二話 市川美海 『池の中の怪異』
―――
ん?
確かに……私は、市川
キミは……私の記憶が確かなら面識がないはずだけれど。
……ふむ、やはり初対面か。それに……下級生なのだな。
上級生の私に、初対面のキミが用事がある……と。しかし、身に覚えがないが……。
……怖い話を、聞きたい?
……なるほどな。
誰から聞いたのかは知らないが、確かにそういう話は
……ふむ、怪談をたくさん集めているというわけだな。
面白そうな試みじゃないか。気に入ったよ。
怪談が好き、という趣味は私の周りではなかなか共感されづらくてね。友人に話したりするのはずっと
ふふ、本当に……どこから私の趣味のことを探りだしたんだろうな、キミは。
まあ、いい。
今日の放課後は丁度時間があるし、そこの視聴覚室ででも落ち合おう。
怖い話を沢山知っていても、それを共有する相手がいないのは少し寂しいからね。
共有する相手は……まあ、一人だけいるんだが、見知らぬキミと新しくそういった交友の輪を広げるのはとても楽しみだよ。
……おっと、そろそろ昼休みが終わるね。
それじゃあ、放課後に……。
―――
……やあ、来たね。
ふふふ、自分でもなんだか不思議だよ。
見も知らぬ下級生と二人きりで怪談を語る……なんてことをあっさり受け入れた自分に、さ。
まるでなにかに導かれているのかもしれないね。
さあ、そこに座ってくれ。
改めて……私は、市川
吹奏楽部に所属していて、クラリネットを担当していた。今は最後の演奏会も終わったところで、卒業まで暇をしているよ。
まあ暇もなにも受験が近いのだからそんなことも言っていられないのだが……まあ、そんなことはいいだろう。
趣味は、言うまでもないが……怪談を聞く、とでも言おうか。
ホラー映画、ホラー小説、ホラー漫画、怪談……。怖ければなんでも
なんで、と思われても説明はできないかな。私の本質というか……気付けば、そういうものにしか興味がなくなっていたというわけさ。
理由はいらないだろう?キミだって……そういう類いの人間なんじゃないかな?
……さ、前置きはこのあたりでいいだろう。
聞きたいのは、この学校にまつわる怖い話だったね。
古くからある学校だから幾つもそういう話は知っているよ。興味があって一時期昔のこの学校の新聞などを漁ったりしていた。
昔は文芸部や新聞部があったらしくてね。私達より大分前の先輩が、幸運にもそういった怖い話や噂を文章で遺しておいてくれていたのさ。
……その中でも、私が特に印象に残った話をキミに伝えてあげるよ。
タイトルは……そうだな。
『池の中の怪異』とでも言っておこうか。
―――
校庭に、小さな池があるのは知っているね。
ビオトープといって、野生生物の生活空間を作って観察するために学校が設置するものらしいよ。
ふふふ……とはいえ、キミも知っているかもしれないけれどそんな学習が到底できるようなものではないね、あそこは。
とにかく汚すぎる。
二メートル四方くらいのコンクリートの堀の中には、藻がびっしり生えていてその中に数十年は取り替えていないだろうという汚れた緑色の水……。
浮いているアメンボくらいは観察できるかもしれないけれど、中にいる生物なんてこれっぽちも見えはしないよね。
校舎の隅で、人もほとんど通らないような目立たない場所にあるあんな池を気にする生徒なんてほとんどいないだろう。
後々先生にあの池について聞いた話によると、誰も点検をしたことはないし長年放置されてきたものらしい。昔の生物の先生やら科学部が使っていたのかもしれないけれど……それを知っている先生がいないくらい、あの池は放置され続けてきたんだ。
何故そんな池の話を先生に聞いたか?……ふふふ、それは後で説明するよ。
さっき、私が学校に残っている学級新聞や文芸部の文集から怖い話を調べていると言ったね。
実は数十年前……昭和の時代の文芸部の刊行誌に、怖い話を特集するコーナーがあったのさ。
それをたまたま図書室で見つけて、放課後にしばらく読んでいた時……興味深い話が書いてあったんだ。
『校庭の池は、異界の入り口?』という見出しだった。
その文には、ある生徒の体験談が書いてあった。
昔……
彼は生まれから身体が弱く生まれたらしくてね。今では問題になりそうな話だが、昔はそういった生徒にイジメのような行為を働く輩がいたらしい。
身体は痩せ細っていて、体育の個人競技ではいつもビリ、団体競技ではみんなの足を引っ張る……。生まれつきそうなのだから当たり前の話だが、彼はそういった理由から不良達のイジメにあっていたらしいよ。
酷い話さ。そういう生徒にこそ周りは優しく接するべきなのに、集団から異質な者を選別して排除しようとする……野蛮な連中の考えそうなことだ。
小野寺くんに対してのイジメは、机やノートに落書きをされる程度のものではなくなっていたんだ。日常的に殴る、蹴るという暴力を頻繁に受けていたそうだよ。
古い人間の考えそうなことさ。『イジり』と称して笑いながら小野寺くんに暴行を働き、それが愛情であるととんでもない言い訳をする。最低な不良達さ。しかもそういった理由があるから、と彼らにはイジメをイジメであるという認識さえないんだ。……イジメ、という言葉自体、相応しくないのかもしれないね。れっきとした、暴行事件さ。
そんな毎日を過ごしていた小野寺くんにも、とうとう限界の日がくる。
学校にくるたび増えるアザ。弱っていく肉体と精神。絶望の未来……。地獄のような毎日を過ごしているうちに、彼の心はいつの日か暗闇に閉ざされてしまっていた。
自分にはもう、命を絶つ以外方法はない。
そんな風に彼が考え始めていた時、ある噂を耳にしたんだ。
『学校の池は、異界へと通じる入り口だ』とね。
……突拍子もない話だと思うかい?
