15 ここにいるから(完)

 びゅう、と強い風が吹いた。

 潮の香りを含む北の風には、いつもと同じ湿り気があった。

 買い物を済ませたトイは、紙袋を抱えて小さな部屋に戻るところだった。

 休日には、余所の店に出かけるのがいつものことになっていたけれど、たまには家でのんびりしてもいい。

 瓏草が切れそうだったな、と思い出したが、店に出る前にまた買い足せばいいか、と思って引き返すことはしなかった。

 それとも、彼のものを分けてもらってもいい。絶対に切らしたりしていないはずだから。

 雨の気配を覚えながら、足取りを速めた。

 ふっと遠い日の記憶が蘇ったのは、かすかに聞こえた遠雷のせいだったろうか。

 あれからもう――五年。いや、もっと経った。十年近い。

「トイ」

 かけられた声に、彼女は反射的に振り返った。そこには、黒ローブを着た若者の姿があった。トイは驚いて目を見開く。

 彼女に魔術師の知り合いなどはいない。ただひとりを除いては。

 たったいま、それを思い出していたところだった。遠い日の、結局は若かった、自分のことも。

「……私のことが、判りますか」

「もちろん」

 トイは、かすかに笑んでうなずいた。

「久しぶりだね、黒すけ」

 懐かしい呼び方に、二十代半ばほどの青年魔術師は笑った。

「ご迷惑かとも思ったんですが、一度、お会いしたくて」

「ちょうどいいよ」

「は」

「あの頃は、生意気な口調だったけど。それくらいになれば、ちょうどいいね」

「さすがにもう『子供』とは思われませんね」

「どうかな」

 トイは肩をすくめた。黒すけはまた笑う。

「どうしたの」

「それは」

「ううん、違う。会いに来た理由じゃなくて。これ」

 と、彼女は自身の右頬に触れた。

「ずいぶん、男前になっちゃったじゃない」

「ああ」

 今度は黒すけが肩をすくめた。

「少々失態を演じました」

 魔術師はそれで済ませた。

「術で傷などないように見せることもできるんですけれど。あなたには、私の本当の姿を知っておいてもらいたくて」

 右頬にある大きな傷痕――酷い火傷痕だろうか。それは青年の穏やかな顔をいささか物騒に見せていた。あの日の少年を思い出さなければ、トイも驚いて叫ぶような真似をしてしまったかもしれない。

「ガリーアンとは、仲良くやっていますか」

「おかげさまでね」

 これは、本当だった。

 あのあとも店主は彼女を送ることを続け、ふとした折に、部屋に入った。彼が望んだのか彼女が招いたのか、それはもう忘れてしまった。

 結婚という形こそ取らなかったものの、〈海の泡〉亭はいまや、夫婦で経営しているようなものだった。一緒には住んでいないが、休みの日にはでかけたり、あんまりいつも一緒にいすぎると思えば、敢えて離れることもあった。よい関係だと、思っていた。

「よかった」

 黒すけは、心からそう言うようだった。

「あんたは? 恋人はいるの?」

「魔術師は概して、あまり恋愛をしないんですよ」

「ほかの魔術師のことなんかいいよ。あんたのことを言ってるの」

「そういう間柄になった女性もいましたが、過去のことです」

 寂しいという風情はなかった。それが「魔術師」故なのか、それともやっぱり、黒猫は孤高なのか。

「じゃ、次に行こう」

「は」

「『来た理由』」

「この街を出ます」

 簡単に、黒すけは答えた。

「出る?」

「ええ。もう戻らないかと」

 すっと青年は、遠くを見るような目つきをした。

「未練はありませんが、あなたには、会いたかった」

 その視線をトイに戻す。

「もちろん、恨み言を言うためではありませんよ」

 冗談めかしてそうつけ加えた。

「……恨んでいるかと、思ったよ」

「正直なところ、はじめのうちは少々」

 青年は肩をすくめた。

「けれど、年を重ねて、判りました。立場が逆だったら、私も同じことをした」

「あんたには、その台詞はまだ早いよ」

 にっと笑ってトイが言うと、やっぱり子供ですかと青年は不満そうな顔をしたあと、冗談であると示すように笑ってみせた。

 どこまで「判った」のだろうとトイは少し訝った。

 「同じこと」というのは別の異性と続きながら年下の恋人を弄ぶこと、それとも、そうしていたと思わせる嘘をつくこと?

 だが、トイはそこを突き詰めなかった。

 いまさら真実を伝える必要はない。黒すけが気づいていたとしても、そうでないにしても。

「ひとつには。サリウェのことが気になったんです」

「誰だって?……ああ」

 一リア、トイは本気で思い出せなかった。彼女を恐怖に陥れ、死を間近に思わせた襲撃者のこと。

「彼なら、その後、見ないよ。見たという噂も聞かない。あんたの予想したように、河岸を換えたんだろう」

「ええ。西の方に去ったようです」

「知ってたの」

 少し驚いてトイは言った。黒猫はうなずく。

「心配だったので、追いました」

「そう」

 有難う、と礼を言った。

「私の責任でもありましたから」

 相変わらず礼儀正しく、青年はそう応じた。

「ただ念のために、できればあなたに越していてほしいとも思いましたが」

「もしそうしていたら、今日は会えなかったね」

「そうなりますね」

 黒すけは肩をすくめた。

「私もね、意地っ張りなんだ。ガリーアンも越した方がいいと言ったけれど、あんな男のために逃げ隠れるみたいな真似をするなんて悔しいじゃないか?」

「トイらしいです」

 心配ですけれど、と彼はつけ加え、大丈夫だよとトイは笑った。

「幸せなんですね」

「ん? まあね。少なくとも、泣き暮らしてはいないかな」

「よかった」

 黒猫はまた言った。やはり、心からの言葉であるようだった。

「あなたが幸せであると、知りたかったんです」

 青年は女に視線を合わせて、そう告げた。トイは苦笑いする。

「不幸だったらどうしたんだい?」

 少し、意地悪を言った。黒すけはまた笑う。

「それでしたら、攫っていこうかと」

 冗談か本気か、掴みかねた。冗談ですよ、と少なくとも当人は言った。

「雨が降りそうですね」

「ここじゃ、よくあることだろ」

「そうですね」

 同意してから彼は、雲の厚くなっていく空を見上げた。

「いつかは、懐かしいと――思うだろうか」

 呟くような声だった。彼女に言ったのでは、ないような。

「そう感じたら、またおいで」

 いつだったか言ったのと似た言葉を発した。

「ガリーアンと続いても別れても、私はたぶん、ここにいるから」

 少し、間があった。

 それから、かつての少年はあの頃と同じように笑って、うなずいた。

「さようなら、トイ」

 あの日と同じ言葉。でも、痛みはなかった。

「ああ、さよなら。また、いつか」

「――ええ」

 約束にならない約束。

 これで、いい。

 黒猫は黒ローブを翻した。女は彼が見えなくなるまでそれを見送った。そのまましばらく佇んだあと、すいっと踵を返して、雨の匂いがしはじめた空気に別れを告げた。

 強い雨は遠い思い出を洗い流してくれるだろう。きれいに。

 けれど、消し去るのではない。雨は思い出ごと大地にしみ込んで、生命を育む水となる。そしてまた空に戻り、思い出ごと、降ってくるだろう。

 部屋に戻ったら瓏草に火をつけよう。ゆっくりと、少年との日々を思い返そう。彼女はそんなことを考えた。

 いや、その前に――。

 ふっと、トイは笑んだ。

 その前に、洗濯物を取り込もう。


―了―

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煙の夢 一枝 唯 @y_ichieda

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