第四章 S高校のミスコンテスト

㉛ 「JinJin」の由来

1月末にS高の一般入試が行われたが、土地の不正取得疑惑事件の影響で今年は志願者がかなり減少した。

月が替わって2月には1、2年生の校内マラソン大会が行われた。


走り終えて空腹だったので、彩子たち3人は放課後JinJinに立ち寄った。

「彩っぺは遅かったなあ。ワースト10に入ってたんじゃないか?」


「でも、彩ちゃん、体育祭の50メートル走は速かったよね。」

「アタシ、長距離は苦手なんだ。走る前に『チョウ』って書いてどうなるか試してみようかと思ったけど、自分のために力を使うのは不破くんの黒魔術と同じだと思ってやめた。」


そこへ田端老人が店に入ってきた。

「ジンさん、今日はいい話を持ってきた。アパートが1戸、3月いっぱいで空くからどうじゃろう。」


「そうねえ。でもこの年で引っ越すのは大変だし。」

「引っ越しなら手伝うよ。家賃も安くするし、何ならタダでもいい。」


「そんなわけにはいかないわよ。でも引っ越しは手伝ってもらおうかしらね。」

田端老人の顔がパッと明るくなり、細かいことは後日打ち合わせようと言って店を出て行った。


彩子は小声で珠子に言った。

「おじいさんの嬉しそうな顔を見た? ただでもいいなんて、絶対におばさんに気があるわネ。」


修は「ジンさん」という呼び方が気になり、おばさんに声をかけた。

「さっきのおじいさん、おばさんのことを『ジンさん』って呼んでたのは、この店の名前が『JinJin』だからですか?」


おばさんはにっこり笑って答えた。

「反対だよ。私の苗字は神様の『神』って書いて『じん』っていうの。それで店の名前を『JinJin』にしたんだよ。」


「へえ、珍しい名前!」と、彩子と珠子が驚いた声を出した。

修は二人以上に驚いたが、そぶりには出さずに言った。


「おばさんは、青森の人ですか?」

「あら、どうして分かったの?」と、今度はおばさんが驚いた。


「『神』っていう苗字は青森に多いって聞いたことがあるんです。」

「修は、ホントにいろんなこと知ってるネ。」


修は、彩子たちに自分の母親の旧姓が「神」だということは話していない。

夕暮れ時になったので、3人は店を出た。


彩子の母方の石嶺家に数奇な過去があったように、自分の母親の一族にも何かあるかも知れないと思うと恐くなって、修は今日のことは自分一人の胸にしまっておくことにした。


㉜ 彩子たちと不破・道砂との遭遇

彩子たち3人は最終学年の3年生になった。

看護系の彩子と珠子は同じクラス、医学部志望の修は別のクラスになった。


それは仕方なかったが、彩子と珠子の担任が2年時に引き続いてダジャレ国語教師の南田であったことは不運と言うしかない。

文系教科の教師が3年理系の担任になることは珍しいのだ。


4月中旬に新入生歓迎遠足が行われた。

この遠足は、今年復活した行事だった。


昨年の土地不正取得疑惑の影響で受験志願者減となったS高は、人気回復に向けて学校行事活性化の方針を打ち出した。

その一つが歓迎遠足の復活であり、もう一つが9月に行われる「創立60周年記念学園祭」だ。


遠足の帰りは、ふもとの公園で解散になった。

学校に戻って制服に着替える生徒も多いが、彩子たちはジャージ姿のままJinJinに直行した。


「ようこそ、ようこそ。久しぶりだねえ。」

店のおばさんが笑顔で迎えてくれた。


店にはS高のジャージを着た先客が一組いた。

不破流司と道砂芽だった。


彩子たちがうどんを注文すると、おばさんが厨房に顔を向けて「あなた、おうどん三つ。」と伝えた。

厨房には田端老人がいた。


「えっ、あのおじいさんがどうして?」と彩子は厨房を見た。

「それに『あなた』って?」と言って珠子はおばさんを見た。


「私たち、この4月から夫婦になったんだよ。」

おばさんはそう言って、照れくさそうにちらっと厨房を見た。


「3月いっぱいでアパートに空きができるっていうんで荷造りを済ませたのに、その人、転勤先が通える距離になったと言って居残ったのよ。」

厨房の田端老人が、話を引き継いだ。

「それでわしは責任を感じて、荷物はわしのとこに運べばいいと言ったんだ。」


彩子が小声でおばさんに言った。

「それがプロポーズだったんですネ。おじさん、知能犯だわ。」

結婚したと聞いて彩子は、おばさんの手前、田端老人を「おじいさん」でなく「おじさん」と言った。


「おばさんはさっき『あなた』って言ってましたが、おじい…おじさんからはどう呼ばれてるんですか?」

結婚したからには、以前のように「ジンさん」と呼ぶわけにはいかないだろうと思って修は聞いてみた。


「最初は『なあ』とか呼びかけてごまかしてたけど、今は『ハタ』って呼んでくれるよ。」

「ハタ?」と彩子たちは顔を見合わせた。

「私の名前なんだよ。秋田や青森でハタハタという魚がよく獲れるんで、こんな変な名前を付けたんじゃないのかね。親に確かめたことはないけど。」


