#5
文具屋でカッターナイフを買ってから、僕はそれを肌身離さず持ち歩くようになった。朝起きると、すぐに枕の下に隠してあるカッターナイフを取り出して、撫でまわすようにその質感や形状をしつこく観察した。
吸い込まれる様な黒色を基調とした樹脂製のボディは、握りやすさを重視した曲線で作られている。側面に滑り止めの為のギザギザとした切れ込みが施されていて、手袋を付けたままでも力が入れやすい工夫となっている。オートロック式になっていて、スライダーを横にずらすと冷たく光るステンレス製の刃が出たり引っ込んだりした。刃には等間隔に折り目が付けられていて、縞模様のようになっている。この折り目に沿って専用のキャップを差し込んで刃を折り返すと、刃が折れて切れ味の良い刃が戻る仕様だった。刃を出したり引っ込めたりする際のカチカチという音と、手に伝わる僅かな振動が僕はたまらなかった。この音を聞いていると、心のどこか、何をしても満たされない、ぽっかりと穴の空いた部分が、温かくて甘い液体で満たされていく感覚があった。
それから僕はカッターナイフの虜になっていった。ご飯を食べている時、歯を磨いている時、トイレに入ってる時、お風呂に入ってる時、学校で授業を受けている時。いつでもどんな時でも、カッターナイフを持つようになった。仕舞いには、刃を舐めたりするようになった。冷たい金属の味がして舌が痺れる感じがした。
気に入らない奴は、何時でもコイツで切りつける事ができる。実際に切りつける訳じゃないけど、そう思ったら心に余裕が生まれた。今後スティーブに何を言われても大丈夫な気がした。ダリルのアドバイスを聞いて本当に良かった。やっぱり持つべきものは友達だった。
その週の休日、僕は散歩に出かけた。フード付きパーカーのポケットの中で刃を出したり引っ込めたりして、その音に癒されながら歩いた。途中スニーカーの紐を踏んで転びそうになったけど、心はすごく穏やかだった。普段の僕ならそんな事にさえイライラしていたと思うけど、カッターナイフは確実に僕の内面を浄化していた。
僕はふと駅に行ってみようと思って、最寄りの駅まで歩いて行った。電車に乗って知らない町に行き、一人で自由に生活がしてみたいと思った。ダリルが以前言っていた、「この町を出たい」という気持ちが今はよく分かった。何にも、誰からも縛られず生きていけたら、どんなに幸福なんだろうかと思った。
駅に着くと、まずその人の多さに圧倒させられた。改札口に向かって人が次々と吸い込まれ、また同じように人が吐き出されていく。人混みが苦手な僕は、駅に来たことを少し後悔した。それとは別に、人混みの喧噪に混じって、電車の走る音や駅構内のアナウンスが聞こえてくると、ここから全てが始まるんだという高揚感が溢れた。
券売機の上部に設置された路線図を眺めた。盤面の隅々まで枝の伸びた路線図は、眺めているだけで胸が高鳴った。電車に乗れば、どこにだって行ける。僕は、ふと海の近くに住んでみたいと思った。
目を瞑ると、やがて駅の喧騒が波の音に変わった。潮風が全身にべっとりと張り付いて、磯の香りが辺りに立ち込めた。それでも不思議と不快ではなかった。僕は港町での生活を想像した。静かな朝に、窓際で潮風を感じながら本を読んだり、散歩をして過ごす。夜中にレンタルした映画のDVDを延々と見続ける。僕の理想の生活だった。
「あ、ジュード・ペッパーくんだ」
その声が聞こえた瞬間、僕は現実に引き戻された。目を開けた先に、(彼らはたしか、学校のクラスメイト…ゲイリー・サモンズと、ジェレミー・オークスだったかな…)が立っていた。せっかくの休日にクラスメイトと鉢合わせるなんて、僕は、なんてついてないんだと思った。さっきまでの高揚感は地に落ちて、僕の気分は最低だった。
本当は無視をしてこの場から立ち去りたかったけど、後々面倒な事になりそうだと思った僕は、「やあ、奇遇だね」とだけ挨拶をした。これが僕のできる最大限のコミュニケーションだった。クラスメイトと会話をするなんて、今までほとんど無かったから、緊張で声が震えた。
二人は、終始嫌な笑みを浮かべていた。ゲイリーが「君の声、初めて聞いたわ」と言うと、ジェレミーが吹き出した。僕は心底他人のフリをして立ち去らなかった自分を恨んだ。
