12 怖いのか
その夜、言った通りに黒すけは店にこなかった。
トイはひとりで帰るつもりだった。サリウェに襲われた恐怖はいまだに彼女の内に残ったけれど、あの男は協会から町憲兵に突き出され、刃物を抜いて人に酷い怪我を負わせたというので――あと数
ますますトイを恨んでいることも有り得たが、町憲兵隊が彼に目をつけたこの街ではもう悪事をやりづらいから、たいていの犯罪人がそうであるように河岸を換えるだろう、というのが導師や黒すけの見方だった。
もっとも少年は危惧し、男が出てくるより前に引っ越すことを勧めてきた。トイは、考えておくとだけ答えていた。
「おい、ちょっと待て」
店を出ようとすると、ガリーアンが彼女をとめた。
「送る。あと二
「要らないよ」
トイはひらひらと手を振った。
「サリウェは街にいないし、何も危ないことなんか」
「
「それなら、以前だって同じじゃないか」
「
「やめろよ」
トイは肩をすくめた。
サリウェのことはガリーアンにだけは話したが、それはその名を洩らした彼女自身の責任を明確にするためだ。あの夜に彼女が殺されていれば、店には迷惑がかかっただろう。働き手がいなくなるという意味でも、町憲兵隊から調査を受けるという意味でも。
店の片隅で裏商売が行われているということは店主の罪にはならないが、〈海の泡〉亭に町憲兵が調査にきたという話は、真っ当な人間にも後ろ暗い人間にも、店への足を遠のかせるだろう。だが町憲兵がやってくる可能性を念頭においていれば、いろいろと対処の方法がある。
そう思って、話したのだ。心配をしてもらうためではない。
「お前の言いたいことは判るが、心配にもなる」
ガリーアンは引かなかった。
「それに、話もあるんだ」
「話だって?」
「店じゃやりにくい、内緒話」
そんなふうに言われると、興味も湧く。トイはうなずいて、ガリーアンの戸締まりを見守った。
「話は、何だって?」
トイの家まではそれほど遠くもないから、「話」とやらをする時間はそれほど長くない。外に出ると彼女は、店の主が表の扉に鍵をかけている間に尋ねた。
「魔法使い君のことだ」
「何だ」
トイは騙されたとばかりに天を仰いだ。
「さっきの話を繰り返すつもりなら、お断りだよ。あっちへ向かって」
と、トイは彼女の家とは反対方向を指した。
「さっさとお休み」
「繰り返すんじゃない、続けるんだ」
「それでも同じことだよ」
トイは手を振って、施錠を終えたガリーアンを背後に残そうとした。だがその振った手首を掴まれる。
「逃げるなよ」
「そんなつもりじゃ」
ない、と言いかけておかしくなった。「そんなつもりじゃなかった」。これは、黒すけの口癖。
「逃げやしないよ」
トイは手を振り払った。
「でも、あれは〈
立場が違えば、連綿と主義主張を語り合ったところで互いに納得などいかない、ということの例えである。
「お前に結婚しろと迫ってる訳じゃない。ただ、別れるなんて言い出したのが気になっただけだ」
結局トイの家の方向に歩き出しながら、ガリーアンはそう続けた。
「何だ」
トイは笑った。
「魔術師だなんだと言ってたくせに、案外あの子を気に入ってるんだね」
「何でそうなる?」
「傷つけたら可哀相だと思ったんじゃないのかい」
「女に振られるのなんざ、経験のひとつだ。あの入れあげようは、初めての恋ってやつだろう。初恋は適わないものと言うが、実ったんだから運がいい。あとは失恋の苦しみを知れば、男としても成長がある」
「ついでに離婚も?」
「手厳しいな」
離婚経験者は顔をしかめた。
「それなら、何でそんな節介を口にするんだ」
らしくないんじゃないか、とトイは言った。
「彼はいい。男だ。だがお前は女なんだぞ、トイ」
「それくらい知ってるよ」
茶化すように言えば、ガリーアンは一歩前に進み、彼女の前に立ちはだかるようにした。
「何なんだよ」
トイは呆れた声を出した。今日のガリーアンはずいぶんとしつこい。いつもは彼女の恋愛など放っておくのに。
「あのな、トイ。お前は」
不意に男は腕を伸ばした。はっと思う間もなく、女はその腕に抱きとめられている。
「何、すんだ、放せ」
「こうされたら、逃れられんだろ? いっつも強がってるが、どうしたって男の腕力には敵わない」
「知ってる! いいから放せっ」
トイが暴れれば、ガリーアンも彼女を解放する。こんな真似をされて怒りも覚えたが、店主の意図は理解しないでもなかった。
「守ってもらえよ。意地を張るな。あのガキといるときのお前は、これまでザランやリンティーといたときよりもずっと楽しそうだ」
ガリーアンは彼女の前の恋人たちを知っている。彼らともつれたことも、彼女が泣いたことも。
「お前には幸せになってほしい」
「――なれない」
トイは、そう答えた。
「どうして、そう思う」
「彼はいまに、もっといい娘を見つける。あんただって言ったじゃないか、初恋だ。のぼせてるだけなんだよ。いまに――」
「捨てられる?」
その一語に、トイは身を固くした。
「それが、怖いのか?」
トイは黙っていた。
「馬鹿だな。それだけ惚れてるってことじゃないか。振られるのを怖れて、自分から離れようなんざ」
「あいつの、ためだ」
「そうかな」
ガリーアンは首を振った。
「その選択は、どっちも不幸になるようにしか、思えんがな」
「あんたには」
トイはうつむいた。
「判らない」
「そうだな」
ガリーアンは言った。
「判らない」
そう呟いた男の横を女はすっとすり抜けた。もう、家はすぐそこだ。ガリーアンは、戸口まで送るとは主張せず、そのまま彼女を見送った。
いつかは、別れるだろう。
黒すけのため。
いや、それとも自分のため。
いつか黒すけが、彼に合う年齢の娘と出会って次の恋に落ちて、トイを捨てて出て行くよりも――猫のように気紛れに出て行ってくれた方がいい。
そうでないならば、自分から離れてしまった方が。
そんなふうに、思っていた。だが、気づいていなかった。
指摘されたことで、不意に形になった。
悔しかった。
涙が出そうだった。
震える手で鍵を開け、部屋に入った。
一緒に帰ってくる姿のない部屋は、それが当然だった頃よりもがらんどうで、トイは嗚咽をもらした。
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