テーブルに置いてあるメニュー表に目を移した珠子が言った。

「メニューが増えたんですね。」


これまでは「お好み焼き、たこ焼き、カレー、うどん」の4品だったが、新たに「焼きそば」が書き加えられている。

「うちの人が畑でつくっている野菜が使えるんでね。」


「そうなんですか。うちの学校のあくどい買収話にひっかかって畑を取られなくて本当に良かったですね。」

まずいと思った修が珠子に目配せしようとした時、奥のテーブルにいた不破流司と道砂芽が立ち上がった。


「ごちそうさまでした。お金、ここに置きます。」

「ありがと。また、ぜひぜひ。」


二人が出て行くと、店のおじさんが言った。

「ハタ、今の子たちは時々来るのかい?」

「いいや。初めて見る子たちだよ。」


おじさんは、首をひねった。

「どこかで見たような気もするんじゃが。」

彩子たちはハラハラした。


㉝ JinJinのおばさんの正体

6月初旬に高総体が終わると、3年生は放課後補習が始まった。

8月には学習合宿も組まれており、勉強漬けの日々になるかと思えば、彩子は気が重い。


そんな中、1学期の終業式の日、LHRで担任の南田から学園祭の話を聞いた女子は大騒ぎになった。

3年生女子の中からミスS高を選出するというのだ。


例年9月の最初の日曜日に文化祭が行われるが、校内行事活性化の目玉として今年は土・日の2日間にわたって「創立60周年記念学園祭」を開催することは年度当初に発表されていた。

1、2年生はクラス単位での全員参加だが、今年は3年生も何らかの形で参加させようということになった。


そこで、受験勉強に支障がなく観客受けする出し物をということで、3年生のクラス代表によるミスS高コンテストの実施が決まったと南田は説明した。

「クラス代表は学習合宿中に投票で決めるが、自薦でもいいぞ。ただし、ミスはミスでも人選ミスでしたというのは困るぞ、ハハハ。」


終業式とは名ばかりで翌日から補習が始まったが、その最終日に彩子たち3人はJinJinに寄った。

1日置いて学習合宿に入るので、暫くJinJinに来られない3人はとりとめのない話を続けていたが、夕方も遅くなったので腰を上げた。


「小さいのがないんでまとめて払うから、二人とも自分の分を俺にくれ。」

「大きいの持ってるなら、おごりなさいヨ。」


「彩っぺがミスS高になったら、いくらでもおごってやるよ。」

「それ、アタシがなれっこないって意味?」と、彩子は頬をふくらませた。


「二人は本当に仲がいいのね。」

珠子がうらやましそうに言った。


「そんなんじゃないわヨ。出ましょ。」

彩子と珠子が先に店を出た。


今日はおじさんがいなかったので、修は厨房のおばさんに声をかけた。

「おばさん、お勘定お願いします。」

「はいはい。ありがと、ありがと。」


お釣りを受け取った修は、硬い表情で店を出た。

薄暗い厨房にいたおばさんが修の声で振り返った時、おばさんの目がかすかに光っているのを修は見たのだった。


修は帰宅すると母親に尋ねた。

「母さん、行方不明になったイタコの人がいるって、いつか言ってたよね。」

「どうしたの、突然。」


「近ごろ、オカルトに興味が出てきてさ。教えてよ。」

「お母さんもよく分からないくらい遠縁の親戚なんだけど、すぐ近所に住んでた人よ。お母さんが青森にいた子供の頃だから、急にいなくなっちゃったってことしか覚えてないわ。」


「その人の名前は?」

「みんな『ハタさん』って呼んでたから『じんハタ』じゃないかしら。」


修は、自分の顔色が変わるのを感じた。

「どうしたの?変な顔して。」


「いや、おかしな名前だと思って。」

「あんたのお婆さんだって『神クエ』じゃない。昔の女の人の名前はカタカナの記号みたいなものよ。『クエ』とか『ハタ』とか、人間か魚か分かりゃしないわね。」


㉞ 不破流司と道砂芽の復讐工作

彩子たちがJinJinに寄った同じ日、不破流司と道砂芽も合宿前の区切りにと「バーガー浦川」に出かけていた。

「明後日から学習合宿ね。うんざりだわ。」


「その合宿だけど、協力してくれないかな。」

「何を?」


不破は声を落として、顔を道砂に近づけた。

「学園祭のミスコンだけど、5組の金子さんがクラス代表になるようにもっていきたいんだ。」


それを聞いて道砂は、瞬時に4月の遠足の日を思い出した。

新入生歓迎遠足の帰りに、二人はJinJinに立ち寄った。


初めて行ったので、その店が田端アパートの地主と深いつながりがあることなど知らなかった。

厨房の田端老人と目が合った時には驚いたが、向こうは二人を覚えていないらしかった。


胸をなでおろした二人は注文した品を食べ始めたのだが、そこへ彩子たち3人が店に現れた。

彩子たちがJinJinの夫婦と親しげに話をするのも面白くなかったのに、珠子は「S高のあくどい買収話にひっかかって畑を取られなくて本当によかったですね」とまで言った。


