14 通過点

 むしろ、彼女は安心した。

 今夜も〈海の泡〉亭に黒猫が現れないこと。

 もしかしたら、彼女の家にも。

 この夜もガリーアンはトイを送ると言い、トイは話を蒸し返さないことを約束させた上でその好意を受けた。

 ガリーアンはトイの部屋に上がることなく帰っていく。あわよくばという様子もない。それはガリーアンの本音かもしれないが、「誠実な人」と思わせる、男の作戦であるかもしれなかった。トイもそうしたことは判っていたが、彼がどんなつもりでもかまわなかった。

 とにかく、事実はひとつ。

 黒すけはやってこず、ガリーアンがトイを送り、彼女は部屋にひとり。

 それが二日、続いた。

 トイは黙りがちだったが、自覚はなかった。常連たちも、冷やかさなかった。

 彼らは、少年のことを話題にしなかった。まるで、後ろ暗いところのある酒場に不似合いな魔術師の少年など、はじめから存在していないかのように。

 更に、一日続いた。

 やっぱり、あれは二人目の恋人であったのかな、とトイは思った。

 出会いは仕事であったとしても、それから恋をする。何も不思議じゃない。それどころか十二分に有り得るし、少年のためを思うならばその方が絶対によいと――。

 五日が過ぎた。

 ガリーアンは彼女を送り、彼女は部屋でひとり。

 このまま、黒猫はもうやってこないのかもしれない。恋を覚えた少年は、彼を「子供」扱いしないで素直に頼り、彼に守られる、年端もいかない少女を愛するようになって。

 彼のものを片づけようか、と何となく思った。

 頭では、もうやってこないものと決めつけるには早いとも考えたが、五日前よりもその日が近づいたことだけは間違いないと、そんなふうにも思った。

 のろのろと立ち上がって、開けていなかった新しい茶の封を切った。穏やかな香りがした。

 ――とんとん、と規則的に戸を叩く音がした。トイはぎくりとして、ぱっと扉を見た。少し間がおかれて、それから、音が繰り返される。トイはゆっくりと扉に向かい、開けようかどうしようか、躊躇った。

 彼だろうか。それとも、違う誰か。

「……トイ。遅くに済みません。開けてくれませんか」

 黒猫の、声だった。トイはそこで、また躊躇う。

「話を……したいんです」

 十トーア、彼女は動けなかった。

 話。いったい、何の。

 ――別れ話、と思うと、固くなっていた身体からふっと力が抜けた。きちんと終わるなら、それもいい。

 かちゃり、と音をさせながらトイは入り口を開けた。

「……こんばんは」

 何と言おうかと迷う彼女を前に、黒すけもおそらく迷った末、何てことのない挨拶の言葉を口にした。

「入れてもらえますか」

「もちろん」

 ごく普通の調子を保って、トイは横にどいた。

「ちょうど、お茶を淹れようと思ってたところだよ」

 ひとりで、という言葉は飲み込んだ。

「あの、トイ」

 部屋に入ると、気まずい沈黙に陥らないようにとばかりに、少年はすぐ声を出した。

「僕は、あなたに謝らないといけません」

「謝ることなんて、何もないよ」

 少年が何に対して謝ろうとしているのであっても、その必要はないと思った。

 店や部屋にこられなかったことでも。

 ほかの少女に心を奪われたことでも。

「いえ、あるんです」

 黒猫は主張した。

「僕は」

 どう続くのだろう。ぐだぐだと言い訳をするのは、黒すけに似合わない気がした。

「あなたを探るような、真似をした」

「何だって?」

 思いがけない言葉にトイは目をしばたたいた。

「こられなかったのは、仕事のためです。あなたも見た、あの少女を守らなければならなかった」

「前に、私にやったみたいにね」

 つい出たのは皮肉だろうか。あのあと、少年は彼女に恋をした。今度は、ほかの娘に。

「違います」

 黒すけは否定した。

「あなたを守りたかったのは僕の意志で、あの少女についたのは僕が適任だと導師が判断したから。僕の意志は介在しません」

 言い訳なのか、真実なのか、トイには判らなかった。

「その仕事は、もういいの」

「問題は解決しました」

 何が問題だったのかは知らないが、それは魔術師協会の事情だろう。そこを問うても仕方がないと思った。

「解決したのは、今日です。僕は今夜、〈海の泡〉亭に行くことができた」

「でもこなかったね」

「はい」

「あの娘に、惹かれたんだろ」

 自分から言うのは胸が痛かった。でも、黒すけから言われればもっと痛いだろう。

「違います!」

 少年は声を大きくした。

「それだけは、決して、違う!」

 暗い色の瞳はしっかりと彼女を見据えていた。

「そんなふうに、思ったんですか」

「少し、ね」

 嘘だ。ずっと、そのことばかり考えていた。

「僕が彼女といるのを見たときから?」

「――そうだね。たぶん」

「それじゃ」

 黒すけは声を落とした。

「やっぱり、僕のことなんてどうでもよかったんですね」

「何だって?」

「あんなふうに気軽な様子で帰ってしまって、信頼してくれているのかとも思いました。でも」

 トイはまた瞬きをした。まさか黒すけは、彼女が妬かなかったと拗ねているのだろうか?