まあ、噂なんてそんなものさ。
廃墟だろうが幽霊トンネルだろうが、そこが奇妙で奇怪な場所であるほどそこに怪異が存在すると思われがちで……そんな風に身近に怪異の入り口があると噂されるパターンもあるんだ。
学校のあの汚らしいビオトープは、実は底がないくらい深く下へと続いていて、その最果てには私達の見知らぬ世界が存在している……と。
馬鹿らしいと思うかもしれないけれど、昔この学校にはそんな噂が存在していたのさ。
ひょっとしたらなにか原因があったのかもしれないけれど、この小野寺くんの話自体が数十年前の文芸部の文集に載っていた、昔の噂として書かれていたんだ。発生元を探れるほど詳しいものじゃない。
けれど……あの池から異界へ行くことへの、幾つかの情報のようなものがそこには書かれていたんだ。
一、異界へ誘われるものは、あの濁った水が透き通って見える。
二、透き通って見える日は、満月の晩、零時だけ。しかし満月だからといって誰しもが異界へ行けるとは限らない。
三、異界へ行ける、ということ以外に詳しいことは分からない。
……聞いて分かると思うけれど、ほとんどが不明瞭だ。
ただ自分の見知らぬ世界への入り口があの池だということ以外、なにも分かったものじゃない。
けれど、小野寺くんはそこに希望を抱いたのさ。
もはや自分で死を選びたくなるほどの絶望的な状況。しかし、それを行動に移せるほど自分に度胸も覚悟も足りない……。そんな時に、あの池の噂を聞いたらしいのさ。
池から見知らぬ世界へ行ける?どんな世界であろうとも、今自分がいるこの現世よりよっぽどマシな世界に違いないじゃないか、とね。その時の彼には、そうとしか思えなかった。
そしてある満月の晩……小野寺くんは学校に忍び込んで、あの校庭の隅にある池へ向かったんだ。
不気味なほど静かな、満月の夜。
学校の周りに民家はあるはずなのに、何故か物音一つ自分の耳には入ってこない。灯りさえ、月光以外に存在しないと錯覚してしまう。
暗闇の校庭を進み、真っ暗な校舎を見据えながら……奥へ、奥へと進んでいく。
不思議と彼に恐怖心はなかった。不気味であればあるほど、それが現世と隔絶した世界へ自分を誘ってくれるような気がするから……。
この世界から、抜け出したい。イジメられず、バカにされず……人の目を気にせずに生きていける、そんな世界へ行ってみたい。異界という場所がどんなところか分からないのに、ここから逃げ出したいあまりに彼の思いはどんどん高まっていった。
そして、あの池の前に彼は着いた。
濁った水が、風もないのにゆらゆらと揺れている。
普段の池であれば藻が生えて汚くて、月の光など反射する状態じゃない。
けれど……もしも異界に入れる条件を満たした人であれば、その水が透き通って見えるはずだ、と。小野寺くんは信じ続けて池の前に立ち尽くしていた。
そして……時計の針が進んで、十二の文字のところで重なった。
「あっ……」
小野寺くんは驚いた。
本当に、水がだんだんと……透明な色を取り戻していったのさ。
緑色の水が、まるで浄化されていくように透き通っていき、徐々に満月を映し出していく。
……噂は本当だった。
気付けばあの池は、まるで真新しい水を注ぎ込まれたように光り輝いていた。そしてそこへ満月の光が注ぎ込み……まるで、光り輝いているようだった。
そこに、小野寺くんの顔が映る。鏡に映すかのようにはっきりと、小野寺くんは自分の顔を見たんだって。
「ぼ……僕を、そっちの世界へ連れていってくれ!もうこっちの世界は嫌なんだ!早く逃げ出したいんだ!」
彼は、祈りを言葉に変えて叫んだ。まるで神様に願い事をするようにね。
そうすると……また、不思議なことが起こった。
「え……」
その瞬間、小野寺くんの血の気が引いた。
彼は池に向けて祈るように懇願していたはずだった。その時の表情って、想像できるかい?必死に、泣きそうに得体の知れないものにすがる表情さ。
でもね。
池の中の彼は、笑っていたんだ。
一見するとそれは、実に安心したような笑みだった。
全てから解放されて、
でも彼は……そんな表情はしていなかった。
池の外の彼と池の中の彼は、全く違う表情をしていたというわけさ。
そして、池の中の小野寺くんは、池の外の小野寺くんに語りかけた。
声までは聞こえなかった。でも……鏡のようにはっきりと映るその水面で、彼の口の動きは驚くほど鮮明に見えたんだ。
「い」 「い」 「よ」
ゆっくりと、はっきりと。
小野寺くんは口を動かして……また口角を上げて、にっこりと微笑んだ。
そして……まるで握手をするように、小野寺くんは小野寺くんに、手を差し伸べた。
…………。
……それからどうしたか、って?