それで不破は珠子に対してずっと恨みを抱いていたのだろうと道砂は推測した。

「私も金子さんのあの言葉、カチンときたの。」


「君はクラス代表はもちろんミスS高も確実だろうけど、彼女はクラス代表にも遠いレベルだから本選に出場させること自体が恥をかかせることになると思うんだ。」

「面白いわ、やりましょう。」


8月6日に学習合宿が始まった。

学校からバスで2時間ほどの高原のホテルを借り切っての合宿だ。

食事と風呂以外は、自分が立てた計画に従って大広間で勉強し、質問したい場合は教師が待機している部屋へ行く。


合宿4日目の昼食後の休憩時間に、彩子たち3人は廊下の角の休憩コーナーのソファーに座った。

「合宿、まだ半分しか終わってないのに疲れたわね。昼寝の時間が一番楽しみ。」


珠子の言葉にあいづちを打って修が言った。

「けど、不破なんかは元気いっぱいで、昨日の昼寝の時間も部屋を抜け出して先生に叱られてたぞ。」


彩子が壁にかかっている時計を見上げて言った。

「さあ、これからミスコンの投票だネ。」


「こっちに来てからみんなその話ばかりしてる。うちのクラスは彩ちゃんじゃないかな。」

「まさかあ。」

そう言って立ち上がりながら、彩子は少し期待もしていた。


合宿中は、昼食後に1時間の休憩があるが、その後半の30分は午後からの学習に備えて部屋から出ずに昼寝か静養に当てることになっている。

不破はこの昼寝の時間に抜け出して、5組の男子の部屋の前で昨日と一昨日の2日間、呪文を唱えていた。


一方、道砂の方も昼休みに5組の女子をつかまえては相手の目をみつめて声をかけていた。

「5組は金子さんを代表にしなきゃ可哀そうよね。何てったって金子商事の社長令嬢だし。」


合宿の中日にミスコンのクラス代表選出を行えば盛り上がって、合宿後半の士気も上がるだろうというのが学年教師団の思惑だった。

生徒たちは、クラスごとに割り当てられた部屋に入った。


彩子たちのクラスは開票してみると6人に票が入っていたが、うち3人は1、2票ずつで、上位3人に票が集中していた。

上位3名には彩子も入っていたが、最も多くの票を獲得したのは珠子だった。


クラス代表に決定した珠子は、拍手を受けながらうつむいていた。

その様子は、恥ずかしいというよりはとまどっているように見えた。


各クラスの開票結果は、大広間での夕食後に発表された。

クラス代表に選出された女子生徒の名前が、1組から順に読み上げられていく。


4組代表の道砂の名前が読み上げられた時には、男子生徒たちのひときわ大きい「おー」という声があちこちで上がった。

続いて5組代表の珠子の名前が発表された時にはその声のトーンが低くなり、珠子の心中を思うと彩子はいたたまれなかった。


翌5日目の昼食後に、彩子と修はうかない顔をしている珠子を元気づけようとした。

しかし、開票結果が何かの間違いだと言えば逆に珠子を傷つけかねない。


「珠ちゃん自身も納得できないとすれば、ひょっとしたら不破たちが動いたのかもしれないな。」

彩子もその可能性はあると思ったが、証拠があるわけでもないので黙っていた。


「二人ともありがとう。気をつかってくれて。」

そう言って珠子はメガネを外した。


ハンカチを出して涙を拭いている珠子の顔を見て、彩子と修は、ぽかんと口を開けた。

珠子はびっくりするくらいにきれいな顔だちをしていた。


「やだあ、珠ちゃん、美人じゃない!変に慰めなくてよかったあ。」

メガネを外した珠子を見るのは、二人とも初めてだった。


修の言葉を聞いて不破たちの画策を疑った彩子だったが、珠子の素顔を知っているクラスメートが珠子に投票したのだろうと思い直した。

「本番はメガネなしで歩く方が断然いいヨ。コンタクトは持ってるの?」


「私、目はいいの。これ、だてメガネよ。」

「えー、何で? もったいない。」


珠子は、顔を赤くして言った。

「彩ちゃんたちだから話すけど、小学生の頃からこの黒ぶちのメガネをかけて髪を三つ編みにしてるの。悪い虫が付かないようにってお母さんが言ったから。小学生の頃は意味が分からなかったんだけど……。」