 ――それはあるかもしれない。けれど、それだけでもないように思った。

「でも?」

 彼女は続きを促した。

「あの夜、僕は……いたんです」

「あの夜って、どの」

「僕が〈海の泡〉亭に行けないと言った日。深更には解放されたから、あなたを送るのに間に合うかもしれないと、店に行った」

「――こなかったじゃないか」

「ええ。あなたが彼と帰るところでした。ガリーアンと」

 思い出して、どきりとした。

「話を……聞いていたのか」

 少し離れれば、薄闇に人影は見えない。そして、静かな夜なれば、人の声は昼間より遠くまで届く。

「盗み聞きをするつもりではありませんでした。でも、聞こえました。結婚の話をしていた、ようでした」

「それは」

 トイは少し慌てた。黒すけが彼女に結婚を申し込むなど、ガリーアンの勝手な考えだ。もし少年がそれを聞いて萎縮したのなら、その誤解は正さなければ。

「抱き合っている姿も――見ました」

 囁くような声で少年は言い、そこでトイは彼がもっと異なる誤解をしていることに気づいた。

 少年は、店の主がトイに結婚を申し込んだものと、思っているのか。

 違う、と言いかけた。それは、彼女が少年と少女のことを誤解するよりも酷い間違いである、と。

 だが――トイはそうは言わなかった。

「そう。見たの」

 静かに、彼女は言った。

「ここには……こられなかった。彼がいたらと思うと、怖ろしくて」

「……ガリーアンは別に、あんたに殴りかかったりは、しないよ」

 こなかったとは、言わなかった。

「彼とは、長いんですか」

「そうだね」

 否定をしないまま、彼女は続けた。

「五年……ううん、もうそれ以上かな。他に恋人ができても、最後はいつも、彼のところに帰ったよ」

 誤解を助長する言い方をした。ただ、店の仕事に戻ったというだけのことを。

 ――いい機会だ。利用する形になるガリーアンには少し悪いけれど、これがいい。

「そうではないと……思おうとしました。彼があなたを思っていても、あなたは僕を思ってくれていると。けれど、僕が動じたようには、あなたは動じなかったようでした」

 少女とのことを言っているのだろう。

 とんでもない。動揺した。とても。

 それを出さなかっただけ。

「あんたとは、続かないと思ってたし」

 やはり動揺を出さずに、トイは言った。

「ほかの娘を見つけたのなら、いいだろうとは、思ったよ」

 傷つける言い方だ。黒すけとのことは行きずりにすぎないと、そう言ったも同然だ。

「あんたさえかまわなければ、私はどちらでも」

「どちらでも?」

「私がガリーアンと続いて、あんたがあの娘と続いて、それでもよければ続けるかい?」

 何て酷い言い方だろう。初めて恋をし、初めて女を知ったばかりの少年が、そんなただれた関係を受け入れられるはずもない。

 ――いや、トイだって、受け入れられない。

 もしも黒すけがあの少女に恋をしたと告白してきたなら、若さが彼女を求めてきても、彼女は応じたくないだろう。

「僕は」

 少年の声は震えた。

「あなたのことが好きでした」

「有難う」

 気軽に、それを装って、トイは言った。笑みさえ、浮かべた。

「もう、帰ります」

 彼の声はまだ震えていた。

「お茶は?」

 何て、酷い。そう思いながらも、トイは何とも思っていないふりをした。当然、彼は首を振った。

「要りません。……明日、僕のものを取りに来ます」

「気にしなくても、要らなければ捨てておくよ」

「いえ。手間をかけさせたくありませんから」

 もう、黒すけはトイと目を合わせなかった。

 胸が痛んだ。とても。

 でも、これでいい。

 女と酒と瓏草を知って、少年は少し大人になった。

 それから、失恋を知って。

 自分は、彼の人生の通過点だ。

 最初からそう思っていた。思っていたことが現実になっただけ。

 現実に、しただけ。

 黒猫の後ろ姿が扉の向こうに消えるのを見守りながら、後悔はすまいと思った。

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