MAIN█ (上)

 ずっと声が聞こえていた。

「知っているか、そこのマーケットのオレンジジュースは最高だ」

 初めはぼんやりとしか聞こえなかった声は、だんだんと鮮明になっていく。この声は俺のいる世界を広げてくれる。

「人はたくさんいた方がにぎやかでいい。お前もそう思うだろう?」

 彼がそう言えば、こちらの世界は人であふれ出した。

 声がする方を目指して進む。マーケットでビールを飲む人を見かけた。

「もう十六だから、お前もビールが飲めるぞ」

 彼は、歌うように語った。彼がどのような顔をしているのか、知りたいと思った。

 速足でマーケットの中を進む。古本が積み上げった店の前を通り過ぎた。

「大きくなったなら絵本ばかりじゃだめだからな。たくさん本を読めよ」

 そして、何故そんなに泣きそうな声をしていたのかも知りたかった。

 そうしてたどり着いたのは、『壁』の前だった。声がするのは、これの向こう側からだったのだ。俺は立ち止まる。これ以上先へは進めないのだと分かっていた。『壁』の向こうは、ぼやけていてよく見えなかった。

「……お前はどこにいたって、俺の息子だからな」

 その言葉と共に、『壁』の向こうがやっと見えた。父さんだ。一目見ればすぐに分かる。向こう側にいる父さんは笑っていた。

 父さんの手には筆が握られている。ひどく疲れた笑顔で、それでも穏やかな声で父さんは語る。父さんの語りに合わせて、その筆は動いていた。


 最後に取ったその色は、きっとハイライトだ。

「……お前の名前は、俺の息子の名前は、」

 そう言いかけた彼の体が傾く。もう、限界だったのだろうな、ということは薄々承知していたが、

「……なんだ? 聞こえないぞ、父さん」

 何故自分からこんなにも弱々しい声が出たのかはよく分からなかった。

 それからずっと、こちらの世界は止まっている。これ以上広がることはない。

 『壁』越しに、代わり映えのしない廊下をずっと眺めていた。『壁』の向こうだけに変化するものがあった。

 そこを通る人たちは、少し立ち止まってこちらを見ては立ち去っていく。時折、『壁』が違う廊下を映し出すことがあるものの、『壁』の向こうの人たちは、決して俺と目を合わせることはない。

 その人たちが話していることを意味もなく聞いていた。廊下の向こうが「美術館」と呼ばれる場所であること、そして俺がいる世界が「絵の中」であることを知った。


 その日、『壁』の向こうはいつも見ているものとは違う廊下を映していた。時折聞こえる声も、抑揚が少なく柔らかい印象を受けるものだった。ああ、こういうのを言語が違うというのだったか。いまいち実感がない。

 『壁』の向こうが少し暗くなった。美術館が終わる時間なのだろう。そんなことを考えていれば、どこからか泣き声がする。その正体を探し、足元の方に小さな黒い頭を見つけた。

「何故、泣いているんだ?」

 聞こえないと分かっていて声を掛けた。それなのに、だ。

「……だあれ?」

 反応が返ってきた。こんなのは初めてだった。子供は辺りを見回して、それからこちらを見上げた。

 その瞬間、潤んだ黒い瞳から抜け出せなくなった。彼女は確かに俺と目を合わせたのだ。

「なあ、何があった?」

 問うてみるが、子供の反応は微妙だった。困惑した様子で顔を傾けた。それはどういう意味だ。

「……ねえ、なんていってるの? にほんご、じゃないね?もしかして、カイガイのひと?」

 どうやら、俺の言葉は伝わってないらしい。だがそれでも、『壁』の向こうに俺の声が聞こえたのも、誰かと話せるかもしれないというのも初めてで、俺は興奮していていたらしい。

