HANA SHIMIZU(上)

 決して離さないように、ときつく握られた、私よりも大きな手。その感触を今でもよく覚えている。

「まいん、あのね」

 あんなに強く握っていたくせに、あっさりとその手は離された。

 離れていく後ろ姿に手を伸ばす。彼は振り返ってくれやしない。届かない。

「まいん!」

 金色が風になびく。

 あおい湖面が揺れているのが見えた。

 しかし、私の体は吸い込まれていく。

「……まいんの、ばかぁ」

 残った言葉はそれだけだ。


 あの日から、私の中でずっと何かが足りない。


 私はもう狂ってしまっているのかもしれない。


 大学に入って初めての夏季休業が始まると同時に、私はバイトで稼いだ僅かなお金とお年玉貯金の総額二十万円を掴んで最近過ごし慣れてきたアパートを飛び出した。正直言って、このときの私に計画も何もなかった。大丈夫、なんとかなる、という謎の自信の下、駆け出したのである。耳に当てたスマホの向こうから、困惑気味の叔父の声が聞こえることに爽快さすら感じていた。

 たどり着いたのは、フランクフルト空港だ。行先は決めてある。美術館の閉館時間をもう一度確かめてから歩き出す。初めての海外一人旅、楽しまねばなるまい。



 地図を片手に親切な方に道を尋ねつつ美術館にたどり着いたのは、十六時を過ぎたころだった。平日でしかも少し遅い時間帯だったからか、人はまばらだった。それを有難く思いながら、暗めの照明がついた通路を歩く。

 もう久しく美術館には来ていなかったが、絵画を見るのは好きだ。自分の口角が上がっているのが分かる。興味を引くものの前で立ち止まり、じっくり時間を掛けて見るのは楽しい。しかし、今日はどうもそんな気になれなかった。いくら好みのものを見つけても、なんだか落ち着かなくて足が自然と動き出す。

 歩を進めるほど、私の足音の間隔は狭くなっていった。自分がどこに向かうべきか確信があるような感覚がしていた。

「あ」

 そこに足を踏み入れた瞬間、今までと違う空気が頬を撫でた気がして立ち止まる。拳を握りしめ、その先に見えるものを真っすぐに見据え歩き出す。先ほどと一転、地を踏みしめる足は慎重になっていた。自分の足音がやけに鮮明だった。

 なかなか縮まらない距離がもどかしくて、自分の足が震えていることに気が付いた。ああ、緊張しているのかもしれない。

 足音が止まる。目の前のそれを見上げる。真っ暗な美術館の中で、その絵画だけが鮮やかに私の目には映った。

Freut mich会えてうれしいよ!」

 するりと口から出てきた。それは、何度も練習してきた言葉だった。

「まいん……」

 もちろん、そこから返事はない。しかし、確かにそこに彼は立っていた。

 淡い金色の髪に碧い目を持った青年だ。雲一つない青空の下、少し眩しそうな表情をしていた。唇は一文字に引き結ばれているけれど、こちらに手を伸ばす彼は幸せそうに見えた。

 彼の後ろには色鮮やかな街、大聖堂が描かれている。広場で行われているマーケットには多くの人間が行き交っているようだった。

 ふとキャプションボードが目に入った。作品名は「Jugend in Mainzユーゲントインマインツ」、日本語にするなら「マインツの青年」あたりだろうか。作者はカール・シュミット、制作年は一九九一年。へーそうなのか、とは思ったがあまり興味はなかったので、視線はすぐに彼の方へ戻る。


 とんとん、と軽く肩を叩かれて振り返ると、警備員さんがいた。彼が腕時計を指し示すので、閉館の時間になっていた、ということに気が付いた。

 警備員さんに一言謝ってから、前にもこんなことがあったな、と苦笑いする。あれは、六歳のころで、日本の美術館だったが。絵の前で眠りこけているのを、警備員さんに発見されて怒られたのだ。

びす、だんまたね!」

 私は笑顔でそう言った。



 観光地に向かうわけでもなく、ぶらぶらと街を歩く。それだけで私の気分は上昇し続ける。一人だけであるという気楽さと、日本とは違う空気に浮かれているのだろう。

 ふと、小さなショウウィンドウの前で立ち止まる。可愛らしいクマのぬいぐるみと目があったような気がした。たくさんのぬいぐるみが並ぶその店は、まさに楽園。

 いかにも専門店、という雰囲気に、少し敷居が高いように感じるが、これは腹を括るしかあるまい。なんとしても、旅行のお供を連れて帰るのだ。そんな決意とともにドアに手を掛けた。

「ぐーてんたーく……?」

 お店の中を見るときに、ちゃんと店員さんに一言挨拶した方がいい、とどっかで聞いた気がするという曖昧な知識のまま、カウンターにいた中年の男性に声を掛ける。見た感じ不愛想そうな店員さんだったのに、「Guten Tag!」と、ニコニコ笑顔で挨拶が返ってきた。これが萌え、というやつだろうか、いやそうじゃないだろう、と考え始める。

 お店に並ぶぬいぐるみたちはどれも可愛らしくて、ついつい目移りしてしまう。しかし、連れて帰りたい子はショウウィンドウで見たクマさんだけだ。手に取ってみれば、実に私好みの手触り! 値札を探してみるが、どこにも見つからない。

