絶好の機会

zan

第1話

 同僚が休んだので、私が残業でその仕事を代わりにやることになった。そうしないと大変なんだそうだが、私のほかに誰も残業をしなかったのは一体なぜなのか。私だけ睡眠時間が少なくてもいい、余暇がなくても気にしないとでも思っているのだろうか。

 実際のところ、私だって早く帰ってやりたいことはある。

 壁の時計を見上げてみれば、短針は『9』に向いている。長針は『4』にさしかかって、秒針がその上を通り過ぎていく。


「はぁ」


 ため息をついて私は突っ伏する。残りの仕事量を見ると、おそらくあと2時間はかかるだろう。

 どうしても今日中に、という仕事だけでそれだ。今日休んだ彼女は、ずいぶん前から仕事をため込んでいたのだ。

 悪いのはそんなことをした彼女なのだけれど、ここで私がやっておかないと私までとばっちりで怒られるし、それだけじゃすまないだろう。

 やっと全部終わった、と背筋を伸ばしたころにはもう12時近い。これで明日もまた8時から仕事なのでは、晩御飯を作る時間もとれない。


 もちろん次の日の朝、ものすごく眠かった。休んでも許されるんじゃないか、と思いながら私は職場に向かっていく。


「おはようございます」


 気負いもなく私に挨拶してくる同僚たちの顔が、もう憎たらしい。私にだけ負担をかけてこの人たちは平然としているのだ。

 昨日休んだ彼女だって私には何の謝罪もしてこない。何も負担のかからなかった他の人へは「昨日はごめんねー」とにこやかに挨拶して回っているのに。

 もしかして本当に、この人たちは私には何でもしていいと思っているんじゃないだろうか。


「バレンタインだから、チョコ買ってきましたよ。ほらー」


 彼女は職場の男たちに紙袋からチョコを取り出して配り始めている。


 おかしい。あなたは昨日、どういう理由で仕事を休んだと思っているの?


 私は煮えくり返っているのだけれど、何も言わなかった。言えなかった。

 昔からこうなのだ。私はずっと、我慢するだけしかできない。自分で事態を動かすことが、こわい。

 私は彼女のために残業で仕事をした。それを今彼女に言ったって、どうせ何も変わらない。

 怒っているけれど、言ってもなんだか苦労をひけらかしているようだし、謝ってもらいたいというわけでもない。


 耐え切れないような苛立ちと怒りはあるけれど、どうしてもらったらこの気持ちが晴れるのか自分でもわからない。だから、彼女に「私があなたの仕事を残業してまでした」ということを伝えようとはしないほうがいい。

 と、私は自分に言い訳をしておさえこむ。

 怒っている気持ちにふたをして、どうにかおさえこんで今日を乗り切ろうと考えている。


 こんなことばかりしている。

 いつだって私はこういうときに、我慢している。こわいのだ。

 駅で誰かにぶつかられても、自転車や傘を盗まれても、ただ我慢していることでしか対処ができない。


 怒って怒鳴り散らしたり、誰かを殴りつけたり、そんなことができる人がうらやましいくらい。

 そうできる勇気が私にはない。だから小さくなってこうして、一人で抱え込んで自分の中で気持ちが静まるまで待つのだ。


 もちろんそんな私の様子に誰も気づかない。何も言わずに黙々と仕事をする私を見て、みんなは「昨日の残業のことは何も気にしていなさそうだ。問題はなかった」とか思っているのかもしれない。

 そんなことはない。

 私にもう少しの勇気があれば。


 しかし私に勇気がないのであれば、今日も何も問題なく終わった。私は仕事を終えて帰宅しようと職場を出た。

 昨日休んだ彼女はもちろん、早く退社してもう姿が見えない。


 昨日のぶんもしっかり休むために私はまっすぐ駅に向かった。見上げたビルの広告に、バレンタインのチョコレートが見える。そういえば彼女はチョコレートを配っていたっけ。私はもちろんもらえていない。彼女も渡す気がなかったろう。


 静まったはずの怒りがまたお腹の底からあがってきた。

 私はこんなに怒りやすいし、それを忘れにくいし、そしてことあるごとに心に仕舞ったはずの怒りを取り出しては憎しみを燃やし返している。

 それなのに。

 それなのに私はこわい。


 怒っていることを、相手に伝えることができない。誰にも言えない。

 すべてを穏便にしておかないと。私一人が我慢することでおさまるのならそうしなければ。

 こんな調子で私は今までずっと、生きてきた。小さなころからそうだったし、進学しても、就職してもずっと同じだった。


 どこかで私は爆発しなければ、きっと壊れてしまう。

 そんなことを思いながらここまでこれてしまったから、この先どこかで私は壊れて死ぬのかもしれないけれど、もうきっと何もできない。


 高校生らしい若い女の子が、二人並んで私の前を歩いていく。塾の帰りだろうか、二人ともマフラーを巻いて一人はスマホに目を落としながらふらふら歩いている。

 カバンには犬らしいキャラクターの小さなぬいぐるみがくっついている。何のキャラなのかは知らないが、ずいぶんかわいらしい。後で調べて買いに行こう。次の休みでも。


「えー、ちがうよ。なんもないって」

「うっそぉ。どうせなんかあんでしょ」


 二人は何か話しながら歩いて、赤信号で立ち止まる。

 私は彼女たちの少し後ろで止まろうとしたが、全く予想もしない方向、たぶん私の右後ろあたりから大きな何かが出てきて女の子を吹っ飛ばした。それがセダンタイプの車で、物凄くスピードを出していたんだと気づいたのは、それが走り去ろうとした瞬間だ。


