HANNA(下)
玄関のドアノブに手を掛け、力を込めてそれを引く。少しずつ暖かな光が差し込み、重厚なドアはギギギと音を立ててゆっくりと開いた。箒とちりとりを持って外に出る。すっかり日課になりつつあった。いつもと同じ暖かい風が私の頬を撫で、僅かに髪を揺らした。指で軽く額の汗を拭う。
「いつ見てもここは変わらないねえ」
通りを行き交う人を見て、私は独り言を零す。なんだかおばあちゃんみたいな発言だなと思いながら。
仲のよさそうな老夫婦が歩いていく。毎日見かける彼らは、散歩だろうか。この先には、川が、有名な川があって、散歩するのも楽しいだろう。誰でも知っているような、その川の名前は確か……。
「…………?」
口に出そうとして、それが出てこないことに気が付いた。喉まで出ているような気がするのに。
きゃらきゃらという笑い声が聞こえて視線を動かす。目の前を走っていく子がいた。年の離れた兄弟だろうか。二人とも明るい金髪に青い目をしていて、顔も似ている気がする。歩幅の大きい兄に、弟が「まってってば!」と叫んだ。その言葉に兄が振り返る。金色の髪が揺れた。
バツン、という音が耳元でしたような気がする。頭を殴られたような衝撃が走った。箒の柄が手から抜け落ち、金属製のちりとりが石畳の上に落ちて不快な音を立てた。足元の感覚が無くなっていき、視界が真っ白になる。咄嗟にしゃがみ込んで地面に手をつくことができた。
「っ、ハンナ!」
遠くからマインの声が聞こえた。バタバタといった足音が近づいてきた。
何十秒だろうか。次第に視界が元に戻り始める。地面についた指先が見えた。ゆっくりと視線を上げると、しゃがんで私の顔を覗き込むマインと目が合った。
「え、えっと」
視界は戻ったのに、頭の中は未だに真っ白なままで、言葉は出てこない。足に力を込めて、意味もなく勢いよく立ち上がった。
マインはしゃがみ込んだまま動かなった。顔を伏せたままなので、何を考えているのかさっぱり分からない。いつもよりもさらに低い声で「大丈夫か」と問われて、金色のつむじを
気が付けば、鼻先がぶつかりそうなほど至近距離にマインの顔があった。真っすぐな碧い目に射抜かれる。
「……何かあったのか?」
ゆっくりと首を横に振った。
「大したことじゃないの。少し立ちくらみしただけみたい」
碧い目が少し不愉快気に細められる。しばらくすると、私が何も言わないことを悟ったのか、眉を下げて「わかった」と言って私の頭に手を置いた。
「あ」
彼は私から視線を外さなかった。湖面のような碧が揺れた。ああ、泣きそうだ。
心配をかけてしまっただろうか。ベッドの上で薄い毛布を抱きしめる。
マインは「顔色が悪い」と言って、私をベッドに突っ込んだ。そして、「体に良さそうなものを買ってくる。待っていろ」と家を飛び出していってしまった。
部屋は物音一つしなかった。今まで出かけるときは必ず二人で、マインがいない家に一人残されることはなかったのだということに気が付いた。心細さを感じると同時に、私は詰めていた息を吐き出した。
忘れていることがある。それは確信に近かった。しかし、どんなに思考を巡らせても、思い出すことができるのはあの兄弟が走っていく場面だけだ。もっと、……もっと大切なことだったはず。それなのに、忘れていたことすら分からないうちに消えていくのではないか。
額に手を押し当てる。汗で額に張り付いた前髪がぐしゃぐしゃになる。胃の中の気味が悪いものが逆流してくるような心地がした。耳鳴りがする。
ガタン、という何かを壁にぶつけたような音が階下から聞こえてきた。それは、決して大きい音と言うわけではないが、誰もいない家の中ではやけに響く音だった。
ベッドから起き出して、手すりに掴まりながら階段を下りる。
「マイン?」
一応、声を掛けてみるが返事はない。マインが帰ってくるには早すぎる。泥棒だったらどうしようか。この家には価値のありそうな美術品が当然のように飾られていたりするから。何かあったときのために箒を持ち出し、それを構えながら廊下を進む。背中に嫌な汗が流れた。
ゴンッ、という音がしたのを耳が拾う。今度はとても近くからだった。そこにあるのは古い扉だ。マインからは物置だと聞いている。私がここに来たときに、一部屋空けるためにいろいろと整理したらしい。「適当に詰め込んでしまって危ないから近寄らないほうがいい」と言っていた。
ガタガタという音は止まらない。泥棒は窓から入ったのだろうか。扉には頑丈そうな南京錠が掛っている。わざわざそれをつけるぐらいなのだから、マインの大切なものがあるのではないか。
南京錠のダイヤルを回す。不思議と、番号ならばこれしかない、という確信があった。下二桁をゆっくりと動かした。手の震えが南京錠に伝わって、ガチャガチャと鳴った。
「一、九、……九、一」
当たりだ。床に落下した南京錠が転がった。私は箒の柄を握りしめ、ゆっくりと扉を押す。軋むような音と共に扉は動き出した。
「……、こ……くら……思って……だ!」