「お前、アイスクリームは好きか? 絵本は読むのか? そちらの天気はどうだ? こっちではマーケットが開かれていて賑やかなんだ」

 言いたいことは山ほどあった。伝わっていなかったとしても、その反応が戸惑いだったとしても、俺の声が届いていることが嬉しかった。

 小さな口を開けたまま固まっていた子供は、俺が言葉を重ねるにつれて瞳を輝かせ始める。小さな手をこちらに伸ばしてくる。

「ね、そっちにいってもいいの?」

 その手はいとも簡単に、目の前の見えない『壁』をすり抜けた。まるで『壁』など無かったかのようだった。

「え、あ、ああ!」

 驚きを隠しきれないままその手を掴めば、子供の体は勢いよくこちらに飛び込んでくる。

「えへへ。こんにちは、きれいなかみのおにいさん!」

 腕の中にすっぽりと収まった存在は温かく、そしてとてつもなく軽かった。俺が抱き上げれば、声を立てて笑いながら俺の首に手を回してきた。

 その小さな体は脈打っていた。これが鼓動というものか。心地よい音だ。俺やこの世界の住人たちにはないものだ。



 子供は、俺に手を引かれながらずっと黒い瞳を輝かせていた。ありふれた景色すら、彼女にとっては物珍しいものであるようで、見るもの全てに「すごい、すごい」と言った。

「あのね、わたしね、ハナっていうんだよ。シミズ、ハナ!」

 繋いだ手を揺らしながら子供は言った。それが彼女の名前らしい。

「……ええと、ハァナ?」

「ううん、ちょっとちがうかな?」

 ちょっと違ったらしい。ぷくぷくと頬を膨らませているのは微笑ましい。

「ハナだよ。ハ、ナ!」

「……ハンナ?」

 彼女はあごに手を添えて小首を傾げた。どうやら判定を考えているらしい。

「さっきのよりは、ちかい、かも? うん」

 納得したようだ。何度か頷いた後、にぱっと笑う。

「じゃあ、おにいさんのおなまえは?」

 さも当然のようにされた質問に、俺は答えられなかった。俺に名前はない。美術館に来たのだという人たちの言葉を借りるのならば、俺はただの「マインツの青年」なのだろう。俺を見つめる黒い瞳は、なかなか答えが返ってこないことを不思議に思っているようだった。

「……Jugend in Mainz.」

 残念ながら、お前の期待には応えられそうにない、とやけくそ気味に言ったそれに、彼女は面食らった様子だった。

「よぉ……、まい……? ごめんね、うまくいえないや」

 俺が怒っているように見えたのか、彼女は泣きそうな顔をして、もう一回、と言う。そういえば、彼女はこちらの言葉の意味が分かっていないのだったか。だから、今のが名前でないと分からなかったようだ。そう思えば、悶々とした気持ちは消えていくような気がした。

「マイン、だ」

 そう言えば、彼女は「まいん、まいん」と繰り返しながらぴょんぴょんと石畳の上を跳ねた。あまりに嬉しそうにするものだから、本当はそれが名前ではないということに少しだけ罪悪感を抱いた。


 小さな頭が揺れている。元々、あそこでかなり泣いていたので疲れていたのだろう。歩く速度も落ちてきていて、今にも瞼が落ちてしまいそうだ。彼女が生きるためには、眠らなくてはならないことは知っている。もう少しで「俺の家」に着くのだが、そこまで耐えてくれるだろうか。そう考えて、俺が当たり前のように彼女を絵の向こうに帰さないようにしていたことに気が付く。

「いたいよ、まいん」

 そう言われて、小さな手を握る自分の手が震えていることにも気が付いた。なんだかおかしな気分だ。自分がどうにかなってしまいそうだった。

「……あのね、まいん」

 眉を下げていて、寂し気に唇をむ彼女は、言い出しづらいことを伝えようとしているのだと思った。向こう側に戻りたいと思っているのだろうか。俺よりも高い温度を持つ手。それは彼女がこちらの人間ではない証拠だ。向こう側に大切な繋がりがあるのだろう。だから、彼女が一言でも「帰りたい」と言うのならば、俺はすぐにそれに従うつもりであった、のだと思う。

「……わたし、かえらないからね。いい?」

 弱々しく言われた言葉は俺の考えていたものとは真逆で、え、と声が出そうになるのを飲み込んだ。それはあまりに俺にとって都合の良い言葉だったからだ。

「だって、しんくんがね……ひどいの。ぱぱとままは、もうかえってこないってゆうの!」

 その口ぶりは、怒っているというよりも、ねているという感じであった。少なくとも、彼女が「シンクン」とやらを嫌っていないということだけは分かる。

「……そうか」

 簡単な言葉であるというのに、それを口に出すのに時間を要した。



 二階から駆け下りてくる音がする。新しく買ったワンピース姿で現れた彼女は、挨拶もそこそこに「みてみて!」と言ってその場でくるくると回った。そして、テーブルに並んだ食べ物を見た瞬間、目の色を変えて着席する。

