ELIAS SCHMIDT

 鎖の音がする。俺はベッドの傍に置いた椅子から立ち上がった。

「……マイン。これはどういう……」

 彼女が目を覚ましたらしい。非難めいた声が聞こえた。

 窓から見える空は、どんなときであっても憎らしいほど鮮やかな青色だ。今までも、これからも、この色以外を見ることはないだろう。

「……私、別に逃げたりしないからね」

 ベッドの上には相応しくない金属音に、窓の外に飛んでいた思考が引き戻される。

「だからさ、なくても大丈夫でしょう?」

 これ、と彼女が足を上げてみせるとベッドの柱に繋がる鎖が音を立てた。彼女の視線がこちらに寄越されているのを感じていた。

「……駄目だ」

 その一言を零してしまえば、胃の中に収めていたものがどろりと溶け出し抑えきれない。

「駄目だ駄目だ駄目だ。お前が何を言おうが思おうが、どんなに俺を嫌おうが、ここから出したりはしない!」

 俺はこのとき初めて彼女の顔を見た。ゆるやかに目を伏せ、黒い瞳が右下へと動いた。そして、「そう」と何の感情も感じさせない声を出した。彼女に手を伸ばす。彼女は少し肩を揺らしたが、結局何も言わなかった。だから、腕の中に閉じ込めてしまおう。

「もう向こうには帰れないものだと、諦めてくれ」

 滅茶苦茶なことを言っていることは承知で言い放った。彼女は黙り込んだままだった。俺は、言葉など返って来なければいいと思っていた。

「……『向こうでは生きられない』、だっけ。まるで、私が死ぬみたいねえ」

 静かにその口は開かれた。動揺なんて一つもないような穏やかな声だった。その言葉と彼女の表情にひどく狼狽うろたえていた。そのためか、口だけが動いてしまう。

「ああ、だから諦めてくれ」

 違う、そういうことじゃない。首を振った。よく考えてみたが、結局、彼女が「向こうで生きられない」だなんて俺は信じようとは思わなかった。

 これは俺の勝手だ。彼女の「未来」とか「幸福」とかいうものも最初から知ったことではない。生きた人間ではない俺は、時間に置き去りにされる俺は、これからそれらを理解することもないだろう。それなのに、いかにも「お前のことを思っています」というように回る口に嫌気がさしたのだ。

 彼女がここにいてくれればそれでいいのだ。もう、置いてけぼりにされて一人で待ち続けるのはたくさんだ。

「ずっと一緒にいてくれ……」

 彼女に聞こえないように小さく呟いた。



 彼女の左手から、フォークが滑り落ちた。彼女自身、驚いた顔をしたものの、左手を何度か握ったりした後、何事もなかったかのように食事を再開した。このようなことが多くなってきている。

「あまり食欲がなくて」

 そう言った彼女は、食事を半分以上残していた。時々、頭を押さえるような仕草をしており、体調が良くないのは明らかだった。それどころか、悪化の一途をたどっているようにも思えた。


「何を見ているんだ?」

 ベッドの上に座り窓の外を眺める彼女に声を掛ける。緩慢かんまんな動作でこちらを見た彼女は何も言わずに微笑んだ。それをまじまじと見つめる。窓の外の青空に吸い込まれて消えてしまうそうだ、と思った。

「あ」

 咄嗟に彼女の左手をつかんでいた。そのとき、彼女のTシャツがずれて鎖骨が見えた。

「……なあ、これ。どういうことだ?」

 鎖骨から首にかけて、肌が青黒く変色している。あざみたいだ。彼女の肩を揺すって問い詰めるも、彼女は目を泳がせる。彼女の手が腹を押さえたのを見た俺は、その肩を軽く押した。

「え、なに」

 彼女は目を見開いてベッドに転がる。俺はそこに乗り上げ、彼女のTシャツに手を伸ばした。

「やめっ……!」

 彼女は俺の手を振り払った。体を丸め、両腕で腹を押さえている。隠された! 自分勝手な感情だと分かっていても、それがなんだか悲しくて、腹立たしくて、乱暴に彼女の腕を掴みシャツをめくった。