声がする。確実に近くからしているものなのに、随分と距離があるような、音としては聞こえているのに意味が理解できないような、そんな聞こえ方だ。
本当にこの扉を開けてもよいものか。漠然とした不安が襲い掛かる。金縛りにあったみたいに体が動かなくて、中途半端に開きかけた扉を押すことも引くこともできない。
「離してください! 止めないでくれよ!」
男が声を荒げている。今度のものは明瞭に耳に届いた。
「はな! はな、はな、花!」
知らない声が何度も呼ぶのは私の名前だ。否、それは知っている声だ。知っていなくてはいけない声だ。頭が熱を持っているような気がした。これは確かめなくてはならない、という思考が私を支配した。気が付けば、ほとんど体当たりのようにして扉を開け放っていた。
「……なに、これ」
そこにあったのは、暖かな色の部屋に似つかわしくない鉄格子だった。私は引き寄せられるように歩を進めていた。鉄格子に触れる。冷たい。
鉄格子の向こうには、雑に布を被せられた大きな額縁が部屋いっぱいに陣取っていた。
額縁がガタガタと音を立てて揺れる。その拍子に布が落ちる。私の喉が鳴るのが聞こえていた。
額縁の中には何もない。煙に包まれているように不明瞭に見えたかと思えば、しゃぼん玉の膜みたいに虹色の光が揺れていた。
「離せ! ウチの姪がその絵に食われたんだ!」
「シンくん……?」
口から飛び出したのは、一回り年の離れた叔父の名だった。
そうだ。あの日、叔父と海外旅行に、美術館に来ていたのだ。
それを認識した途端、耳鳴りが酷くなった。警鐘が頭の中で鳴り響いているようだ。頭がぐわんぐわんと揺れている。足のバランスを保てなくなってその場でへたり込む。鉄格子に縋るようにしがみついた。
「……シンくん、しんくん!」
頭上に影が差した。背後から声がする。
「聞こえてはいないぞ」
首にかさついた大きな手が回ってくる。大した力は込められていないけれど、上手く息ができなくて、出そうとした声はただの息となって消えた。
「こちらの声は向こうには届かない。……大抵は、な」
耳元で低く
「……見たんだな」
降ってきた声は淡々としていて、事実を確認するだけのように聞こえる。だから、思わず視線を上げてしまって後悔した。私を見下ろす彼の瞳は、陰っていて塗りつぶされたみたいに真っ黒だった。その表情が、酷く遠くにあるように思えて、私は彼の顔を見続けることができなかった。
「……あなたは」
私は黒目だけを動かして額縁を見た。警鐘は鳴りやまない。
「……忘れたままで良かったんだがな。やはりそうは上手くいかないか」
頭を掻いて髪を乱しながら彼は言った。その声もどこか遠く感じてしまって、現実味がまるでない。気まずい沈黙が落ちた。
「A-ha!」
沈黙を破ったのは、彼の明るすぎる笑い声だった。無意識に私は後退ろうとしていたようだ。背中に何かが触れる感覚がして、背後に鉄格子があったことに気が付いた。足に力が入らなくて立ち上がれない。彼は腰を折り曲げて、私と目を合わせた。
「そう。そうだな、俺は絵だ。生きた人間じゃあ、ない」
彼が目を細める。瞳がどろりと甘くとろけた色に染まり、口元が大きく弧を描く。別人のような表情だ。彼が感情をここまで露わにすることがあるのだということを、私は今まで知らなかった。ああ、
「……お前は向こうでは生きられないんだ」
そう言って彼は左の口角を上げた。嫌悪と軽蔑が入り混じった笑みだった。
「……どういう」
そう言いかけたが、驚きでその言葉を飲み込んだ。彼が私を抱き寄せてきたからだ。彼の身体は思っていたよりも冷たかった。いや、これは異常だろう。温度が感じられない。少なくとも手を繋いだときはそんなことはなかったはず。
彼の胸に耳を寄せて気が付いたのは、それが静かすぎる、ということだった。生きている音が一切しないのだ。
「あの?」
「…………」
嫌々、と彼は首を振った。これ以上聞いてくれるな、ということだろうか。実際聞かない方がいい気もする。でもなあ、それって私のことなのでしょう?
ねえ、と少々非難めいた声を上げれば、突き飛ばされて背中をしたたかに打った。意味が分からない。これは一つ文句を言ってやらねばならないと思い、彼に向けて口を開こうとしてそちらを見た。彼は血の気が引いた顔で固まっていた。伸ばされた指先は宙を
私はもうどうしたらいいか分からなくなって、引き
「Ahaha, hahahaha……!」
彼は突然に天井に向けて笑い出した。顔は右腕に覆われている。その声は、だんだんと弱々しく震えを帯びていった。
目の前はとっくにかすんでしまっている。強烈な眠気に
「もう、帰したりしない。お前は俺とずっとこの世界で生きていくんだ」
最後に聞こえた声に私は思う。聞いていられないような酷い声だったと。
「……そう、この絵が朽ちるその時まで。ずっと」
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