「まいん、わたしのはハムいっぱいね!」

 お手伝いをするのだと言って、彼女は満面の笑みでパンにハムを挟めるだけ挟んだ。通常よりも少々多めにハムが入っているだけで、そこまで笑顔になれるものか、と感心した。

「俺はこれがいい」

 蓋を開けた瓶を差し出す。彼女にとってそれは見たことのないものだったらしく、鼻を近づけてから「まいんはあまいのがすき?」と聞いてくる。甘いものが好きか嫌いかなど、今まで意識したことがなかったので言い淀んだ。

「じゃあ、いっぱいぬってあげるね!」

 何がどう繋がって「じゃあ」なのかは知らないが、彼女は楽しげに歌いながらパンにそれを塗り重ねた。案の定、差し出されたそれは甘ったるいだけで、好きかどうかはよく分からなかった。

「……そろそろ買い出しに行かねばならんな」

 俺がつぶやいたのを聞いたらしい彼女は、パンを頬張るのを一度止めて首をかしげた。その反応に、そういえば彼女は俺の言葉が分かっていないのだったということを思い出し、壁に掛けられた帽子を親指で指せば、立ち上がり「まるくと、まるくと!」とはしゃいだ様子で覚えたての言葉を口にした。

 日差しが強いので、彼女の小さな頭に帽子を被せ、二人手を繋いで家を出る。彼女は、相変わらずこの景色に珍しさを感じるようで、辺りを見回して何度も立ち止まる。

 マーケットでは、今までとは逆に彼女に手を引かれて進んだ。彼女は食べ物に目がないらしく、よだれが垂れそうになっては、慌てて取り繕っている。「あれはなに、これはなに」と指を差し、今にも走り出していきそうだ。

「おいしいね。にぎやかだねえ、たのしいね!」

 彼女が笑う。これは美味しいのか。賑やかだと楽しいのか。彼女がいると新しい発見がいっぱいだ。

「……しあわせだねえ」

 彼女は繋いだ手をぶんぶんと揺らした。幸せ、か。心の中で呟いてみる。

「あ、まいんがわらった!」

 彼女は俺の周りをくるくると回り、ぴょんぴょんと跳ねた。

「また、こようねえ!」

 小さな唇が弧を描く。瞳が優しい色に染まる。その視線の先にいるのは、間違いなく俺だ。それは、世界が覆るような、違う世界に飛び込んでしまったかのような衝撃だった。


 行きう人をかき分けるようにして進む。今まで走ったことなどなかったため、下手くそな走り方だった。

「ハンナ! 返事をしてくれ!」

 どこを見渡しても、あの黒い小さな頭は見当たらない。もしかして、帰ってしまったのか? そんなことが頭をよぎるが、すぐに否定した。先ほどまで共にいて、そんな様子はなかったではないか。

「ハンナ、ハンナ!」

 大声を出してみるも、返ってくるものはない。人が多すぎて向こうが見えない。こんなに俺が叫んでいるのに、道行く人間たちは振り返りもしない。

 当然だ、何もおかしいことなど無い。そう思うのに、彼女が見つからないことに気が立っているせいか、その存在が不愉快で仕方がなかった。

「……こんな」

 こいつらは彼女とは違って、本当は生きていないまがい物でしかないくせに!


「まいん」

 声が聞こえた。近くにいるはずだ。俺は再び走り出した。

「ハンナ!」

 彼女を見つけることができたのは、大聖堂から随分と離れたところだった。アンティークショップの角を曲がった路地。人通りが少なくなる場所だった。

「まいん、まいん……」

 しゃがみ込んで顔を腕で覆った彼女は、こちらには気が付いていないようだった。すぐに駆け寄ることができたならば良かったのだが、彼女がそこにいたことに動揺を隠せなかった。この路地は先に進むことができない。それを俺はよく知っていた。どうやら俺は、彼女にはそれを知られたくなかったらしい。

「ぱぱ、まま。……しんくん」

 ぬぐいきれなかった涙が彼女の頬を流れ落ちる。声を掛けなくてはと思うのだが、俺の口は全く動いてくれない。

 また「シンクン」とやらだ。向こうには彼女を大切にしてくれる「生きている人間」がいる。それは紛い物なんかではない。

「ハンナ、無事で良かった」

 平静を装い、今来たばかりであるかのように声を掛ける。

「まいん!」

 こちらに気が付いた彼女が、その小さな体にあるとは思えない力で抱きついてきた。俺はそれをしっかりと受け止めた、はずだ。俺は確かに立っているはずなのに、地が消えていくような、足元が危ういような、そんな感覚がする。

