Mainzの青年 / 花都 一蕗 作
緋櫻
HANNA(上)
目を開ければ、最近見慣れてきた薄暗い部屋にいた。どれぐらい眠っていたのだろう。汗でじっとりと濡れた長い髪がうっとうしい。自分でもよく分からない焦燥感に苛まれて、勢いよくベッドから起き上がって窓へと向かう。鎧戸を開け放てば、眩しい光が差し込んでくる。ほっと息を吐いた。
窓の外には、キルヒガルテンと呼ぶのだったか、可愛らしい木組みの家が建ち並んでいる。下を見下ろせば、歩行者天国になっている石畳の上をせわしなく人が行き交っていた。今日も雲一つない快晴で……って、太陽が高く昇ってしまっている! いくらなんでも寝過ぎだ!
慌てて階下に向かえば、足音が聞こえていたのだろう、キッチンに立つ青年が振り返った。その拍子に、日の光を受けた彼の金色の髪が揺れる。
「
碧い目を僅かに細めて、彼は言った。彼の両手には、二つのカップが握られている。コーヒーの芳醇な香りが鼻を擽る。
彼が椅子を引いた。紳士だ、とか、妙に感心しながら椅子に座る。テーブルには、すでにパンやハム、チーズ、フルーツが並んでいた。
「Guten Morgen. マイン、私ってどれくらい寝てた?」
彼、マインは、私の言葉に首を傾げた。仏頂面のくせして、可愛らしい仕草だと思う。
「うん? 朝まで、だろう? 俺も今起きたところだ」
気を使ってくれたのだろう。これ以上追及して、真実を知るのが怖い。よって、食事のことを考えることにする。マインは、私が知っているそれよりも一オクターブ低い鼻歌を歌いながら、パンにヌテラを塗りたくった。めちゃくちゃ甘いだろうな、と思いながらそれを見る。
「ハンナ、今日はマーケットに行かないか。といっても、ただの買い出しなんだが」
その提案に、私は何度か瞬きをする。まるくと、と日本語発音で繰り返した。それって、いつもと違う場所に行けるということだ。思わず立ち上がりそうになったが、慌てて座り直す。
「
石畳の上を二人並んで歩く。古い時代の空気を肌で感じる。頭上から降り注ぐ日の光が眩しかった。進んでいくうちに、見かける人の数が次第に増えていく。カフェやレストラン、雑貨店が並ぶ街並みは、どこを見ても可愛らしかった。
たどり着いた大聖堂の前の広場には多くのお店が出ていて、たくさんの人で賑わっていた。新鮮な野菜やお肉、卵などの食材だけでなく、古着や古本、アンティーク調の雑貨が並ぶ店もある。大道芸人が来ているらしく、人だかりができていた。
「あ、オレンジジュースだ! マイン、早く行きましょう」
搾りたて、という言葉はあまりにも魅力的だ。私はマインの手を引いて駆け足で向かう。
新鮮なフルーツをふんだんに使用したアイスクリームは格別だ。歩きながら、ラズベリーとチーズのアイスにかぶりついた。
「暑い日のアイスは最高だな」
その声にマインの顔を見上げる。最高だ、と言う割に唇はきつく結ばれたままだ。
「あなた、二つも買ってしまったの? 溶けるよ?」
マインは両手にアイスバーを持っていた。彼は私の言葉など聞いちゃいない。
「たまには、アイスバーも悪くないかもしれんな」と呟き、真剣な表情でオレンジとグレープの二種類を交互に食べている。時折、すれ違う人にぶつかりそうになるのを、軽く彼の腕を引いて避けさせなければならなかった。
「というか、私たちさすがに食べ過ぎなんじゃない?」
「む、そうか?」
マインは足を止めてこちらを見た。不思議そうな顔をしている。全く分かっていないようだ。
「うん。だって、オレンジジュースでしょう、ヴルスト、ブレッツェル、クーヘン。それで今は、アイスクリーム!」
指を折りながら言う。マインがいつの間にか食べ物を買っていて、それがいつの間にか私の手元にあるのだ。彼はおいしいものを見つけるプロなのかもしれない。朝ごはんを食べたばっかりなのに。ああ、カロリーが……。ああ、頭が痛い。これが冷たいアイスクリームのせいであったならどれだけ良かったか!