「は」

 思わず低い声が出た。青黒い痣が腰の辺りまで広がっていた。俺はふらつく足でベッドから離れる。

「いつから……?」

「えと、……七日前で、す。どうしても治らなくて。どんどん広がっていくの」

 それはあの日から、記憶が戻ったときからずっと、ということか。まさか、俺に対する拒絶なのか。本物ではないものばかりのこの世界は、彼女に相応しくない、と。

「……それほど、ここから出たい、と?」

「そんなはず……!」

 では、なんだっていうのか! 記憶が戻るまで何ともなかったではないか。自分の世界の記憶があるから帰りたくなったのだろう。

「いいや、絶対にそうにきまっている!」

 窓ガラスを震わせるような声が出た。その拍子に振り回した腕が棚に当たって、その上に飾られた植木鉢が床に落ちた。

「あ……」

 彼女の悲痛な声が部屋に響いた。割れた植木鉢。それは彼女が花屋で買ったものだった。土が散乱し、赤い花びらを汚していた。

「……すまない」

 そこから目が離せないまま、謝罪を口にする。彼女は黙ったまま、一つ頷いた。息苦しい空気が流れた。一度冷静になれ、この部屋を出るべきだ、ということしか分からなかった。そうしなくては、とっ散らかった思考はどうしようもなかった。

「……あなたこそ、ほんとは私のことを違うモノだと思っているんじゃないの」

 扉を開く俺の背に向かって、彼女がそんなことを言う。何を伝えたかったのか理解できないまま振り返れば、彼女は明らかに失言をした、という顔をしていた。

「……ごめん」

「いいや、大丈夫だ」

 まともに働かない頭で、何が「大丈夫」なのか分からないまま口を動かした。逃げるように部屋から出ると、思っていたよりも大きな音を立てて扉が閉まる。


 廊下を足早に進みながら、彼女の青黒い痣を思い出す。

「何だアレ」

 俺とは一緒にいられないとでもいうのか。あんなに楽しそうに笑っていたというのに、向こう側の方がいいのだな。当たり前か、彼女は向こう側に居場所がある。

 いいや、本当は分かっているのだ。彼女をなじったところで、八つ当たりでしかないことぐらい。気が付かないふりをしているだけで。そうでなくては、この膨れ上がった気持ちをどうすればいい?

 扉を開け放ち、家の外へ飛び出した。道行く人の顔はいつでも変わらない。それを見るたび、憂鬱になる。彼女は、「私のことを違うモノだと思っているんじゃないの」と言った。それに対し、俺は「そうだ」としか答えようがなかった。だって、そうだろう? この世界で、彼女だけが「実在する人物」で「本物」だ。

 記憶を思い出してから、彼女の体調は確実に悪化していた。あの痣がこれ以上広がったらどうなってしまうのだろう。もしかして死ぬのだろうか。

「……ひどいな」

 こんなのあんまりだろう。帰したくない。もう、離れられない。そうでなくては、今度こそ俺は、おれは……、狂ってしまう。

 届かない場所で死ぬというなら、いっそ彼女の亡骸なきがらを抱えて、絵が朽ちるまで……

「……なんていうのは、さすがに」

 彼女の笑顔を見ることができなくなるのは嫌だ、

そう思うなら。



 金属が床に落ちる音がする。外れたかせが床に転がった。彼女の足首が赤くなってしまっていたことに罪悪感を抱く。

「あ、あの?」

 困惑気味の彼女の手を無理やり引いて歩き出した。強く手を握りすぎているだろうか。強張った手では、力加減ができそうになかった。これが最後になるなら、ぎりぎりまで手を放したくない。

 足は重たかった。動かすのを止めてしまったら、二度と動かすことが叶わないほどに。階段を一段下りるのが、苦痛だった。終わりが近づいてきているようで。彼女の方を振り返る勇気が、俺にはなかった。

 あの部屋の扉を閉じた南京錠も、中にある鉄格子の鍵も、外してある。扉も鉄格子も開け放ってあり、容易に『壁』の前にまで進むことができてしまう。

 握っていた手を離す。これで本当に最後だ。手に残った体温をかき集めるように拳を強く握りしめる。彼女の顔を見れば、かわいそうなほど真っ青になっていた。

「もう、向こうに帰った方がいい」

 強く、はっきりと言い切った。彼女の背中を押す。早く行ってくれ。俺が取り繕っていられるうちに、正気であるうちに、帰ってしまってくれ。頼むから。

「ねえ、……あのさ」

 しかし、彼女は俺の右手を再び握った。額縁に囲まれたその『壁』を背後に押しやり、俺を真っすぐに見上げてくる。鋭い視線が俺を射抜いた。

「私、向こうにはいけません」

 大きく口を動かし、はっきりと告げられた言葉は、俺にとって都合が悪すぎた。その言い方は、幼かった彼女よりも力強い気さえする。

「言わなきゃならないことがあるの。大切なこと」

「大切なこと? そんなもの、ここには一つだってない!」

 彼女もきっと気付いているんじゃないか。この世界は絵に描かれたものをもとに作られた世界だ。だから、描かれていない場所には行けない。実際、アンティークショップの角の先に進むことはできなかった。

