HANA SHIMIZU(下)
二度目の夏、私は再びドイツにやってきた。フランクフルト空港から電車に揺られて三十分、マインツ中央駅で下車する。まず向かうのは、マインツ大聖堂だ。
今日は生憎の曇り空だが、徒歩で進むには心地よい気候であるとも言えた。木組みの家が並ぶ旧市街はどこもお洒落で、ついつい細い路地にまで入っていきたくなる。小さな装飾や、お店の看板を見つけてはニコニコしてしまう。すでに私のスマホは写真でいっぱいだ。
肩掛けバックにスマホをしまうため一度立ち止まる。顔を上げると、すぐそばを明るい髪の男性が通った。それを目で追ってしまっていて、私ってダメね、と首を振る。
マインツ大聖堂。行ったことがないはずなのに、その建物に見覚えがある。さらに言えば、石畳の模様にまで既視感がある。足元がふわふわとしておぼつかないような感覚だ。
ここは彼が立っていた場所だ。大聖堂に、マルクト広場。でもなんだか違うな、と思う。
人はそこまで多いとは思わなかった。今日は火曜日だったが、十四時はとっくに過ぎていて、マーケットは撤収した後だった。「巨人の柱」と呼ばれるらしいモニュメントの全貌が見える。私が絵で見たときはマーケットの出店に隠れていたのだろう。
大聖堂を背にして、今まで歩いてきたところを振り返った。これが彼の見ていた景色か。空を見上げれば、厚い雲に覆われていた。
「鉛色、か」
石畳を見下ろして一つ呟いた。ここまで来て、彼はここにはいないのだなあ、だなんて思ってみたりする。
広場の向かいのカフェがテラス席を出していたので、そこでアイスコーヒーを頼んだ。バニラアイスと生クリームがたっぷり入ったコーヒーを飲みながら遠目で大聖堂を見る。
「
後ろから声を掛けられた。一人旅の私に声を掛ける人物が思い浮かばず、ひどく驚いておそるおそる振り返ると、目に入ったのは見覚えのありすぎる白髪交じりの茶髪だ。
「フランクフルトマスターだ」
「今は、マインツマスターと呼んでくれ」
彼は自信満々ににやりと笑って答えた。
「で、お前さん
ゲラゲラと笑いながら、私の背を叩く。痛い。なんだか懐かしいなこの感じ。
「いいや。ザンクトシュテファン教会はまだ行けていないの。ここの観光は楽しいよ。まあ、曇り空にはうんざりしてるけど」
彼の顔を見ていると、ふと彼が「マインツがワインも有名なのだ」という話をしていたことを思い出した。
「ところで、マインツマスター? ワインが飲めるおすすめのお店はどこ?」
「よしきた。お前さんも大人なら、パーッと飲みたい気分のときもあるよな!」
彼はやっぱり私の背を叩いた。背中の皮が厚くなりそうな予感がして、私は大きな口を開けて笑った。
「地元民御用達の知る人ぞ知るワインハウスに行こうじゃあないか。それでいいだろう?」
「
私は元気よく返事したのだが、彼は「その返事、気が抜けそうになるからやめてくれよ」と口を尖らせた。
細い路地の奥の奥、隠れ家みたいにその店は
お店の中心にある
「
カウンターに立つ店主は、彼と同年代ぐらいの男性だった。私を見るなりウインクをしてきたので、かなりお茶目な人なのかもしれない。それに対し、「おいおい、私は無視かい?」と言う彼とも親しそうだ。
「んで、お前さんは絵で見たのと同じ光景を見ようとして、曇り空にがっかりしたわけだな」
ワイン片手に、うんうん分かるよ、と彼は頷いた。自分が考えていたこととは違うような気がしたけれど、そんなことまで語ろうとも思わなかったので、そうそう、と同意した。頷いてからよく考えたら、彼が言っていることは間違っていないなと思う。確かに、私はがっかりしていたのかもしれない。
「今年もその美術館に行ってきたの」