ゲイリーは「これから俺たち、隣町に出かけようと思ってるんだ」と言いながら、ゆっくりと近づいてきた。僕は頼むから早く終わってくれと願った。ニヤニヤとした笑みを浮かべたジェレミーが、「隣町に新しくゲームセンターができたんだよ」と言うと僕の背後にまわった。僕は「そうなんだ」と答える事しかできなかった。
「あ、俺UFOキャッチャーとボウリングがやりたい」
「ゲイリー、カラオケも行こうぜ」
二人は、聞いてもいないのに、これから何をして遊びたいのかを話してきた。僕は、もう何も言えなかった。これから起こりうる、最悪の事態を予感していた。
「だからさ、ペッパーくん。お金くれない?」
その予感は的中し、僕は一気に地の底に落とされた気持ちになった。こんな面倒ごとに巻き込まれるなら、駅になんて来なければよかった。もっと言えば、散歩なんてしなければよかったのだ。どんなに後悔しても、時は既に遅かった。背後でニヤニヤとした笑みを浮かべているジェレミーも、「俺たち、お金無くてさ」などとほざいている。
「ごめん、僕、今日は財布持ってなくてさ」
実際、家の近所を散歩するだけのつもりだった僕は、本当に財布を持っていなかった。金を巻き上げられて終わるなら、その方がマシだとすら思ったが、無いものは無かった。それを聞いたジェレミーが「金持ってないのに、どうして駅なんかにいるんだよ」と言った。そう言われると、確かにそうだなと思った。
「わ、忘れちゃったんだ」
「それならお前、ポケットに何隠してるんだよ」
ゲイリーにそう指摘されるまで気が付かなかった。僕は終始パーカーのポケットに手を入れて、カッターナイフを触っていたのだ。焦る心を落ち着かせるように、カッターナイフのスライダーをずらして刃を出したり引っ込めたりして、その振動を指で感じていた。
「え?あ、いやこれは…ごめん、そろそろ時間だから行くね」
僕はそう言って、この場を立ち去ろうとした。いくらカッターナイフでも、工作の為に使うなんて言い訳は、駅じゃ通用しないと思ったのだ。それに、カッターナイフしか持っていないという状況はかなり異常性がある。二人は学校のクラスメイトだし、かなり面倒な事になると思った。
立ち去ろうと踵を返すと、ゲイリーが「待てよ」と言って手を伸ばして僕の肩を掴んだ。その瞬間、普段の僕なら有り得ないほどに、頭に血が昇っていくのを感じた。咄嗟に僕は「やめろ!」と叫んでいた。
「は?何、お前?」
僕に抵抗されると思っていなかったのだろう。ゲイリーは、苛立ちをあらわにした。僕の肩を掴んでいた手の力が、明らかに強くなった。僕はゲイリーの手を払うと、「やめろって言ってるだろ」と言った。頭に昇った血のせいか、顔が異常に熱かった。
ゲイリーが再度僕に腕を伸ばしてきてのが分かって、僕は咄嗟にゲイリーの肩を手で押した。自分でも驚くほど反抗的な態度をとっていた。そうだ、僕にはカッターナイフがある。何も怯える事は無い。僕はこいつをいつでも殺せるんだ。今すぐにでも。
ゲイリーは「何調子乗ってんの、お前」と言い、僕の胸ぐらを掴んで顔を近づけてきた。しかし、もうそんな脅しに屈する事は無かった。僕は「お前、面倒くさいんだよ」と言って、ポケットの中でカッターナイフの刃を出して、ゲイリーを切り付ける準備をした。こいつは、今ここで殺さなくちゃいけない。こんな粗暴な奴が、平然とのさばっているのが許せなかった。
「君たち、何やってるんだ!」
ゲイリーと睨み合っていたら、駅員が声を上げて割り込んできた。頭に血が昇っていて気がつかなかったが、周りに人だかりができていた。やじを飛ばす者もいれば、こちらを見ながら、ひそひそと何かを話す者もいた。
ジェレミーが辺りを見渡した後、ゲイリーに向かって、「面倒な事になってきたし。もう行こうぜ」と言ったが、ゲイリーは僕を睨んだまま動かなかった。ジェレミーは再度、「おい!ゲイリー、行くぞ!」と言うと、改札口に向かって歩き出した。ゲイリーは舌打ちをした後、僕を睨みながら、「お前、学校で覚えとけよな」と言って、ジェレミーの後を追い改札口へと去っていった。
二人が去っていった後、僕は呆然と立ち尽くしていた。駅員が、「君、ちょっといいかい」と言いながら近づいてきて、僕は我に返った。一歩ずつ後ずさりをすると、隙を見て走り出し、群衆の中に紛れ込んだ。駅の喧噪の中で、駅員の、「君、待ちなさい!」という声が聞こえたが、僕は振り返らずに走り続けた。
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