社長令嬢で美人の娘に変な男子が言い寄って来るのを防ぐために、珠子の母親は珠子にあえて見栄えのしない格好をさせていたのだった。

それを知った彩子は、二つのことを思い出した。


「珠ちゃんのお母さんもすごい美人だもんネ。それにほら修、東京でセイラさんが言ったこと、覚えてる?」

「そう言えば、彩っぺじゃなく珠ちゃんに美人だって言ってたな。」


「『彩っぺじゃなく』は余計ヨ。セイラさんは超能力で見抜いてたのかしら。それとも一流芸能人には分かるのかな。」

「うーん、超能力か……。」


にわかに黙りこんだ修を見て、今度は珠子が心配した。

「修くん、どうしたの?」

「そろそろ昼寝の時間だ。部屋に戻ろう。続きは明日、またここで。」


3人が休憩コーナーのソファーから立ち上がって歩いて行くと、不破、道砂の二人連れとすれ違った。

修には、二人が珠子を見てにやりと口角を上げたように見えた。


合宿6日目の昼、昨日の修の言葉にしたがって彩子たちは集まった。

「合宿も明日で終わりか。長かったような短かったような、いや短くはなかったな。特に珠ちゃんは大変だったよね。」


「私のことより、修くん、昨日言いかけたことは?」

「超能力とか言ってたけど、セイラさんと関係ある話?」


「いや、JinJinのおばさんが超能力者エスパーだっていう話なんだ。」

「えーッ!」と、彩子と珠子は同時に声を発した。


「正確にはイタコなんだけど、」

そう言って修は、JinJinのおばさんが自分の母親とつながりのあるイタコで、目も光っていたことを話した。


「どうして今まで黙ってたのヨ。」

彩子は不満げだった。

「なんか恐くてさ。『触らぬ神に祟りなし』って言うだろ?」


珠子がすばやく反応した。

「それ、神様の『神』とおばさんの旧姓の『神』を掛けたのね。南田先生より上手なシャレだわ。」


㉟ 中森セイラの提案

学習合宿が終わると、お盆休みになった。

東京のT病院での出会いの後、彩子は中森セイラと時々メールのやりとりをしている。


セイラが珠子を美人だと言っていたこともあり、ミスコンテストに珠子が出ることになったことを知らせると、返信でなく電話がかかってきた。

「珠子ちゃんは美形だからきっと優勝するわ。やせぎすだから、もう少しだけふっくらすればプロのモデルにもなれるわよ。おめでとうって言っておいて。」


既に珠子が優勝したかのように言った後、セイラは学園祭の日取りを尋ねた。

彩子が日程を伝えると「ちょっと待って。後でかけ直すから。」と言って電話を切った。


約1時間後に彩子のスマホが鳴った。

「私、そのミスコンの日、彩子ちゃんの学校に行くわ。パパにも話したら、ぜひそうしなさいって。」

彩子は声も出せずにスマホを握りしめた。


「もしもし、聞いてる?」

「はい……。」


「前の日に福岡で公演があるの。ちょうど良かったわ。」

その後の具体的な打ち合わせをしながら、彩子は気もそぞろだった。


電話を終えても興奮が冷めない彩子は、さっそく修と珠子にセイラのサプライズ訪問を伝えた。

二人とも最初はしばらくものが言えず、その後、驚きと喜びの入り混じった声を出した。


サプライズだから絶対に口外しないように念を押して彩子は電話を切り、次の作業にとりかかった。

「もう少しだけふっくらすれば」というセイラのアドバイスが気にかかっていたのだ。


彩子は指で「脹」(チョウ・ふくらむ)と宙に書き、細すぎる珠子が次第に肉づきがよくなり最後は理想的な体型になるイメージを描いた。

そしてその効果が短期間で消滅しないようにとも念じた。


彩子がセイラからのサプライズ訪問の話に気が動転したように、セイラの父親から電話を受けたS高の校長も同じような反応を示した。

「校長先生、中森さんという方からお電話ですが。」


事務室から校長室に内線で電話が回された。

「東京の中森プロダクションの中森忠夫と申しますが。」


「中森さん?」

「中森セイラの父親と言えばお分かりでしょうか?」


「は、はい!」

一流アイドル歌手の父親からの電話と知って、校長は声が上ずった。


「最近、芸能人が高校の卒業式にサプライズで登場することがあるようですが、そちらの学園祭にうちのセイラをやるというのはどうでしょう。」

校長は受話器を取り落とさんばかりに驚いた。


経営陣の土地不正取得疑惑の影響で受験志願者減に悩んでいたS高にとって、それは願ってもない申し出だった。

大体が、今年度の学園祭そのものがその対策として企画されたものだった。


盆休みが終わると補習が再開された。

この期間は補習と並行して学園祭及び次週の体育祭に向けての準備、練習も行われる。


学園祭の準備は、1、2年生はクラス全体で行うが3年生はミスコンテストの出場者だけが集められた。

体育科の女性教師からランウェイでのモデルウォーキングとポージングの指導を受けるためだ。


指導を受けても素人の高校生なのでぎこちないが、珠子は8名の中では一番筋がいいと指導教師からほめられた。

道砂芽は自分の美貌には自信があるものの、珠子がほめられること自体が面白くなかった。


9月に入り、2日間にわたる「創立60周年記念学園祭」の日を迎えた。

初日の帰宅後、早めに夕食を終えた彩子は、珠子の家に遊びに行くと言って家を出た。


この日の夜にセイラ親子の宿泊先に彩子が出向くことを、セイラとのやりとりの中で打ち合わせていた。

嘘をついて彩子は少し胸が痛んだが、金子商事の社長宅ということで彩子の母親は何の疑いも持たなかった。


彩子がホテルのスウィートルームに入ると、セイラが駆け寄ってきて強めのハグをした。

中森氏はにこにこしながら、その光景を見守っている。


「彩子ちゃん、久しぶりだね。さあ、こっちに座って。」

中森氏とセイラが並んでソファーに座り、テーブルを挟んで向い合せに彩子が座った。


「元気にしてもらったお礼にセイラがどうしても来たいと言うものでね。スケジュールの都合がついてよかった。ところで明日の件だがね、君の学校のセイラのファンから学園祭に来てほしいという便りが来たということで校長先生には話している。そのファンを彩子ちゃんということにしてステージに上がってもらおうと思うんだが、どうだろう。」