 天気だってずっと晴れで、太陽は全く動かない。ここの人間は決められた動きしかしない。どうして、俺があれらと同じでないといえるのか。

「全部、全部偽りだ。紛い物だ!」

 彼女の手を振り払う。どうしようもない気持ちをぶつける先がなく、頭を押さえるしかない。

「もう、いいだろ。俺など放って、早く行ってしまえ!」

 感情のまま怒鳴りつけた。すると、彼女はまなじりを吊り上げて大きな声を出す。

「行きません。絶対に!」

「なんで」

 何故、こうも上手く行かないのか。


 彼女は長く息を吐くと、一転柔らかな口調で言った。

「……この絵はさ、会えなくなったはずの息子に会うために描かれたのだって」

「知っていたのか」

 俺のモデルとなった人物がいることを。

「あなたのお兄さんに聞いたの」

「彼は兄では……」

 父さんの後ろに佇む彼の顔を思い出す。俺と彼の弟を同じにするな、と怒りそうだ。あのとき届いた男の声を聞いた後でも、あの顰め面の印象の方が強い。

「ううん、お兄さんだよ。あなたは弟だ、と本人がそう言ってたもの」

「……兄さん、が?」

 彼女の唇が弧を描き、ゆるやかに目が伏せられる。

「それでね、彼らは『あなた』と一緒にここに来たかった。だから、描かれたのはマインツ」

 そうでしょう、と彼女は首を少しだけ傾けた。

「そうだ。だからこの絵のタイトルはJugend in Mainzだ。これが俺の名前……」

「『エリアス』だよ!」

 それは、俺の言葉に被せるように告げられた。

「あなたに付けられた名前は、『エリアス・シュミット』!」

 彼女が俺の両手を握って、歯を見せて笑う。

「……エリアス」

 それは、父さんや兄さんが呼びかけていたのだろうけれど、決して聞き取ることのできなかった名前だ。

 突然彼女が床に膝をついた。青黒い痣は頬まで広がっていた。息も荒く、体調は最悪なのだろう。それなのに、彼女は大丈夫、大丈夫、と繰り返しながらゆっくりと立ち上がる。その表情は、楽しそうですらある。

「けほっ、……私は、あなたのもとになった人は人づてでしか知らないけれど、あなたのことは見てきたつもり」

 得意げに口の端を持ち上げて言う。

「私が『向こうでは生きられない』のだとしたら、あなたがいないからでしょう?」

 ふらつきながらも少し背伸びして、彼女は俺に顔を近づけた。黒い瞳から目を逸らせなかった。そんな俺を彼女は声を出さずに笑う。

「……描かれていない場所には行けない、だっけ? 、あなたは描かれていないものを他にも知っているでしょう?」

 突き出された彼女の手は、痣が広がり青黒く変色しきってしまっている。

「は」

 そして、繋がれたままの俺の手にも薄っすらと青黒い痣ができていた。

「あなたはこちらでは生きられなくなったの!」

 悪戯イタズラに成功した、というような笑顔だった。初めて会ったときの彼女が思い出される。

「連れていきます。拒否権は認めません!」

 彼女は胸を張って、堂々とそう宣言した。


 彼女の言葉があれば、「俺が俺である」と言える。そして、彼女は俺を向こうに連れて行くとまで言ってくれる。なんて幸せなことだろう。

「ほら、行きましょう?」

 繋いだ手が引かれる。その掌は少しだけ震えていたが、彼女は自信満々という様子で笑っていた。

「ああ、行こう」

 何度も向こう側に行こうとして失敗した。今回もどうなるかなんて分からない。だが、もう大丈夫だという自信はあった。彼女のくれた思いさえあれば。

 俺たちは『壁』に向かって力強く足を踏み出した。



   ✽✽✽



『壁』の向こうが見えた。

「うわっ! なんだ!?」

 彼女と俺以外の声だ。そう思った瞬間、目の前に床があった。思い切り顔をぶつけたのだと気が付くのに時間がかかった。鼻を押さえながら起き上がると、ずっと見てきた美術館の廊下が視界に入る。それを隔てるものはない。

「いたた」

 彼女の声だ。そちらに顔を向けると、彼女は腰を押さえていた。顔にも腕にも、青黒い痣はない。黒い髪が揺れるのが、ひどく遅く感じた。彼女が顔を上げる。

 どちらからだったかは分からない。いつの間にか、俺たちは抱き合っていた。耳元で鼻をすする音がする。

 くすくすと笑う声が聞こえてきた。彼女が腕の力を緩める。今顔を見られるのはまずいと思うも、もう遅い。彼女が目を細めながら、俺の目元を親指で拭った。


「ふふ、心臓の音がする」

 彼女は俺の胸に耳を寄せて笑った。

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