KLAUS SCHMIDT

「コンニチハ」

「ふふ、こんにちは」

 ベッドの住人である彼女は、「また、来てくれた、のね」とゆっくりと口にしてぎこちなく笑った。原因不明の病に侵された彼女は、もう口も上手く動かせなくなってしまったのかもしれなかった。

 ベッドの横に備え付けられたパイプ椅子に腰を掛け、杖を近くの床頭台しようとうだいに立て掛ける。その台に備え付けられたテレビの前に、いつかのクマのぬいぐるみ、そしてゼラニウムの鉢植えが並べられていた。確か、日本では見舞いに鉢植えは良くないのではなかったか、と思ったが、部外者である私が指摘することでもないと思いなおした。

「お前さん、こんな老人よりも先に寝たきりかい?」

「それ、三回目、よ」

 分かっているくせに、と向けられた視線が物語っていた。ゆったりとした動きで目が伏せられる。彼女はこんなにも諦めた目をする人だっただろうか。

「……最近、忘れっぽくてかなわんなあ」

 彼女の体からは無数の管が伸びていて、手はピクリとも動かない。ぼんやりとしていて、どこか遠くを見つめている。そう感じてしまうのは、出会ったときの彼女が不慣れな言葉を使っており、必死で伝えようと目を合わせ、せわしなく身振り手振りをしていたからかもしれなかった。

「彼、どうしている、かしらね。……もう、会えないん、だった、か」

 その声は哀しそうに響いた。彼、とはあの絵のことか、という言葉は飲み込んだ。否、いびつな笑みを浮かべた彼女を見て飲み込まざるを得なかった。


 彼女の叔父が病室に入ってきた。軽く頭を下げる仕草が彼女そっくりだ。彼は目を覚ましている彼女を見て驚いた顔をした。もう、彼女が起きている時間の方が珍しかったのだろう。

 パイプ椅子から立ち上がり、彼に一つ礼をする。

「では、またな」

「ええ、また」

 彼女は静かに笑って目を閉じた。



 病院を出て駅までアスファルトで舗装された道を歩いた。少しの距離であるというのに、ゆだるような暑さのせいで汗が止まらなかった。日本の夏というのは終わったのではなかったのか。


 彼女は私の年の離れた友人だ。初めて会ったのは、今から六年前の夏、息子の同級のヤツが働いているというぬいぐるみ専門店を訪ねたときだ。そこにいた彼女は、使い慣れないのだろう紙幣を何度も見返しながら数えていて、それがなんだか微笑ほほえましくて近づいていったのだったか。一生懸命にドイツ語を話す彼女を見て、若いっていいな、と思ったのをよく覚えている。

 二度目は、近所を散歩していたとき。ふと目についた真っすぐな黒髪に、前に会った彼女を思い出して声を掛けたところ、果たしてそれは彼女本人であったというわけだ。実際、いつぞやのクマのぬいぐるみがかばんからのぞいているのを見て、それは確信に近かったのだが。

 彼女が日本からこちらにまで来たのは、幼少期に見た絵を直接見たかったからだという。二度もこちらに来る理由になるほど、彼女にとって思い入れのある絵。それが、父が最後に描いた絵だったのだからひどく驚いた。

 正直、あの絵にはいい思い出がない。思い出したくない過去そのもの、といってもいいかもしれない。父が命を削るようにしてその絵を描いていたときも、私は見ているだけだった。

 それでも、その絵がいいと言ってくれる存在がいるというのはうれしいものだ。

 彼女との親交はそれからも続いた。連絡を取り合うようになり、夏にこちらにやってくる彼女に必ず会うようになった。この国の文化に興味津々しんしんの彼女をあちらこちらに引きずり回し、学生である彼女の話を聞くのが年に一度の楽しみとなりつつあった。

 一昨年の夏、こちらには来られないという連絡があった。社会人となった彼女は仕事で忙しかったのだろう。来年は来られるといいな、といった言葉を返した覚えがある。


 それは、その年を終える頃、天気予報で日中の気温は三度、などと言われた冬の日だった。彼女が突然私の家の前に現れたのだ。そんな連絡は一切なかったので、玄関を開けた私はついに幻覚でも見たのかと思った。そのことを彼女も分かっているのか非常に申し訳なさそうな顔をしていた。

 外の寒さに震える彼女は、明らかに様子がおかしかった。家の中へ案内したときも、彼女の足取りは覚束おぼつかなくて、ずっとうつむいていた。「なにかあったのかい?」と尋ねても、「ごめんなさい」としか返って来ず、最後には涙声が混じり始めた。結局、その日は彼女の叔父が迎えに来たのだったか。