「えっ」


 女の子は歩道に倒れて、動かなくなっている。不幸中の幸いというか、はねられたのは一人だけでもう一人は何が起きたのかわからずに呆然としていた。

 私じゃない。

 車に吹っ飛ばされたのは、私じゃなかった。私よりずっと若くて、未来のある女の子だった。


 あまりにも突然だったけれど、何も心の準備をしていたわけではなかったけれども、私は爆発すべきところに出くわしてしまったのだ。

 今までのすべてのストレスは、今この時のためにあったのかもしれないと、私は勝手に思い込んだ。


 この一瞬、私は全ての我慢を解き放った。


「救急車! すぐ呼んで!」


 自分の口から出たとは思えないほどの声が出た。


「は、はいッ」


 はねられなかった女の子はすぐにスマホを出して救急車を呼ぶ。私は大急ぎで倒れている女子高生に駆け寄ってみる。あまりにも勢いよく吹き飛んだので、すでに息絶えているかもしれないと思ったが、彼女はまだ人の形をしていた。

 ふっとんだように見えたけれども、わずかにかすったか、ミラーに引っかかったとか、そのくらいだったのかもしれない。運が良かった。もう少し彼女が前に出ていたら、たぶん助からなかっただろう。

 それでも吹っ飛んだ衝撃で頭を打ったに違いない。暗い中にもじわじわと血が地面に流れているのが見えるが、わずかに呼吸はしているようだった。

 確認してすぐ、私は走り始めた。

 もちろん、あの車を捕まえようとしたのだ。走れる。私は走れる。


「待てぇ!」


 ほとんどブレーキなしで突っ込んできたあの車は、ガードレールに車体をこすりながらも逃げようとしていた。どこかぶつけてボディが歪んだのか、さほどスピードが出ていない。追いつけるはずだった。


「おまえ、おまえェ!」


 叫びながら私はパンプスを脱ぎ、それを手に持って走った。何もかも、このために今まで私はうっぷんをためていたに違いない。私はそう思い込んで、学生時代以来の全力疾走をする。


 こいつは絶対、絶対に殴ってもいいやつだ。私の目の前で私以外の人間に危害を加えて逃げようとした。

 ここで、ここで爆発してこいつを殴れ、私!


「逃げんじゃねえ!」


 自分で何を言ってるのかもわからないまま、私は手に持っていた靴を思い切りオーバースローで投げつける。

 回転しながら飛んだ靴は、割れていた窓から車の中に入って何かにガツンとぶつかった。すごいコントロールじゃない。もう一発いけるでしょ。

 二発目のパンプスも見事に窓から入って、何かに当たった。それでさらにスピードが落ちたので、私はここぞとばかりに走って車に追いついた。それでドアを開けて運転手を引きずり出す。ものすごくお酒の匂いがきつかった。

 そうか、飲酒運転だったから逃げようとしたんだ。


「けーさつ!」


 私は運転手を引っ張り出し、歩道で110を呼ぼうとしている。車を運転していたのは街灯の下に出てみれば白髪交じりのおじさんで、鼻まで赤くなるほどお酒を飲んだあとのようだった。もう言い訳できないでしょうね。

 しかしここまできてもおじさんは逃げようとしていて、私の手を振りほどこうとしている。こういう場合って、殴っていいんだっけ?

 いや、しかし。怒られることはあっても法的にあれこれ言われることは多分ないんじゃないだろうか。


「離せ、おい、クソアマ、ビッチ! 殺すぞ!」


 やった! 相手が私を殺すって言ってる!

 殴っていいよね。

 私は車の中に落ちていたパンプスを片方拾って、思い切り振りかぶった。


「鬼…」


 酔っぱらいの運転手が最後にはそんなことを言っていたけれど、知るはずもない。


 そんなことがあって、私は翌日の仕事を休んだ。色々と警察で事情聴取されたからだ。

 警察にはたっぷり怒られたけれど、法律的にどうこうというのはなかった。そして、犯人逮捕協力ということでしぶしぶ感謝もされた。

 女子高生たちには感謝されたし、はねられた彼女も命に別状はなかったらしい。


 そうして翌々日になって、出社した。私のぶんの仕事は誰も手をつけていない。


「どうして、私のぶんの仕事は誰もしてくれていないのですか? 私は彼女が休んだ時に残業もしてしたのですよ。それについて誰も何も言わないということは、当然の業務だと思うのですが」

「え? いやそれは……」

「なんです? 答えられないなら人事にかけあいます」

「い、いや」

「あと、今日も半休もらいます。チョコレートを買いに行くので休むのが許されるんですから、私も買い物に行くから休みます。いいですよね」


 一度ふっきれたら、我慢することが逆に苦手になってしまった。

 私はなんでもすぐ口に出していってしまう。でもそのほうがいいんじゃないだろうか。

 だって、あんなふうに殴っていい相手が出てくるなんて、もう二度とないだろうし。

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絶好の機会 zan @sasara

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