MAIN█(下)

 そうだ。そう思っていたはずだった。それなのに、俺は泥沼にはまって抜け出せなくなっていた。彼女との記憶は麻薬のように脳を侵していた。

 俺は人に飢えていた。本当は彼女が良かったけれど、ひどく寒くて、寂しくて、俺は『壁』の向こうに声を掛け続けた。返事は一度たりともない。俺の声は誰にも届かない。それに打ちのめされると同時に、彼女は特別だったのだと安心したりもした。

 「また会えるか」という問いに、俺はなんと返したのだったか。あのときは、どうすれば彼女を送り出すことができるのか、とばかり考えていた。しかし今は、その言葉にすがって、いつ「約束」が果たされるのか、と考えるようになっている。

「ハンナ、何故来てくれないのか」

 あれから、一度も彼女と出会ったときと同じ廊下を見ることはなかった。彼女はこちらの言葉が分からないようだったから、あのときはこの絵が遠い国の美術展にでも貸し出されていたのだろう。それはある意味救いなのではないか。無駄に期待をするなということなのではないか。

 変わらない廊下を見つめ、彼女を探しているうちに、『壁』の向こう側では時間が流れていることを突きつけられた。廊下を走って怒られていた、彼女よりも少し大きな子供は、今はもうスーツを着ていた。高齢だと思っていた警備員はいつの間にか見かけなくなり、若い者に代替わりしたようだった。では、彼女は? 俺の知らない間に大人になっていくのだろうか。今頃、彼女の隣を俺以外の奴が歩いているのだろうか。俺は永遠にこのままだというのに?

 頭の中は、ずっと彼女の「馬鹿」という言葉が占めていた。もう、どんな声をしていたのかも思い出せないというのに。

「……馬鹿、だな」

 路地に寝転んだ。頬に当たる石が冷たい。それでも目は『壁』に向いていた。

 会いたい、会いたい。気が狂ってしまいそうだ。早く来てくれ。早く、はやく。



 足音が近づいてくる。そんなはずはないと思いながらも、気が付けば、俺は起き上がって『壁』に手を伸ばしていた。現れたのは長い黒髪を一つ結びにした小柄な女性だ。

「会えてうれしいよ」

 聞こえたのは、あのとき聞いたものではなく、俺が使う言葉だった。女性の黒い瞳が確かに俺の目を貫いていた。それは間違いなく彼女だ。あんなにも小さかった彼女は、同世代の女性となってそこに立っていた。

 俺は夢中で話しかけた。お前は今までどのように生きていたのか、とか、ずっと待っていたんだ、とか、そんなことだったと思う。けれども、彼女は静かに微笑んでいるだけだった。

「なあ、……聞こえていないのか?」

 俺は茫然として座り込んだ。なんで、どうして、そんな言葉ばかりが頭の中に浮かんでくる。目の前にいる彼女にとって、あの記憶はもう「過去」のことになっているのではないか、そんな考えが浮かんで体が凍り付いた。

「またね」

 彼女が笑う。「また」を聞くのは二回目だ。俺がどんな気持ちでいるかも知らないで。あちらとこちらを隔てる見えない『壁』は、知らぬ間に分厚くなっていたようだ。奈落の底で置いてけぼりを食らったような気分だ。温かな手に導かれて、たどり着いたそこから見上げるのは、満面の笑みを残し去っていく彼女の背中だったと? こんなことが許されてなるものか。

 そう思うが、俺は彼女の「また」という言葉に再び縋ってしまう。結局、俺と目を合わせたのは彼女だけであるのだから笑うしかない。


 廊下に現れる人間の服装が一周した。一年経つというのはそういうことらしい。その「また」というのが、前とは比べものにならないほど早く訪れた。

 彼女は人が少なくなる時間帯に一人で現れた。俺の声は相変わらず届かない。大学の勉強、アルバイト、部活動などについて、彼女は覚えてきた言葉を楽しそうに披露した。自分が思っていたよりも、彼女の近況を穏やかな気持ちで聞いていられたことに驚いた。

「また来年、同じ時期に」

 彼女が小さく頭を下げて去っていく。「また」は三回目だった。来年、と口に出してみる。今度の「また」は決まった未来であるらしい。こうして彼女は一つずつ年を取っていくのか、とぼんやりと思った。彼女が年老いていつか亡くなるまで、どのように生きていくのかを知ることができるならば、それは悪いことではないのだろう。

 彼女が映らなくなった『壁』を、意味もなく見つめ続ける今の自分の顔に表れているのは、諦めか、期待か、どちらなのだろうか。



 五回目の「また」を聞いた。同じ季節に彼女がやってくることに慣れつつあった。なので今回も同じであると思っていた。

 『壁』の向こうで薄手の服を着る人間が増えてきたころから彼女を待っていたのだが、彼女が来る気配がない。そのうち、向こうの人間たちの服装が変わり始めて不安が募る。彼女が来なくなってしまったとして、俺は待つことしかできないのだ。十数年も待ち続けることができたのが嘘のようだ。『壁』を見続けることも辛くなって、『壁』に背を向けてもたれかかる。