彩子は、自分だけでなく修と珠子も一緒にステージに上げてもらおうとも考えたが、結局は断ることにした。


「お気持ちは嬉しいんですけど、他の生徒たちに羨ましがられるだけでなく、ねたまれたりだとか色々面倒なことが起こりそうな気もするんです。」

彩子の頭に不破と道砂の顔が浮かんだが、それとは別の懸念もあった。

「それに、セイラさんと私に何か特別な関係があるんじゃないかと気を回す人が出てきたら大変なことになりますから。」


中森氏はうなった。

「うーん、君は本当によく気がつくね。それは大人の私らが配慮しなければならないことだった。」


「じゃ、そういうことでもういいでしょ、パパ。彩子ちゃん、ちょっと来て。お土産があるの。」

セイラが立ち上がって彩子をベッドルームへ連れて行った。


ベッドに並んで腰かけると、セイラは「はい、これ」と言って、紙製の手提げバッグを彩子に手渡した。

バッグの一番上にバナナの絵が描いてある菓子箱が見えたので、東京銘菓の詰め合わせのようだ。


「実はね、パパに聞かれたくないお願いがあるの。」

セイラの目つきが真剣になった。


「明日の学園祭、あなたのお母さんも来るんでしょう?」

「さあ、それはどうだか分かりません。」


セイラは彩子の手を取った。

「お願い、ぜひ来るように言ってちょうだい。そして、あなたもお母さんと一緒のところにいて。」


彩子は、全てを理解した。

学園祭に来ることは、彩子たちがセイラの乳がんを治したことへのお礼の気持ちも勿論あるだろうが、セイラは一目だけでも自分を産んだ母親を見たかったのだ。

「それはいいですけど、明日、会場の体育館は生徒も一般の観客も席はフリーなんです。私とママの席を見つけることは難しいんじゃないですか?」


セイラは、にっこりと笑った。

「大丈夫よ。目をつぶってみて。」


言われたとおり彩子が目をつぶると、脳内にセイラの声が響いた。

「ドウ? キコエル?」


その手があったかと彩子は驚いて目を開けた。

「今度はあなたの番よ。」


そう言ってセイラが目をつぶったので、彩子は「ハイ、キコエマシタ」と念じた。

セイラは目を開け、「OK!」と言って指で丸い輪のサインを作った。


彩子が帰宅すると、リビングで母親が待っていた。

「遅かったわね。」と不機嫌な声で言った。


セイラからもらった土産のバッグから、彩子は一番上の菓子箱を取り出した。

あんの代わりにバナナが入っているこの菓子が母親の大好物であることを彩子は知っている。


「あら、どうしたの、これ?」

案の定、母親の機嫌が直った。


「珠ちゃんのお父さんの東京出張のお土産を分けてもらったの。」

母親がさっそく箱を開けて、一つ口に入れた時に彩子は言った。


「ママ、明日の学園祭、観にくるでしょ?」

「行かないわよ。めんどうだもの。」


彩子は慌てて説得にかかった。

「2時頃でいいから来てヨ。珠ちゃんがミスコンに出るんだから見なきゃダメよ。そのお菓子、食べたでしょ?」

彩子の母親は、二つ目の菓子を口にくわえたまましぶしぶ頷いた。


彩子が寝室に引き上げて眠りに就いた頃、不破流司はまだ起きていた。

「クア イオア モス、クア イオア モス……」

明日のミスコンテストでモデルとしての歩き方やポーズの取り方を珠子が思い出せなくなるように念じて、不破は呪文を唱え続けていた。


㊱ ミスS高コンテスト

学園祭も2日目になった。

朝のSHRが終わると、彩子は珠子に声をかけた。


「珠ちゃん、前よりも体つきがふっくらしてきたネ。」

「学習合宿が終わったら急に食欲が出てきてお母さんも驚いてるの。太り過ぎじゃないかしら。」


「ううん。前が痩せすぎだったからちょうどいいわヨ。でもちょっと顔色よくないネ。」

「昨日、あまり眠れなかったせいかしら。」


「無理もないわ。ミスコンで緊張してるんでしょ?」

珠子の体つきの変化は「脹」能力の効果だろうと思ったが、昨夜の寝つきの悪さが不破の呪いによるものだということまでは彩子にも分からなかった。


1、2年生のクラス参加は展示部門とステージ部門のどちらかに分かれている。

彩子と珠子は、クラスや文化部の展示を一緒に見て回り、バザーのカレーライスを食べた後は体育館に入ってクラスや文化部の出し物、有志によるバンド演奏などを楽しんだ。

日曜日ということもあって、生徒、保護者のほかに近隣の住民や中学生など、たくさんの人間が来ていた。


「じゃ、そろそろ行ってくる。」

「うん、気楽にネ。」

ミスコンテストの出場者の集合時刻になったので、珠子は体育館のステージの左脇の用具庫に向かった。


珠子と別れた彩子は体育館を歩き回って、ようやく母親の信子を見つけた。

「さっき来たとこなの。間に合ったみたいね。」


S高は生徒だけで約千名いるので、体育館のフロアにシートを敷いて、約1500席のパイプ椅子が並べられており、通路を確保するために座席はいくつかのブロックに分かれている。

「ママ、あそこがちょうど二つ空いてる。」

彩子と母親は、ステージから見て二つ目のブロックの最前列に並んで腰を下ろした。


ステージに向かって右側には、来賓用にテーブル席が設けられている。

校長の案内で中森氏が来賓席に着席するのが見えた。


ステージの右脇の用具庫から階段を上ると、セイラの控室に当てられている放送ブースがある。

彩子は、音響や衣装の世話をするスタッフと一緒にセイラがそろそろ体育館の裏の入り口から入ってくる頃だろうと想像した。


ステージ上ではブラスバンド部の演奏が始まった。

それが終わるとミスコンテストなのだが、出場者たちの控室になっている用具庫でちょっとした騒ぎが持ち上がった。


「さあ、みんな急いで準備して。」

担当の女教師にせかされて皆、準備にとりかかった。


出場者たちは、ワンピースまたはワンピース型のパーティードレス、それに卓上鏡と化粧道具を持ち込んでいた。

制服を脱いで持参の服に着替え、化粧を終えれば準備完了である。


珠子も着替えた後、黒ぶちのメガネを外し、薄化粧を施した。

最後に三つ編みを解いてブラシで髪をとかし出した時、担当教師を始め、珠子を見た皆が用具庫の外に漏れるほどの驚きの声を発した。


その美しさは、数分前の珠子とは全くの別人であった。

道砂芽は驚きを隠して珠子を用具庫の隅へ連れて行った。


「金子さん、顔色悪いわよ。先生に言って保健室で休んだらどう? 心配だわ。」

周囲に聞こえないように言って、道砂はここぞとばかり珠子を見つめた。


「ちょっと寝不足だけど、大丈夫みたい。ありがとう。」

戻って行く珠子の背を見ながら、道砂は大きなショックを受けた。


相手の目を見つめながら言った自分の提案が通らなかったのは、道砂にとって初めての経験だった。

しかし、不破の呪いのほうは解けていなかった。


「ブラバンが終わったわ。1組から順番よ。教えたとおりに歩きなさい。」

女教師が緊張した声でそう言ったのと同時に、会場にアナウンスが流れた。


「それでは次はお待ちかねのミスS高コンテストです。3年生の各クラスから選ばれた8名の中からミスS高が選ばれます。では1組の田添愛子さんからどうぞ!」

出場者は、用具庫からステージに移動し、ステージ奥の壁に沿って中央まで歩いた後、90度向きを変えてステージ奥から観客席へ向かって歩く。


ステージの奥行きだけでは短いので、ステージから観客席へ5メートルほど臨時のランウェイが付き出して設置されている。

その最前部まで来たら立ち止まってポージングを行い、その後は後ろ向きになってステージ奥まで歩き、壁に沿ってステージ右手へはけていくという流れになる。


女子の数が多い1組から4組までの文系クラスは代表者も粒ぞろいで、登場して歩くたびに特に男子生徒から大きな声援が送られた。

4組の道砂芽が登場した時は声援が最高潮に達し、指笛を鳴らす生徒もいた。


道砂の次が5組の珠子の番だった。

用具庫からステージに出て歩き始めようとした時、珠子の足が動かなくなった。


教えられたとおりに膝をほとんど曲げないモデルウォーキングを始めようと思うのだが、足が前へ出ない。

ステージの端で固まっている珠子を見て、客席がざわつきだした。


珠子は気を落ち着かせようと目を閉じた。

すると先ほどの「気楽にネ」という彩子の言葉を思い出して緊張が解けた。


珠子の足が動いた。

しかし、それはモデルウォーキングとは程遠い普通の歩き方だった。


ランウェイの最前部で立ち止まってもモデルらしいポーズを決めることなく観客席に向かってペコリと一礼しただけで、後ろ向きになるとまたスタスタと歩き出した。

珠子がステージからはけると、観客席からくすくす笑いと共に大きな拍手が起こった。


最後は出場者全員がステージ上に整列し、審査結果が発表される。

審査は公平を期するために3年生を除き、各クラス2名ずついる1、2年生の文化委員32名の投票によって行われた。


