11 やめたらどうだ
「僕には、そんなものがないと思っていますか。思い悩むことなどない、子供だと」
「子供だって、悩むだろう」
その返答に黒すけは、結局自分が子供だと言われたのかどうか、少し考えるようにした。
「僕はですね、トイ。数年前、人生の重大な局面に行き当たったと思いました」
真顔で言う少年に、女はふっと笑いそうになったが、どうにかこらえた。だが、向こうは気づいたようで、少しふてくされた。
「僕みたいな『子供』が『生意気』だと思ってますね」
「ごめんごめん。突っかかるなって。ただ、可愛かったからさ」
「可愛いと言われても、あまり嬉しくはないです」
「ごめんよ」
トイは繰り返し、謝罪の仕草をした。
「判るよ。魔術師になるかどうかってな決断なら、確かに重大な局面だろうさ」
そう言うと、黒猫は目を見開いた。
「どうして……」
「違うのかい?」
「いえ、違いません」
黒猫は首を振り、少し間を置いた。
「そう、僕は魔術師の道を選びました。後悔はありません。こうしてあなたに、会えたのですし」
トイは何も答えず、灰を皿に落とした。
「ただ、僕にも、何かから目を逸らしたくなることはあるんです」
黒すけは、トイが笑うかどうか気にするように彼女を見た。トイは笑わない代わりに、少年を抱き寄せた。もしかしたら黒すけは、子供をあやしているようだと思っただろうか。トイ自身は、自分の「つもり」がよく判らなかった。
何か、少年が言わなかったことがあるように思った。秘密にしようとしている訳ではなく、ただ単に、言うのを少し躊躇ったような。
けれど、気には留めないことにした。
いつか、言いたくなれれば言うだろう。
彼との間に「いつか」が――あるとして。
「今日は、魔法使いはいないのか」
〈海の泡〉亭に少年の姿があるのが日常と化した頃、顔が見えなければわざわざ尋ねられた。
「ああ。店にはこられないかもと言ってたね」
「へえ、『店には』。つまりおうちには毎晩やってきて、そいで、毎晩ヤッてんのかい」
「お盛んなこった」
「そりゃあ、向こうが若いもんな」
「うるさいね。人のことは放っときな」
そんな言われようにも、トイは慣れたものだ。これは相手が黒すけでなくても、言われる類のこと。「若い」でなければ「絶倫」だの「好きもの」だのとでも言ってくるだけだ。それこそ若い娘であれば性的なからかいに恥ずかしがったり怒ったり、もしかしたら泣いてしまうようなこともあるかもしれないけれど、トイと常連客にとっては、どうということのない交流の一種だ。
黒すけが聞けば怒るかもしれないな、と思う。自分がからかわれるのはいいが、トイがネタにされると腹を立てる、まるで
黒すけはとても冷静な子だから、かっとなって何か――彼の場合、魔術――をやらかすようなことはしないだろうが、静かに怒ってしまった彼をなだめるのは大変なのである。
というようなことを考えて苦い顔をしているつもりが、傍から見ればどう見ても笑っているようだ、などという状態は、やはりトイもまた黒すけを恋人と考えている証と言えただろう。
それは、幸せなふたりである、と見えた。
「トイ。それ、やめたらどうだ」
黒すけのいない夜、不意にガリーアンから声がかかって、トイは目をしばたたいた。
「何が」
「煙だよ」
店主は、瓏草を持つ仕草をして、さっとその手を左右に振った。
「何だよ、いきなり」
トイは笑った。トイの倍は平気で吸うガリーアンにだけは、「健康のため」などとは言われたくない。
「女は、よくないだろ」
「いまさら、どうしたんだ」
顔をしかめてトイが言えば、ガリーアンは言いにくそうにした。
「女は、ガキ産むんだから」
トイは目をますますぱちくりとさせた。
「何言ってんだ」
また、トイは言った。
「あの魔法使い君は、基本的にかたぎだろ。近い内に、親に会ってくれとか言い出すぜ」
「まさか」
「それより先に、結婚を申し込んでくるかも」
「おい。からかうにしてもいい加減に」
「本気で言ってるんだよ」
ガリーアンは、この手の話題のときによく見せるにやにや笑いを浮かべていなかった。
「魔術師ってのは、どうかとは思うが……考えようによっちゃ手に職ってやつだ。旦那にする気になりゃ、収入は安定」
「おい、私はそんなこと」
「判ってるよ、安定のために結婚を求めたりはしない、とな。だが、いままでの半端なヤクザもんどもに比べたら、あれは相当の上玉だろうが。打算的な目線じゃなくてもいい。お前さんは奴を好いてるし、向こうはぞっこんだろ。いいじゃないか。結婚しまえよ。んで、ガキを産め」
「馬鹿か。そんなつもりはないし、人の勝手だろ。だいたいもう、産めるもんか」
「そうやって若くないふりをするのは、やめろよ」
店主は肩をすくめた。
「あのな。何度言えばいい。あんたら親父から見れば私は若いかもしれないが――」
「俺らから見りゃ若い。それで充分だ」
お前は、と呟くように年上の男は言った。
「まだ、何にでもなれる」
何にでも――?
それは、酷く甘い誘惑だった。
「年下の少年の花嫁」というようなことに限らない。生涯このままなのだろうかという漠然とした不安、それでもかまわないという思いも強がりではないつもりだが、もし、進む道の先に違う暮らしが待っているとしたら。
「なれないよ」
トイは、声に出さずに呟いた。
〈希望などは
「だいたいね、ガリーアン。あの子がそんなこと言い出すはず、ない」
「なら賭けようか?」
ガリーアンの口調に冗談めかしたところはなかった。だがトイはつまらない冗談だというように、ただ首を振った。
馬鹿げた話だと思った。ガリーアンは一度結婚している。理由は知らないが、何年か前にその奥方と別れた。つまり、家庭に幻想を抱く独身男とは違う訳だが、その分――まるで自分の代わりに幸せな結婚生活を送ってほしいとで思うのだろうか。
「そんなことにはならないよ」
トイははっきりと言った。
「万が一にもあの子がそんなことを言えば」
「断るか? 可哀相に」
「――別れる、よ」
呟いたトイはガリーアンが驚いた顔をするのを見ながら、瓏草に火をつけた。じじじ、とギーン煙葉が燃える音がする。
いつかは燃え尽きるものだと、トイは考えた。
瓏草も。恋も。
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