「買い出しって、食事するって意味じゃないんだよね」
初手でオレンジジュース店へと駆け込んだ私が言えることじゃないけれど。
「目的は果たしただろう」
マインはアイスバーを持った左腕ごとショッピングバックを掲げてみせた。確かにそうなのだけれど。そんなに「当然だろう」という顔をされてしまったら、なんだか負けたような気持ちになる。
「……好きだろう?」
「んん?」
唐突に言われた言葉に首を傾げた。
「その、……お前が喜ぶと思って、だな」
頬を指で搔きながらマインは言った。ばつが悪いのか、目を逸らしている。言ってから恥ずかしくなってきたのか、彼の白い首筋は真っ赤になっていた。
「えと、……ありがとう」
なんだかこちらまで気恥ずかしくなってしまって、私も思わず目を逸らしてしまう。少しだけ気まずい雰囲気のまま、再び二人で歩き出す。
昔から食い意地が張っている、と言われてきたなあ、とアイスのコーンのしっぽを口に放り込みながら現実逃避気味に考えた。特に日本から出たときには、「君のその食への執着には驚かされる」と何度も言われたのだっけ。それを言ったのは誰であっただろうか。親しい人だったはずなのだけれど。
マインが急に立ち止まった。何事かと思えば、彼はほとんど棒だけになったアイスバーを凝視していた。まだ食べ終わっていなかったのか。
「と、溶けている。俺のアイスが……」
淡々とした、しかし気落ちしたようにも聞こえる声だ。足元を見れば、グレープのアイスの欠片が地面に落ちていた。彼の手にはアイスだった液体が垂れている。
「……手が、甘い」
真面目な顔で指を舐めてそう言う。それがなんだかおかしかった。
「ああもう! ティッシュ、ティッシュ!」
無造作に積み上げられた古本たちを前に、マインは釘付けになった。タイトルを見る限り、歴史、経済、科学、医療、民族、などと様々だ。中にはフランス語のものもある。共通点といえば小難しくて私にはチンプンカンプンであるということぐらいか。日本語か、せめて英語で頼む。
熱心に本を見ているマインは、ここから一歩も動きそうにない。そんな彼の横顔を眺めていても良かったのだが、広場から外れた通りにマーケットに合わせて飾り付けられたフラワーショップを遠目に見て気が変わった。ちょうど、窓辺に飾る花が欲しいと思っていたところなのだ。
「ね、マイン。私、あっちのお花屋さん見てくるね」
「ん」
マインは私が指差した方角をちらりと見ると頷いた。視線はすでに本の方に移っている。
行き交う人と人の間を通り抜けて一人進む。ふと、石畳を踏みしめる真っ白なスニーカーに違和感を持って首を傾げる。しかし、その違和感はすぐに喧騒の中に消えていく。店員と客が何か言い合う声、親子の笑い声に思わず笑みをこぼした。
カフェのテラス席にも多くの人が集まっていた。大聖堂を眺めながら食事をするのもいいかもしれない、とまた思考が食べ物のことになってしまい首を振る。
目的のフラワーショップにはたくさんの切り花や鉢花が並んでいた。建物の雰囲気も相まってとてもお洒落だ。せっかくだから、と建物の中に入ってみれば、穏やかそうな中年の女性が出てきたので挨拶をしつつ、鉢花のコーナーを眺める。お洒落な店は植木鉢までお洒落なのか、などという妙な感想を持った。
カランカラン、と扉が開く音がする。左脇に植木鉢を抱えて立ち、外の眩しい日差しに目を細めた。店員さんに相談に乗ってもらいながら決めたので、かなり時間が経ってしまったように感じる。適度な疲労感と、買い物の満足感があった。
高く昇った太陽を見上げれば、マーケットはとっくに終わってしまったころだろうか、確か十四時ぐらいまでだったような、という考えが浮かんだが、視線を落とすとその考えは否定された。オレンジの入った箱が並ぶ、最初にオレンジジュースを飲んだ店が見えたからだ。何故、そんなことを考えたのか自分でも分からなかった。暑さに頭がやられていたのかもしれない。
ぼうっとする頭で、それにしても暑いな、と考える。フラワーショップとその隣のアンティークショップの間に細い路地があるのが目についた。建物に挟まれたそこは、日差しがあまり届かないらしく、とても暗くて奥までは見えなかった。陰になった石畳は冷たそうだな、と思った。
「ハンナ」
「わ」
足を一歩踏み出したところで、私の右肩を掴む手があった。驚いて盛大に肩が跳ねる。振り返れば、息を切らせたマインが立っていた。背の高い彼が、目線だけを私の方に寄越してくると、なるほどこれは威圧感があるわけだ。
しかし、当初の目的を思い出した私は、瞬時に彼に伝えるべきことを導き出した。
「マイン、みてこれ! 〝素敵な収穫〟アリ、でしょう?」
真っ赤なゼラニウムの植木鉢を掲げてみせる。マインは薄く口を開いたまま固まった。何度か瞬きを繰り返した後、彼はいきなり両手を膝についたかと思えば、盛大にため息を吐いた。
「ああ、綺麗だな」
碧い目が僅かに細められる。優し気なその視線が私に向くだけで、単純な私は舞い上がってしまいそうになるのだ。
マインは、「帰るぞ」と言ってスマートに私の手を握って歩き出した。いつもより、少し握る手の力が強い気がする。そんなことを考えていたら、いつの間にか私が抱えていた植木鉢が彼の手にあって衝撃を受けた。
彼の荷物に古本が追加されていることから、彼の買い物も終了したらしい。心なしか足早に進んでいるのは、手に入れた本を早く読みたいからに違いない。私も、これから部屋にゼラニウムを飾るのが楽しみだ。
「これから、ちゃんとお世話しなきゃね」
独り言を零すと、マインは歩く速度を落とした。急だったので、彼の腕に激突しそうになった。
「お世話、するのか」
まじまじと私を見てマインは言う。正直、どこにそんなに驚く要素があったのかは謎だ。
「うん。夏はお水をあげなきゃ枯れてしまうしね」
「枯れるのか」
どういう意図で聞かれているのかはよく分からなかったが、とりあえず頷いた。マインは、ほとんどため息であるかのような「そうか」という言葉を吐いた。繋いだ手を揺らしながら、「それは毎日、というやつか」と問われる。それに頷けば、彼は柔らかい笑い声を漏らした。何でもないことに一喜一憂して、おかしなの!
そういえば、彼の笑い声を聞くのは初めてであったな、と思った。
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