 叔父と共にいたにも関らず、わざわざ私の前に現れたのだから、何かあったのだとしたらあの絵のことだろう、とは思った。だとしても、私はそれを無理に聞き出そうとは思わなかった。あの絵について言いたくない秘密があるのはこちらも同じであるからな。彼女は何度か聞きたいことがあるような顔をしたが、結局尋ねてはこなかった。私もそうするべきだろう。


 病室で、あの弟のことを「彼」と呼んだ彼女は何を考えていたのだろう。分刻みで発車する電車に乗り込みながら、そんなことを考えた。


 彼女が息を引き取ったと聞かされたのは、その三日後のことだった。誰もが、まるで眠っているようだ、と言ったという。



   ✽✽✽



 まだまだ日差しが強い外に比べれば格段に涼しい美術館を進み、その絵の前で足を止める。日常的に見ている風景が描かれた絵の中で、彼だけが異質に見えた。

「トシィ? 十六以上じゃなきゃなんねえ。これは決まりだ。……だって、ビールが飲めなきゃ可哀そうだろ」

 かつて父はそう主張したんだったか。果たして理由はそれだけだったのだろうか。〝壁〟の向こうに置いてきてしまった弟。彼がいなくなったのは……。だが、何にせよ私の中の弟は永遠に四歳のままだった。


 最後に弟を見たのは、私が十六のとき、そして父と共に住み慣れた家を出るときだった。

 植物が絡みついた鉄の柵の前で、父と母は無益だとしか思えない言い合いを続けていた。父が持つはずだった大量の画材を拾い上げ、私はため息をつきたい気持ちでいっぱいだった。

「にいちゃん、いっちゃうの?」

 母の後ろに隠れていた弟がこちらを窺っている。大人しくて感情の起伏の少ない弟だが、その目が確かに不安を訴えかけていた。私はうなずくことで弟の問いに答えた。答えとなる言葉を持ち合わせていなかったからだ。

 後悔はたぶんない、のだと思っていた。そのときの私には、あそこから離れなければやりたいことが出来なかった、それが全てだ、と。それでも、傷ついた顔でこちらに手を伸ばした弟の瞳が忘れられなかった。


 それから三十年ほどの月日が経ったある日、父がキャンバスの前から動かなくなった。きっかけは、弟が行方不明になりそのまま死亡宣言を受けていたと知ったことだった。私たち家族を隔てていた〝壁〟が崩壊して、情報が入ってくるようになったのだ。しかも、詳しく聞いてみれば、行方不明になったのは一九七二年。つまり、十八年も前だったという。

 それまで、私たちは弟がどこかで生きていて、いつか会えるものだと信じ切っていたのだ。父は寝食を忘れてその絵を描き続けた。すっかり憔悴しようすいしきっていても、眼光だけは鋭く、かたくなにそこから動こうとはしなかった。まるで、そこから一歩でも動いたら死ぬとでもいうかのように。

 唯一、父が穏やかな顔をしたのは、私がその絵について質問したときだった。だから、私は何度も質問を繰り返し、父はそれを喜々として語った。絵の中の彼が立つのは私たちが住んでいる場所なのだ、とか、彼は十六になってもソフトアイスが未だに大好きでマーケットではアイスクリームを必ず買うのだ、とか。それが現実であるかのように語った。

 決して口には出さなかったが、やめてくれ、と思っていた。もし弟が生きていたら、と考えさせるのは。「Wennもしも」のことを想像したところで、それは決して現実にはならないのだから。その絵の向こうに弟がいるわけではないのだから。薄情なのかもしれないが、私はそのことを忘れたように生きていきたかった。

 父は絵の完成と共に他界した。それ以来、私はその絵を見ないようにしてきた。美術館に寄贈してしまえば、そこに足を運ばない限り見ることはないわけだ。


 だから、彼女に出会わなければ、私はこの美術館に足を踏み入れることは死ぬまでなかったであろう、と苦笑する。彼女があまりに楽しそうに「彼」について話すから、まるで、「彼」が生きているかのように話すから、つられてしまったのだろう。なんだか愛着が湧いてきてしまったのだ。

「……おい弟」

 初めて、「彼」のことを「弟」と呼んだ。

「ハァナは、もう来ねえ……んだ、ぞ」

 あいつがこちらに手を伸ばして笑っていた。最後に見た幼いあいつの表情とは大違いだ。今までなら、これが幻想でしかないのだと思い知ったような気持ちになっていたことだろう。

「原因不明の病気だってよ。体が動かなくなっちまうんだ。意味が分からないだろう?」

 やはり、というべきか、絵から返答はない。それでも私は言葉を続けてしまっていた。


「老人よりも先に行っちまうとは、ひどいやつだろう? そう思わないかい? なあ、エリアス」


 この『壁』の向こうの「もう お一人の弟」へ。

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