小野寺くんは、普通に翌日からも学校に登校してきたらしいよ。
……がっかりしたかい?結局彼は、異界へはたどり着けなかったのかもしれないね。
けれどね、話には続きがあるんだ。
翌日から学校へ来た小野寺くんは、まるで別人のようだったらしい。
表情が明るくなり、胸を張って歩くようになって、声を張ってハキハキと喋るようになった。話かけられてもおどおどせずに対応して……いじめっ子達の不良達もそんな態度に押されて、次第に彼をイジメすのはやめていった。
まるで、別人のようになっていたらしいよ。筋トレも始めたみたいで、体つきもよくなった。成績は常に上位で、テストで学年一位をとったこともあるそうだよ。噂によるとその後彼は一流企業に就職して、幸せな家庭を築いたんだって。
なにが彼をそうさせたのかは分からない。
けれど……ある女生徒が、放課後に小野寺くんを見かけたらしいんだ。あの池……ビオトープの近くでね。
池の水は相変わらずの緑色。藻が生えてゴミが溜まり、底どころか数センチ先まで見えないような水だった。
小野寺くんはその池に行くと……あたりをきょろきょろと見回したの。女生徒は
すると……彼は驚くべき行動をとったんだ。
四つん這いになると……あの池に、顔を近づけたんだ。
何をするかと思ったら……池の水を、ごく、ごくと喉を鳴らして飲み始めたんだって。
信じられないよ。今のあの池の状況を知っていたら、吐き気さえしてくるような絵図さ。飲むどころか、触ることだって恐ろしいような水色なのに。
彼は……小野寺くんはさもそれを美味しそうに飲み始めた。数十秒は、顔を池にくっつけて水を飲み続けたそうだよ。
「……!!」
女生徒は、その時の小野寺くんの顔を見てしまったの。
それは、人間の目じゃなかった。白目の部分が消えて、一面の黒色の瞳。その目がさも美味しいものを飲んでいるように嬉しそうに歪んで、ごくごくと喉を鳴らし続けていた。
女生徒はたまらずその場からバレないように逃げ出したそうだよ。
その後……小野寺くんは何事もなく卒業していったそうだよ。
ただ……何度か彼が池の方へ近づいていくのは、目撃されていたみたいだけどね……。
―――
……童話の『金の斧』は知っているかい?
正直者の木こりが斧を泉に落として、出てきた神様に落とした斧が金か銀かを尋ねられて……正直に自分の落とした斧を申告したら正直者として金、銀、そして木こりの斧の三本を受け取るというお話さ。
正式には木こりが落とした斧も木こりの元へと返ってくるんだけれど……話によっては金の斧と銀の斧の二つだけを返却されるケースもあるんだ。
何気ない表現の違いなんだろうけれど……少しだけ、ぞっとしない?もしも神様が返した斧が金と銀の二つだけだったのならば……。
木こりの落とした斧は、永遠にその泉の中で暮らし続けなければならないわけだからね。
まあ、斧は意識のない無機物なわけだから感情なんてないのだろうけれど……今回のお話に小野寺くんも、そんなお話に当てはめられるんじゃないかな。
あの池が返したのは金の斧であって、元の斧はずっとあの池に沈んだままなのさ。
そこが異界なのかは分からないし、彼が幸せに暮らしているのかも分からない。……けれど、小野寺くんは明らかに、別人のように変わっていたのさ。
あの池の伝説……異界へ通じる入り口を通って。そして異界へ行った彼の代わりに、別の小野寺くんがその役割を交代した……。そう考えられる。
……もっとも、私は当時の文芸部の刊行誌に載っていた怖い噂を話しているだけだからね。それが真実なのかどうかなんて、分からないよ。
……ただ、時々あの池の中に映るらしい。
必死の形相で叫び、もだえ苦しみ、血反吐を口から流しながら必死にこちらに向けて手を伸ばす……男子生徒の姿が、さ。
……さ、これで私の話はおしまいだ。お役に立てたかな?
私の帰り道はこっちだけれど……キミは、どっち方向?
……ふふ、なるほどね。
じゃあよければ、覗いていくといいよ。
丁度今日は満月だし……そろそろ薄暗くなってきた。十二時じゃなくても、少しくらいは……何かが見えるかもしれないから。
あの池の方向へ帰るのならさ。
また怖い話が聞きたくなったら、いつでも声をかけてよ。
……ああ、そうそう。私の妹もそんな話を色々知っているから、キミの役に立てるかもしれないね。
それじゃ……また。
―――
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