでいる。一応座れはしたが、のんびりゲームを楽しむ余裕はなさそうだ。その間に俺は、あっちでやりたいことをまとめる。


 まず、暇つぶしグッズ。あっちでは、タップやスワイプで農作業するだけで、現状他にやることがない。本でも持って行こうか。資格試験の本?いや、あっちで仕事のことなんて考えたくもない。家に置いてある漫画を、1巻から読み直してもいいかな。しかしどうせなら、もっとアウトドア系の本とか、料理の本とかだろうか。小川も作ったことだし、釣りなんかチャレンジしてみてもいいかも知れない。


 そう、料理。次にやりたいのは料理だ。採れたての野菜を、コインや畑に変えたり住民に配るだけじゃなくて、自分でも調理して食べたい。もちろん現実世界こっちでやってもいいんだけど、ワンルームに付いてるなんちゃってキッチンより、あっちの立派なキッチンで作ればいいじゃないか。しかし、井戸水はちょっと怖いな。一応、ペットボトルの水でも持って行くか。


 なら、何を調達するべきか?まずは本、これはあっちに持って行って面白そうなヤツをインベントリに。そういえば、あっちではずっと画面の白い農場アプリを立ち上げたままだったけど、スマホって操作出来るのか?電子書籍って読めるんだろうか。この際、別に安いタブレットを買ってもいいかもしれない。


 そして、料理をするなら調理器具に食器。家にあるもので足りなければ、土日に安いのを買い足して来ればいいだろう。そして調味料、それから野菜以外の具材。まずは何から作ろうか。レベルが上がれば、あっちでも商店や飲食店を建てることが出来るはずだが、もっと住人を誘致しないといけない。他の住人は一体どこに住んでるんだ?


 まあいい。とりあえず、今夜は帰って風呂入って腹ごしらえ。それから、家にあるものをインベントリに放り込んで、あっちに出かけるだけだ。




 アプリの白い画面を立ち上げたままベッドに身を沈めると、木の香りのする明るい部屋で目覚める。ちょっと不安だったけど、ちゃんと来られた。仕事の疲れで体はバキバキだが、体調はすこぶる良い。眠っている間にこっちで活動していると、体と脳はちゃんと休めているのか気になるんだけど、そこは問題ないようだ。


 家の中は荒らされることなく、何なら玄関もリビングの掃き出し窓もきっちり閉まっていた。そういう仕様なのだろう。なんせ、ちゃんとした都市シミュレーションと違い、犯罪とか防犯とか、そういった要素もイベントもない。無料アプリだからな。


 窓を開け、空気を入れ替える。部屋は汚れた感じはしないが、掃除道具も必要かもしれない。あっちの畑では、住民がせっせと畑の手入れをしていて、俺に気付くと陽気に手を振って来る。ああ、いいな。平和ってこういうことだ。


 昨夜、帰りのコンビニで、ちょっと贅沢した。分厚い食パン、個包装になったバター、少量パックのベーコンに玉子。こっちで熱源が使えたら、リッチな朝食にしようと思って。しかし残念なことに、こっちのキッチンはまきオーブンのようだ。仕方がない、明日カセットコンロを買って来よう。食パンは生のまま、硬いバターを乗せて食す。お高いだけあって、焼かなくても美味しいな。コーヒーは、マグに淹れてきた。インスタントじゃなくて、ドリップのやつ。


 作物は、来て早々に作付けしておいた。ワサワサと早回しで育つ薬草を眺めながら、俺は優雅なモーニングタイムを楽しむのだった。

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