13 誤解なんか
その夜――黒猫は、こなかった。
涙を見られればどう言い訳しようかと思っていたけれど、黒猫は、こなかったのだ。
安堵と落胆の入り交じった奇妙な感情を抱えて、トイはひとり、休んだ。
泣いた身体は疲労を増やし、彼女を深い眠りに落とした。
おかげで、夢は見なかった。
目覚めればひとりで茶を淹れ、見送る相手のないまま、しばらくぼうっとした。けれど日常は日常で、やることはたくさんある。
トイは億劫な気分を振り払って、掃除と洗濯をはじめた。洗濯物を干していれば黒すけとのやり取りが蘇る。昨日まではそれに笑っていたのに、今日は胸が痛んだ。
部屋を見回せば、いつの間にか、黒すけのものが増えている。彼が自分で持ち込んだものもあるし、一緒に買ったものも。
トイは、いつかそれらがなくなる日のことを思い、こみ上げるものを振り払うように首を振った。
自分はこんなに涙もろかっただろうか。
年を取ったせいかな、と思うことにした。
茶が切れそうなことに気づいて、トイは買い物に行くことにした。じっとしているから沈んだ気持ちになるのだ。足を動かせば、昨夜のこと――黒すけの不在も、ガリーアンの指摘も――大したことではないと思うようになる。
真昼の日差しは、とてもきつい。ましてやトイのような夜族にはかなり厳しいが、真っ当な店は夜には閉まってしまう。仕方がない。
ひとりで市場をぶらつくのも久しぶりだ、と思った。
人混みのなかにいると、独りが意識されなくて、少しほっとした。
必要なものを二つ三つ買い揃え、賑やかな街区を抜けて角を曲がり、馴染みの茶屋へ向かう。
そう言えば、魔術師協会というのはこっちの方だったな、とふと思ったトイは、道の先によく知る顔を見つけた。
それは、昨夜に見なかった顔。
そしてその隣には、見知らぬ少女。
どきりとした。
だがすぐに気づいた。
黒すけは、二股を掛けられるような性格ではない。彼の態度が万一にも演技で、彼女が見事に騙されているのなら、彼は一流の
どういう内容であるのかはともかく、これは仕事――なのだろう。昨日やってこなかったのも、このためかもしれない。
ふっと黒すけが顔を上げ、トイの姿を認めた。トイは気軽に手を振った。向こうの顔は、強張った。
それがあまりにも顕著だったものだから、トイは驚いた。仕事ではなく、やはり、ほかの恋人なのだろうか? そんな思いも一
踵を返すべきかどうか、トイは躊躇った。
黒猫も、迷っているようだった。仕事――それとも、若い恋人――を取るか、トイを取るか。
気の毒かな、と思ってトイの方が引くことにした。仕事であれ、浮気、それとも本気であれ、少年に決断をさせるのは悪いような気がした。
だがそれは却って、黒すけの迷いを消したようだった。
「トイ、待ってください!」
若い少年の、張りのある声が小路に響いた。トイの足は止まる。彼は足早に、彼女に走り寄った。
「これは、その……彼女は」
「判ってるよ」
トイは片手を上げた。
「仕事、なんだろう?」
「……そうです」
「誤解なんかしないよ。もしもそれを心配してるのなら、だけど」
ひらひらとトイは手を振った。
「やるべきことを続けな。そのために店やうちにこられないなら、何も気にすることはないし」
「……トイ」
黒すけは、何か言いたそうにした。トイは少し待ったが、少年は首を振り、おそらく違うことを口にした。
「今日も、伺えないかと」
「そう」
トイはうなずいた。
「しっかりやんな」
そう言って彼女は、再び踵を返した。少女の方は、見なかった。
仕事であっても、黒すけがほかの娘と一緒にいる状景を目にするのは思っていた以上に心の痛むことで――トイはもうそれを見ていたくなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます