十話 市川美海 『存在しない教室』


―――


 ……私の話をまた聞きに来てくれたんだね、嬉しいよ。

 妹からも、キミの話を色々と聞いている。咲樹も、コレクションの話を出来る相手が出来て喜んでいた。変わった妹なのでね、相手をしてくれて助かっているよ。

 ……ま、とはいえ私も似たような類の人間だからね。妹の事も悪くは言えないな、ははは。


 もう気付いたかもしれないが、妹は自分の持っているコレクションにまつわる怪談をよくする。

 私が好きなのは……『場所』に関する話でね。

 今までキミにした怪談も、この学校にまつわる曰く付きの場所に関するものだろう?覚えていてくれているかな。

 

 入るだけで、立ち入るだけで背筋が凍るような寒気を感じ、なにかよからぬものの気配を感じる。

 自分の背後にいるはずもない存在を感じて振り返りたくなる衝動にかられるが、恐怖から決して後ろを向く事は出来ない……。

 誰かに見られているような視線を感じるのに、誰かがいるような物音がしているのに自分の目には、誰も見えない……。しかし、確実に誰かがそこにいる。


 そういう、常世ではおおよそ説明ができない、非日常の体験が出来る……場所。私は、そんな場所についての怪談に惹かれているのさ。

 ……ふふ、つくづく妹の事は悪く言えないね。


 それじゃあ、今日は私がこういった怪談に魅力を感じた、最初の出来事について語らせてもらおうかな。


 ……二年前、私がこの学校に入って間もない頃に経験した……恐怖の体験。



 『存在しない教室』の話について。



―――


 一年生だった私は、怪談というものに特別な興味も感情も抱いてはいなかった。

 まあ、クラスや部活で仲の良い友達からそんな話を聞く事はあっても、聞き流して相槌を打っていたくらいさ。自分からこんな風に怖い話をするなんて、考えられもしなかった。

 周囲に特に怪談が好きな人間が集まっていた、というわけでもなかったのだが……夏が近くなると、必然的にそんな話をする事が多くなる。

 

 ある日、クラスメイトの友人二人と私……三人で学校にまつわる、ある噂について話していたんだ。



「美海……『存在しない教室』の噂、知ってる?」



「……?いや、聞いたことはないが……」


 友人は二人とも同じ吹奏楽部に入部した仲間で、クラスでもよく話していた。

 お下げ髪の可愛らしい感じが特徴的な友人……葉子、というんだが、彼女が私を怖がらせようと不気味な笑みを浮かべてそんな事を言ってきた。


「この学校に伝わる、呪いの教室の話だよ。普通では絶対に辿り着くことが出来ない教室があって、そこは亡霊が住まう、異世界の教室なんだって……」


「言っている事が矛盾しているぞ、葉子。絶対に辿り着くことが出来なければ、どうしてそんな教室があると言えるんだ」


 私の言葉に葉子はちっちっ、と指を振って得意げに答えた。


「普通では絶対に、って言ったでしょ。その『存在しない教室』に辿り着くための方法……つまりは、特別な行き方があるって事だよ」


「行き方?」


「この校舎の階数や、それを繋ぐ階段、それに廊下なんかをね、普通は通らないような道筋で通るのよ。ほら、普通は校舎の中って目的の場所に行くためだけに移動するでしょ?そこを普通ではあり得ないようなおかしな巡り方をすると……『存在しない教室』に辿り着く事になっちゃうのよ」


「……なんだか、聞いた事のあるような話だな」


 どこかで聞いたことのあるような怪談話だと私は聞いていたが、もう一人の友人が葉子の話を興味深そうに聞いていて、声をあげた。


「なにそれ、すごく面白そう!ねえねえ、その教室には幽霊がいるの?」


 吹奏楽部ではサックス担当の、ロングヘアが特徴的な活発なタイプの友人……由梨が、目をキラキラさせてその話に食いついたんだ。


 頬杖をついてぼーっとしている私の目の前で、葉子と由梨はその怪談を語り始めた。


「うん。なんでもその教室は、この世とあの世を結ぶゲートみたいな場所に存在している教室でね……。成仏できない亡霊達が、フラフラと道に迷うみたいにそこに辿り着いちゃうから、霊の巣みたいになっちゃってるんだって」


「えー、なにそれこわーい!葉子はそこに行った事あるの?」


「ないない。でも、噂は結構色んな生徒に広まってるみたいで、あたしもこの話、同じフルートの先輩に休憩時間に聞いたんだ。それで、その先輩……その『存在しない教室』に辿り着くための方法まで、知っていたのよ」


「ええっ、本当!?ど……どうやったら行けるの?」


「ふっふっふ。それはね、このノートにメモしてあるんだ、ほら……見てみてよ、由梨」


 二人は私の事などすっかり忘れて、葉子がその先輩に教えてもらったという『存在しない教室』に辿り着くための特別な校舎の巡り方をメモしたというノートを開いてキャッキャと会話をしていた。

 私は……そろそろ昼休みも終わるな、と時計を見上げて、自分の席に戻ろうかと椅子から立ち上がろうとしたんだ。

 

 ……その時、由梨に急に、制服の裾を掴まれた。



「ねえ美海ちゃん。わたしと葉子ちゃんと美海ちゃんの三人で、その噂、実験してみようよ」



「……え?」


「三人でやってみれば怖くないからさー!ここまでしっかりと、その教室に行く方法が分かってるんだよ、ほらほら」


 そう言って由梨は、私に向かって葉子がメモをした『存在しない教室』に辿り着くためのルートの書いてあるノートを開いて見せてきた。

 繰り返すがその時の私は怪談なんてものに興味はなかったし、そんな怪異について別に検証したいなんて気はなかったんだ。


「いや、私は別に、興味は……」


「お願い美海ちゃん。わたしと葉子ちゃんだけだとどうしても心細くてさー。ほら、美海ちゃんすごくかっこいいし、頼りになるからなにがあっても平気そうだし!」


「……そんな事はないと思うけれど。それに、そんなに怖いのなら別にそんな教室に行こうとしなければいいんじゃないかな……」


 冷たい態度をとったと私自身思ったが、それでも由梨は引かなかった。


「わたし、そういう怖い話大好きなんだけど幽霊とか妖怪とか実際に見たコトないんだよー。ね、ね、お願い!どうしても一生に一度は、そういう怖いものを実際に見てみたいんだ」


「…………」


 その感覚すら分からなかった私だけれど……まあ、今なら少し由梨の気持ちも理解できるかもしれないな。

 

「あたしも、美海が行くんならこの方法試してみたいかなー。今日の放課後、部活もないしさ。ちょっとだけ付き合ってよ美海」


 葉子までそんな事を言って私を誘ってきた。

 二人が期待を込めた目で私の顔を覗き込んできていて……私も、返答に困ってしまったな。


 まあその後も色々と問答があったが……とにかく、その結果はお察しの通りさ。


 結局私は、暇潰しのように二人のその遊びのような怪談実証に付き合うことになってしまったんだ。



 ……それが、遊びでは済まないような事だと理解しておけば……。

 今となっては、そんな事を考えてしまうよ。



―――


「えーと、それで……次は北側の階段を降りて、二階に行くみたいだね」


 葉子が自分の持っているノートを見た後に顔を上げて、廊下の先にある階段を指し示した。

 私と由梨はその指示に従い、会話をしながらそこを目指して歩いていったんだ。



 『存在しない教室』……。普通では絶対に辿り着けないと葉子は言っていたが、確かにその通りかもしれなかった。

 校舎の廊下の端まで歩いていき、そこから三階へ上がり、屋上へ……。屋上に続くドアの前で一分間目を瞑った後、今度は一階に降りる。そして校舎の反対側まで廊下を歩いていき、玄関を通り過ぎた後南側の階段を二階へ。

 そこにある理科室のドアをノックした後、誰もいなければそのまま階段を三階へ。そして校舎を再び北側へ戻り、今度はそちら側の階段を降りて、二階へ……。

 その他にも色々な手順を踏んだが、まあとにかく面倒な手順で、確かにそれは普通では絶対にやらないような方法だった。


「うーん、確かに……これはなにか、怪しい気配がしてきたね。ね、あとどれくらいの手順があるの?葉子ちゃん」


「あと少しみたいだよ。これで中央階段を三階に上って……。それで、廊下を北側に戻っていくと、手順は終わりみたい」


「えー!そ、それじゃあもうすぐ……『存在しない教室』に着いちゃうの?ど、どうしよう美海ちゃん……!」


 そう言う由梨の顔は、怖がっているのか楽しんでいるのか分からない表情だったな。


 気付けば葉子も由梨も私の後ろを歩いていて、二人して後ろから私の肩や背中を掴んでいたんだ。……まるで私を、盾のようにしてな。

 私は特段恐怖を感じていなかったから別に気にせず歩いていたが……そろそろその手順が終わる、という葉子の言葉には少しだけ緊張をした。


 放課後の校舎は夕暮れから次第に夜に変わっていく時間だ。

 生徒達もほとんどいなくなり、先生達は皆職員室へ戻っている頃。

 手順を踏みながら何人かの生徒とはすれ違ったが、中央階段から三階に上っている頃には私達三人以外は誰の姿も見る事はなかった。



 いや、気配すら感じないんだ。



 普段は校庭や運動場でかけ声を出している運動部の声や、図書室から帰る生徒の足音が聞こえてもいいものだが……その時は完全に、私達三人の足音しか校舎には響いていなかった。

 妙な偶然だと思えばそれまでだし、私もそう思っていたが……不気味なのは確かだったよ。


 奇妙なくらいの無音の中に響く、私達三人の足音。かつーん、かつーんという無機質な音が、校舎の端から端まで響くような、異様な空間だった。

 夕暮れのオレンジの光は次第に黒色を混じらせて、夜の闇へと変貌していく。校舎内の照明がついてもいい時間なのに、その日は何故かまだ廊下を照らす蛍光灯が一つもついていなかったんだ。


 

 中央階段を上りきり、三階に上がった頃には……その異様な空間は、もっと色濃くなっていた。



「……なんか……急に、暗くなってない……?」


 それは、夕暮れが夜に変わるにしてはあまりに唐突だったし……それに、夜の闇にしては、妙な明るさを含んでいたんだ。

 例えるならば、夕日をサングラスをかけて見た景色に近い、と言っておこうかな。確かな明るさはあるのに、そこに奇妙な暗闇がまるで差し込んだように視界に被さるような……そんな光景だった。

 太陽を突然雲が隠したのだろうか、それとも、皆既日食かなにか……とにかく、そんな景色は見たことがない私達は、その異様さをすぐに感じる事が出来た。


「……き、北側の端まで行けば……『存在しない教室』に着くはずだよ……」


 葉子の声は、震えていた。

 私の肩を掴む由梨の手が、一層強くなった。


 この怪談に興味はなかったし、そもそも信じるなんて事をしていなかった私も……流石に、恐れを感じたよ。


 こんな事、するべきじゃなかった。

 私達の今いるこの校舎が、いつものものではなく異界のものへと変貌した事を、実感しつつある。

 元に戻る方法も葉子は知っていたけれど……それをするためには必ず、その『存在しない教室』に入る必要があったんだ。


 だから私達三人は、歩を進めるしかなかった。


 三階。中央階段から、北側の廊下の端へ。

 その廊下の端には……普段あるはずの教室に混じり、一つ。『存在しない教室』が、増えているのだという……。


「え……?」


「あ……」


 葉子も由梨も、絶句した。



 そこに、教室があったんだ。



 教室に書かれていた札には……なにも書いてなかったな。ただ薄汚れた白い札がかかっているだけの、教室。

 見覚えのある部屋ではなかった。

 校舎北側の端には普段閉じられている、倉庫代わりの教室がある事は知っていた。だがその倉庫が見当たらなくて……。

 目の前にあるのは、引き戸の開かれた薄暗い教室が存在していたんだ。



 『存在しない教室』。それが目の前に、存在していた。



「ねえ、葉子ちゃん……!も、元の世界に戻るのには、どうしたらいいんだっけ……!」


 まさか、本当に辿り着く事になってしまうとは思っていなかったのだろう。由梨が震える声で聞いた。同じく、恐怖に放心していた葉子が気付いたようにメモをとったノートを開いてその内容を言う。「


「こ、この教室の中に入って……一分間。心の中で、呟き続けるのよ。『ここは存在しない』『ここは存在しない』……って……」


「この中に、入るの……!?」


 教室の中には、机や椅子の類いは置いていなかった。

 木のタイルが敷き詰められている教室の前方には、教壇と黒板。だがそれ以外にはなにも置いてなく、窓ガラスからは暗闇に近い外の景色が見えるだけだった。

 外の景色も、おかしい。本来三階からは町の景色が見えるはずだったのだが……それが見えないんだ。まるで厚い雲に覆われているような霧が、その景色を塞いでいてほとんどなにも見えていない。


 この中に、入る。


 それがどれだけ無謀な事か、私達はすぐに理解をした。


 だがそうしなければ……私達は元の世界に戻れない、そういう事らしい。


「……!?」


 後ろを振り返った私は、驚いたよ。


 廊下を、暗闇が包んでいたんだ。

 いい加減廊下の電気がついてもいい時間なのに、そこは漆黒の闇が広がっていたんだ。

 一寸先は闇、という表現が的確で……一メートル先すら見えないような、暗闇だ。まるでその先に廊下が無限に続いているような錯覚をしてしまった。


 ……ここは、私達の本来いる世界ではない。噂通り、私達はその異界に辿り着いてしまったのだと理解した。


「……行くしかない。元の世界に戻りたければ」


 歩を進める私の後ろから、制服を掴んだ二人が恐る恐るついてきた。


 教室に入った瞬間に、冷気のような寒気が全身を駆け抜ける。

 お化け屋敷に足を踏み入れたどころではない。まるで処刑台に立ち、今から刑を執行される罪人のような……絶望感に近かった。


 引き戸に近い場所に私達三人は立ち、必死に心の中で唱え続けた。


(ここは存在しない、ここは存在しない、ここは存在しない……!)


 葉子も由梨も、必死にそれを祈ったことだろう。

 私もそうだった。恐怖が全身を硬直させ、生へしがみつく欲望だけに支配されていく。ここから逃げたい。元の世界に帰りたい。それだけを、必死に祈った。


 教室の中は静まりかえっていた。時計の音すら聞こえない、痛いくらいの静寂の中、私達は心の中で叫び続ける。

 一分とはこんなに長いものかと思いながら……。手元の腕時計の秒針が、まるでスローモーションのように見えていた。


 そして、あと三十秒、二十五秒、二十秒……。

 

 一分が近づいていったその時。



 どん。



 なにかが、ぶつかる音が聞こえた。

 それは相変わらず靄のようなもののかかった、教室の窓ガラスの方向からだ。


 どん。どん。


 音は次第に大きく……そして、多くなった。

 なにかが起きているが、それを確認するのが怖い。


 だが私は、それを確認する事にした。


 どん。どん。どん。


 どんどんどんどんどんどんどんどん。


 私の視界に映ったのは……。



 窓ガラスいっぱいに張り付いた、人間の手だった。

 何人、何十人……ひょっとしたら何百人の、右手の左手の手のひら。

 外の景色が見えなくなるほどに、教室の窓をそれらが、埋め尽くしていたんだ



「……!! 一分ッ!!」


 葉子の声で、私は我に返った。


 すくむ足をどうにか動かして私達三人は教室を飛び出し、廊下へ飛び出した。


 一直線に、北側の校舎を南側へ駆け抜ける。

 それが元の世界に戻る、最後の手順だったんだ。



「……はあ、はあ、はあ……」


 息を切らしながら、私達三人は校舎を全力で走って……校舎の南端へ到着した。


「……?おーい、どうしたんだお前らー」


 見回りにきた先生の懐中電灯の光が、とてつもない安堵感となって全身を包むようだった……。



―――


 ……これが、私の体験した怪異の話さ。

 

 異界へ足を踏み入れ、そこで見て、聞いて、体験した恐怖は……おそらく永遠に忘れないだろうな。


 ……ふふふ。不思議そうな顔をしているね。

 そんな恐怖の体験をしたのに、どうして私は怪談を集めているのか……。


 ……人間が、最も充実する瞬間とはなんだと思う?



 それは、せいを実感する事だよ。



 生きている。息をしている。景色が視界に入る。匂いを感じる……。死と、生。それを対比していく事に、人間は幸福を感じるんじゃないかと私は思う。

 

 ではどうすれば、生をより実感できるのか?

 それはね……死をより近くに感じ、それを感じながら生きる事さ。

 死を間近に感じつつ……恐怖に身を置きながら、自分の生きている人生を噛みしめていく。それが、精神の充実を生むんだ。


 ……おっと、妙な話をしてしまったね。これで私の話はおしまいさ。


 もしも『存在しない教室』に行きたくなったら……葉子からノートを借りてきてあげるよ、ふふふ。


 それじゃあ、また。


―――

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