私がそう言うと、彼は何かを考えるような表情をした。自分の唇を親指で軽くなぞって、ちらりとこちらを見る。
「……お前さん、その絵の作者を知っているかい?」
「ええっと、……カール、シュミット?」
辛うじて出てきたその名を口にすると、彼は何度か頷いてから自分の胸を指差して得意げに言った。
「お前さんの目の前にいるこの老人、クラウス・シュミットっていうんだけれど?」
意味ありげに言われたその言葉を
「……もしかして、関係者だったりする? 同じ姓だし」
私がそう言うと、彼の口元が意地悪気に歪む。
「バァカ、この国にシュミットさんが何人いると思ってんだ!HAHAHA!!」
彼はまたもやゲラゲラと笑って私の背を叩く。また、騙された! 「もう、ひどい人!」とわざとらしく口を尖らせる。
「……まあ、でもカール・シュミットは私の親父だよ。それで、絵の男は私の弟さ」
彼は急に真面目な顔になってそう言うと、ワイングラスに口を付けた。
「
疑わし気な顔をした私に、彼は神妙な顔をして頷く。
「
どうだろう。そんな巡りあわせがあっても良いものか。そんなことを考えていたところ、店主が口を開いた。
「コイツは若者を
✽✽✽
かなり慣れてきたフランクフルトの街を歩く。それでも冬に来るのは初めてで、ぶるりと体が震える。
「シンくん、ほらこっち!」
少し先を進んでいた私は振り返り叔父を呼んだ。
「へいへーい」
叔父は呆れを隠さずにそれに応える。彼は私の元保護者だ。年の差はちょうど一回り。父親のようで、兄のようで、年の離れた友達のようで、でもなんかちょっと違う。つまりは叔父だ。全てはこれに集約する。
大学進学を機に、六歳のころから一緒に生活していた彼の家を出た。そのまま出た先で就職し、自転車で通勤できる距離に部屋を借りたわけだが、車で二時間ぐらいの距離なので結構な頻度で叔父の家を訪ねている。というか、叔父が迎えに来る。最近、立派な黒い車を買ったので乗り回したいらしい。別に車に興味はないけれど、叔父が楽しそうに話すので少しだけ羨ましくなる。
大学生のころと同じように、夏にドイツへ行こうと思っていたのだが、仕事が忙しくお盆休みまでに旅行の準備ができず断念。確か、スマホ越しに叔父にそんな愚痴を零していたような気がする。
やっと年末年始休みを迎えた、というところで、玄関のチャイムが鳴った。年末年始は叔父の家で過ごすと言ってあったから、迎えに来たのだろう。思っていたよりも少し早かったな、と思いながらドアを開ければ、案の定叔父が立っていた。そして、叔父は私を見るなり、にやりと笑ったのだった。彼のズボンのポケットから出てきたのは、二人分の航空券。そういうわけで、今私たちはここにいる。
フランクフルトに来たらまず行くのは、美術館。叔父は随分昔は美術館巡りを趣味としていたのでそのことに文句はないらしい。ただ、私が一つの美術館に執着して通っていたことは少し意外だったのか、思案顔をしていた。
周りの迷惑にならない程度に、小声で作品について話しながら歩く。叔父の作品の捉え方は、自分とは違う視点が入っていて面白い。
叔父には『彼』のことを伝えていない。叔父がその作品の前で立ち止まったとき、無意識に唾を飲み込んでいた。声に出さずに『彼』に挨拶をした後、横目で無言になった叔父の様子を
「……お前、笑ってんぞ」
叔父が揶揄うように言った。そのせいで、なんだかとっても恥ずかしいことのように思えてきた。まるで、親に恋人を紹介する人みたい。誤魔化すように口を開く。
「……そう? シンくんが気に入ってくれたのが嬉しかったからかもね」
そう言った瞬間、誰かに腕を掴まれたような感覚がした。
「え?」
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