「ゔぁず、こすてっと、だす?」

 店員さんに値段を尋ねてみる。が、物凄いスピードで返ってくる言葉についていけない。これでもゆっくり話してくれていると思われるのだが。なんとか聞き取れたのは、「Achtzig」、つまり八十ユーロだ。うわ、高い。でも、諦めきれない……。

「いひ、ねーめ、だす」

 ゴシック建築がデザインされた紙幣を四枚。私のドイツ語が相手に伝わっている自信がなかったので、財布からお金を取り出すことで買う意志を伝える。八十ユーロを紙幣で出し、端数はよく分からなかったので、とりあえず一ユーロ硬貨を五枚、紙幣の上に乗せた。店員さんが頷いてくれたのでほっとした。

「Hallo!」

 少ししわがれた声が聞こえて振り返った。私の後ろに立っていたのは、杖、ステッキ? をついた白髪交じりの明るい茶髪の男性だ。六十代ぐらいだろうか。外国人の年齢というのはよく分からない。

 どうやら男性は、店員さんと知り合いらしく、楽し気に話し始めた。私のお会計はどうなるのだろう。少し不安に思いながら彼らの話に耳を傾ける。「Enkelin」という単語が聞こえてきたので、男性の孫娘の話でもしているのだろうか。

 男性が私の肩に軽く触れる。なんだろう、と首を傾げると、彼はカウンターに置かれたままのクマさんと八十五ユーロを手で示した。

「?」

やーJa

 簡潔に問われた言葉に何度も頷いた。すると、男性がカウンターに置かれた四枚の紙幣から一枚を抜き出して私に渡してきた。どういうことなのか分からず困惑していると、あっという間にお会計が進んでしまった。クマさんが私の腕の中に納まり、手には二十ユーロ紙幣が一枚残った。

Schönen Tag noch素敵な一日を!」

だんけありがとうぐらいひふぁるすあなたもね

 微笑まし気な顔をした店員さんに見送られながら、男性とともにお店を出た。

「だんけ」

 私が言うと、彼は「Bitte!」と言いながら私の背をバシバシと叩いた。ちょっと痛い。

 改めて手にしたクマのぬいぐるみを見て、にやけが止まらない。天に掲げてみる。きっとこの子の目には私を惹きつける魔力が宿っているに違いない。

「ずゅーす!」

「Süß?」

 私のたどたどしすぎる発音に彼がにやりと笑った。

Süßかわいい!!」

 全力で真似して言い直せば、彼はゲラゲラと声を上げて笑い出した。またもや背中を叩かれ、「お前さん、面白いな」とのこと。


 幾つかの単語を知っているだけのドイツ語と、中学で時が止まった英語を交えて男性と話をする。彼は自ら「フランクフルトマスター」と名乗った。結構愉快なおじいさんかもしれない。

 お手軽な値段でお昼ご飯が食べられる場所があるか、と尋ねると、クラインマルクトハレを勧められた。そして、あれよあれよという間に案内していただくことになった。

 クラインマルクトハレは、広々とした屋内市場だ。彼曰いわく、立ち食いスタイルのソーセージ屋さんには観光客なら行っておくべき、とのこと。

 本場のヴルストに感動していれば、彼はいつの間にか右手にビールを持っていた。「お前さんも飲むかい?」と聞かれたが、生憎あいにく私は十九歳だ。ドイツでは十六歳からビールが飲めるらしいが、日本では飲めないし、旅行先でハメを外そうと思っているわけでもない。そう断れば、何故か近くにいたお姉さんが感動した様子で握手を求めてきた。まるで聖人のような扱いだ。

 最近はワインばかり飲んでいた、と男性が言った。ちょっと意外だ。私がそんな顔をしていたのに気が付いたのか、彼は「自分の家の近くはワインも有名なのだ」と言う。驚いたか、と尋ねられたので、頷いて「オクトーバーフェスト」と口に出せば、彼は顔をしかめて、

「あんなの行かないさ。私はベルリーナーベルリン市民の心を持っているからね」

 と言う。早口でまくし立てていたので全く聞き取れなかったが、ミュンヘンのビールに何かしらの恨みがあるらしきことは伝わってきた。どうやら、地域によってビールに違いがあり、そこに住む彼らは地元のビールに誇りがあるらしい。ここでふと私は、あれ? と思った。

「ベルリン? あなたはフランクフルトマスターなのに?」

 私がそう言えば、

「生まれはベルリンだ。今はマインツァーマインツ市民で、ここにはよく来るから何でも知っている。Hahaha, 騙されたな!」

 と、ゲラゲラと笑いながら言った。本日何度目か分からないが、背中を叩かれる。やっぱり痛い。

 食べ終わると、次はこっちだ、と楽し気に彼は歩き出した。杖をついているとは思えないほどの速さだ。「スペインのタパスバーは最高だが、酒を飲まないなら止めておこう」だの、「イタリア食材店はいいぞ。私は今度孫たちとイタリアに旅行に行くんだ」だの言いながら進む。一瞬、私はドイツに来たんだよな? と疑ってかかる羽目になった。

 最後にコーヒーを立ち飲みして彼とは別れた。遠くなる背を見送って、やっぱり愉快なおじいさんだったなあ、と思った。

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