「……おい弟」

 雑音交じりの不明瞭な音だった。『壁』の方を振り返ってしまったのは、あまりにもその声が父さんに似ていたからだろう。

「は」

 咄嗟とっさに口を覆った。『壁』の向こうには誰もいない。だが、その声の主が『壁』のすぐ近くで俺に話しかけていることだけは分かる。当然だが、こんなことは今までになかった。意味が分からない。

 そもそも、俺を弟と呼ぶ存在などいただろうか。確かに、俺のモデルとなった人物には兄がいたが。父さんの後ろでいつも顔をしかめていて、俺が紛い物であることを責めているような気がした。

「ハァナは、もう来ねえ……んだ、ぞ」

 その言葉に耳を疑った。ふざけるな、と怒鳴り散らしたくなった。だが、どうせ聞こえないのだ、そんなことに意味はない。それに、後に続いた声があまりにも途方に暮れた声だったので、どう思えばいいのか分からなくなった。

「そう思わないかい? なあ、――――」

 最後の部分だけ雑音が酷くて聞き取れなかった。現実逃避のように、苦く笑うようなその声に親しさが含まれていることを意外だと考えていた。

 俺は『壁』に凭れかかったまま、ずるずると座り込んだ。鈍痛がする頭を押さえ、大きく息を吐き出した。あの言葉を信じるわけではないが、現に来るはずの時期に彼女が現れないことが俺の不安をあおる。落ち着こうと目を閉じてみるものの、脳裏に彼女の笑顔が浮かんでしまい逆効果だ。

「……信じてなるものか」

 自分自身に言い聞かせるように口にした。彼女はまた来ると言った。あの声の言うことは偽りだ。あれは、誰か知らない弟に向けた言葉だ。だから!

「その弟は、俺じゃない。……俺じゃないんだ」

 だらりと腕を投げ出し、建物の隙間から見える青空に目を向ける。

 そのとき、凭れた『壁』に、ぐんにゃりと背中がめり込むような違和感があった。

「は!?」

 反射のように振り返ったが、そこにはいつもと同じ硬い『壁』がそびえているだけだった。拳を突きつけてみても、体重をかけてみても、びくともしない。

 気のせいだったのだろうか。俺が彼女に会いたいがために起こした錯覚だったのだろうか。気が狂ってしまう。彼女に会いたい。頭の鈍痛は酷くなるばかりだった。


 不安を振り払うかのように、『壁』の向こうに視線を向け、廊下にやってくる人間の中に黒い頭を探し続けた。向こう側の人間たちは皆、厳重な防寒対策をしているようだった。

 遠くからする声だった。俺が使う、そしてずっと聞き続けている言葉とは違う響きを持っている。それが誰であるかなど、その声の主が『壁』に映っていなくとも分かる。

 そら、見たことか。あの父さんに似た声の男の言葉は出鱈目でたらめだ。俺は変に誇らしい気持ちになっていた。その一方で、それならばあの声はなんだったのだろう、という疑問が浮かぶ。姿の見えないあの声の主はどこから話しかけてきたのだろう。彼女がここに来るということは、今体調に問題があるということもなさそうだ。では、将来は? あの声が、時間が流れた先で話されたものであるとすれば? こちらは時間の流れに置いていかれているのだから、荒唐無稽こうとうむけいな話でもないような気がしてしまう。

 『壁』の向こうに現れた彼女の隣には、壮年の男性がいた。また、「シンクン」とやらか。穏やかな顔で男性の方に視線を向けていた。

 上手く考えがまとまらない。無性に苛立っていたということもあるだろう。ただ一つ、はっきりと分かったのは、俺はもう彼女と離れるのは耐えられない、ということだ。彼女が俺の知らないところで死ぬという可能性に気が付いてしまった。そんなことは許せない。


 そうして俺は、彼女をこちらへと引きずりこんでしまったのだった。衝動的な行動だった。

 ガタン、という音が聞こえた。その音に驚き、見上げた先には、傾いた額縁がある。そして、腕の中に気を失った彼女を抱えていた。

 とにかく彼女を「俺の家」に運んでしまおう、と考える。何故、こんなにも落ち着いた足取りで歩を進めることができているのか、自分でもよく分からなかった。


 ベッドで目を覚ました彼女は、ひどく混乱した様子だった。聞けば、記憶がないらしい。無理に引き込んだせいだろうか。自分の名前も、向こう側で何をしていたのかも、俺のことだって覚えてはいなかった。

 それでも構わなかった。彼女が、あなたには初めて会った気がしない、と笑ったから。構わないということにしてしまおう。

「……『壁』など、不要だ」

 きしんだ音を立てて扉が閉まったのを意味もなく見つめていた。南京錠のツルを引っ掛ける。ダイヤルは、一、九、九、一。下二桁を動かして、七、二、とする。

「あー……」

 何故、その数字を並べたのかは自分でも分からなかったが、その数字の並びに無性に苛立って頭をいた。結局、八、九、と数字を並べてその場を後にする。

 今、彼女はここにいる。それでいいじゃないか。それならば、それで。


「俺は、マインという。そして、お前の名前はハンナ。そうだろう?」

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