優勝者は、珠子だった。

発表の瞬間、珠子は信じられないというふうに手で口を覆い、道砂は珠子に拍手を送りながらも唇をかんでいた。


㊲ 中森セイラのサプライズ登場

校長が赤いガウンを珠子にかけ、王冠を被せて、ミスコンテストは終わった。

珠子をはじめ、出場者たち全員がステージを降りたところで、校長がマイクを持ってステージ中央に進み出た。


「本来ならここで閉会式に移るところですが、皆さんに嬉しいお知らせがあります。」

校長は、ここでもったいぶったを取った。

「本校の創立60周年を祝って、なんと中森セイラさんがおいで下さいました!」


セイラがステージに姿を現すと、悲鳴にも似た歓喜の声々で体育館中がどよめいた。

体育館を出て帰りかけていた観客たちも、そのどよめきを耳にして何事かと引き返してきた。


たまたま取材に来ていた地元テレビ局のスタッフたちも小躍りしている。

自局だけのスクープであり、全国ネットで流れるかも知れないからである。


「皆さん、こんにちは。中森セイラです。匿名希望ということなのでお名前は申し上げられませんが、このS高の生徒さんから学園祭に来てほしいというお便りをいただきました。たまたま昨日、福岡で公演がありましたので、こうやって駆けつけることができました。創立60周年おめでとうございます。それでは、お祝いに歌わせていただきます。聴いてください。」


挨拶を終えたセイラは、多くのヒット曲の中の数曲をつなぎ合わせたメドレーを歌い出した。

セイラが歌いだすと、すぐに彩子の耳の奥にセイラの声が届いた。

「アヤコチャン、ドコ?」


彩子は目をつぶって一生懸命念じた。

「ココデス、ココ!」


セイラの目が自分に向けられたので彩子は安心し、座席は二つ目のブロックだが最前列だから母の顔も見えるだろうと思った。

ところが2曲目に入ると、セイラはステージ中央の階段からフロアに降りた。


そのまま真っ直ぐ座席中央の通路を歌って歩き、左右の観客と握手しながら、座席の最初のブロックを過ぎた。

そして90度向きを変えて、彩子たちが座っているブロックの前を横切っていく。


3曲目に入った時、セイラは彩子と握手をした。

そして次に隣に座っている彩子の母に手を差し出した。


彩子の母親が握手した時、セイラの歌声が一瞬だけ詰まったように彩子には聞こえた。

名乗り合うことのできない親子がここにいる、そう思うと彩子は目頭が熱くなった。


来賓席を見やると、中森氏が1、2度うなずいたように見えた。

実母との対面は親には内緒だとセイラは言っていたが、中森氏はセイラの思いを見通していたのではないかと彩子には思えた。


㊳ 珠子のスカウト話

閉会式は生徒が学年別クラス別に着席することになっている。

一足先に帰る母親と別れて彩子が自クラスの座席へ行くと担任の南田が待っていて、彩子に校長室へすぐに行くようにと告げた。


訳が分からないまま彩子がノックして校長室に入ると、セイラ親子の接待をしていた校長が立ち上がった。

「南田先生から聞いたんだが、君が金子君の友達の伊達君か。さあ、こっちに来て座りなさい。」


セイラ親子を前にして校長と並んで座った彩子にセイラがウインクした。

「初めまして、中森セイラです。よろしくね。」

彩子もそれに合わせて「あ、はい。伊達彩子といいます。」と初対面を装った。


「実はね、伊達君。こちらの中森プロダクションの社長さんがさっきのミスコンテストをご覧になって、金子君をモデルとしてスカウトしたいとおっしゃるんだよ。」

「ええっ!」と大きな声を出して、彩子は思わずソファーから腰を浮かせた。


「そこでだね、中森さん親子をこれから金子君の家に案内してくれないか。それと、南田先生によれば金子君は引っ込み思案な性格だというから、スカウトの件について君からも背中を押してほしいんだよ。」