 それも、彼女の温もりが心地よすぎるせいだ。鼓動が聞こえるせいだ。

「なあ、ハンナ。家に帰ろうか」

 俺が差し出した手に小さな手が無言で重ねられる。言葉の意味が分からないながらも、何かを察しているのかもしれない。俺は歩き出した。

 強く手を握りすぎているだろうか。許してほしい。今ぐらいはその手を放さずにいたいから。もしかしたら、歩みも速くなっているかもしれない。「まって」と小さく言ったのが聞こえた。でも、俺は止まってやれない。今、止まってしまったら全てを投げ出してしまいそうだから。

 家の前を通り過ぎてしまったからだろうか。不安げにこちらを見上げている。彼女の方を振り返れなくなった。


 それはある路地の奥に置かれている。金の額縁に囲まれたその『壁』は、今まで見てきた廊下を映していなかった。曇ったガラスのようだと思った。彼女がこちらに来てしまったからだろうか。

「……これって!」

 彼女が鋭い視線をこちらに寄越よこした。怒っている、のだろうか。もしくは俺がそう思いたいだけか。

「あっ」

 俺が手を離すと、彼女は心細いような小さな声を漏らした。大丈夫だというように、その背をでる。向こうにも彼女の手を握る奴がいるのだろう、と考えて瞼を閉じる。

「まいんは? いっしょにいこ?」

 彼女は、俺の服のすそを引っ張った。俺は首を横に振った。

「俺はここから先にはいけない」

 『壁』に手を触れてみたが、硬い感触がするだけだ。彼女のようにすり抜けることなどできそうにない。自分のした行動だというのに、それを改めて突きつけられて打ちのめされる。

「じゃあ、いかないよ! わたし、かえらないってゆった!まいんといっしょじゃなきゃやだ!」

 俺の腕を掴んで彼女が叫ぶ。喜んではいけない、そう思うほど体が強張っていく。

「まいん、あのね、」

「待っているのだろう? 『シンクン』が」

 彼女が言いかけた言葉をさえぎるように声を出す。その続きを聞いてはならないと思った。だからだろうか、思っていたよりも強い声が出た。「シンクン」という言葉が聞こえたのだろう、彼女はもの言いたげに口を開いたが、結局噤つぐむことにしたらしい。温かい風の音が嫌に耳に残る。

 彼女が息を吸ったのがはっきりと聞こえた。

「またあえる?」

「……ああ、きっとな」

 彼女の顔を見ることができない。『壁』を見ていることを装い、そこから視線を外さなかった。

「……そっか。やくそくよ」

 彼女は頷いてそう言った。彼女が歩き出すのを見て、やっと肩の荷が下りたような気がして息を吐いた。

 俺は来た道を引き返すことにした。彼女があの『壁』の向こうに行く瞬間を見たくなかった。石畳がゆがんで見える。視界がにじんでいることには気が付かないふりをした。決して振り返ったりしない。

「まいん!」

 しかし、その覚悟は容易に覆され、俺は振り返ってしまうことになる。聞こえてきた声が、叫ぶようなその声が、あまりにも悲痛だったからだろうか。

 『壁』の向こうに片足を踏み込んだ彼女は大きく目を見開いていて、俺の顔を凝視しているようだった。おそらく、俺は相当ひどい顔をしていたのだと思う。

 指先がこちらに伸ばされる。走り出して、今すぐその手を掴んでしまいたい衝動に駆られたが、彼女の視線から逃れるように目を伏せて耐えるしかない。石畳が濡れていく。

「……まいんの、ばかぁ」

 小さなその声が突き刺さった。顔を上げたときには、彼女は『壁』の向こうに消えていた。目の前には、曇りガラスだけが残っていた。膝の力が抜けてその場に崩れ落ちた。

 ガラスの曇りが晴れていき、徐々に向こう側の様子が鮮明になっていく。俺はそこから動くこともできずにそれを見ていた。彼女が向こうに見えるのではないかと、それだけを思って。

 見えたのは、警備員の男と、眠る彼女を大切そうに抱きかかえる黒髪の青年だった。その青年は、俺と同じくらいの年の容姿で、おそらくあれが「シンクン」なのだと分かる。

 これでいい。彼女はこの世界の人間じゃなかった。これは俺がするはずのない経験だったのだから、これからはいつも通りの生活に戻るだけだ。

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