「あの、珠……、金子さん本人は、この件は?」


校長に代わって中森氏が答えた。

「さっきここに呼んでもらって話をしました。君以上に驚いていたが、後でおじゃまするからご両親に話しておいてほしいと伝えたところです。」


彩子の道案内で、セイラ親子を乗せたタクシーは珠子の家に着いた。

タクシーを降りると、中森氏は豪壮な金子邸を見て「ほう、これは、これは。」と感嘆した。


彩子がインターホンを押すと、一足先に帰っていた珠子が制服姿で門まで迎えに出てきた。

「おじゃまするよ。」


「あの、お父さんとお母さんは去年の東京でのこと、知りませんからよろしくお願いします。」

「分かってるわよ、珠子ちゃん。」と言って、セイラが珠子の肩をたたいた。


リビングルームで珠子の母親と顔を合わせた中森氏は、先ほどと同じような口調で言った。

「ほう、これは、これは。奥様もお美しい。」


メガネを外して長い髪を後ろに垂らしている珠子は、並んで座っている母親によく似ていて確かに二人とも美人だった。

「ところで、ご主人は?」


「連絡しておりますから、もう会社から戻ると思います。あの、娘からお話は伺いましたが、うちの娘にモデルが務まるんでしょうか?」

「長年、芸能界にいる私が太鼓判を押します。美人の奥様にお会いしてさらに確信が持てました。きっと売り出してみせます。」

芸能プロダクションの社長だけあって、うまい言い方をするものだと彩子は思った。


持ち上げられた珠子の母親は乗り気になったようで、横に座っている珠子を見た。

「あなたはどうなの?」


「自信ないわ。」

珠子はうつむいた。


どちらかに肩入れをするわけにもいかず、彩子は別の話題を振った。

「中森さん、珠ちゃんはステージ上でちゃんと歩けませんでしたよネ。あんなのでよかったんですか?」

「付け焼刃のウォーキングなんてどうでもいいんですよ。素人は素朴なのが一番です。審査員の生徒さんもそれを感じ取ったからこそ、珠子さんが優勝できたんじゃないですか?」


「それに、何より珠子さんにはオーラがあるわ。」とセイラが口添えをした時、珠子の父親が帰宅してリビングルームに入ってきた。

珠子の父親に会うのは彩子も初めてだったので、セイラ親子と一緒に挨拶をした。


「あなた、今お話ししていたんだけど、中森社長さんもセイラさんも太鼓判を押して下さるって。珠子は自信がないって言うんだけど。」

珠子の母親は夫もスカウト話を喜ぶと思っていたのだが、珠子の父親の顔つきは明るいものではなかった。


「うーん、ありがたいお話ですが、中森さん、珠子は一人娘でしてね。ゆくゆくは婿を取って会社を継がせたいと考えているんですよ。」

中森氏の顔が曇り、珠子も肩をすぼめて再びうつむいた。


先ほどまでは中立的な立場にいた彩子だが、珠子を可哀そうに思うとともに憤りにも似た感情が湧いてきた。

乗り気になっていた珠子の母親も夫の発言を聞いて不安げな表情になり、彩子に意見を求めてきた。


彩子は母親でなく、珠子を見据えて言った。

「珠ちゃん! 珠ちゃんの人生は、珠ちゃんの人生だヨ。可能性のあることだったら、やってみて最悪、失敗しても、やらずに後悔するよりも悔いは残らないと思う。アタシたち若いんだから会社のことなんかもっと後でも、あ、すみません、」


話の途中で彩子は頭を下げて上目づかいに珠子の父親を見た。

目を閉じて彩子の言うことを聞いていた珠子の父親が腕組みを解いて、彩子に顔を向けた。

「彩子ちゃんといったかな? よく言ってくれた。私は自分の都合で珠子の人生を縛ろうとしていたようだ。珠子、その気があるならやってみろ。」


そう言って、ポンと珠子の肩をたたいた。

珠子は、先ほどまでとは打って変わって晴れやかな顔になった。


珠子親子に見送られて外へ出ると、予約のタクシーが2台停まっていた。

1台は空港へ向かうセイラ親子用、1台は彩子の帰宅用だった。


「今日の学校訪問で少しは恩返しができたと思ったら、また彩子ちゃんに助けられたな。ありがとう。」

そう言って中森氏は、タクシーに乗りこんだ。


セイラは、タクシーに乗る前に彩子を抱きしめて耳元でささやいた。

「彩子、いろいろとありがとう。」


その言葉には珠子の件へのお礼だけでなく、体育館での母との対面のことも含まれているのだろうと彩子は思った。

そして「彩子」と呼ばれて、セイラとは確かに姉妹きょうだいなのだということも実感したのだった。


タクシーで家に帰り着くと、彩子の両親は夕食を終えたところだった。

「遅くなる時は連絡しなきゃだめだぞ。タクシーの音がしたみたいだが、彩子が乗ってきたのか?」


「うん。ミスコンの優勝祝いに珠ちゃんのとこに行ったら、遅くなったんでタクシーを呼んでくれたの。それより、ママ、学園祭どうだった?」


彩子の母親はキッチンで食器を洗いながら振り向きもしないで言った。

「珠子ちゃんは優勝するし、中森セイラとも握手できたし、行って良かったわ。」


彩子はキッチンに行って母親の背中にそっと抱きついて甘えた。

「ママ、お腹空いた。何か作って。」

セイラも握手だけでなくこんな風に母親を抱きしめたかっただろうと彩子は思った。

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