10 若さがあれば
それでもやっぱり、黒すけは黒すけだった。
彼女の部屋から協会に出かけ、夜には〈海の泡〉亭を訪れた。決して毎日ではなかったけれど、彼に可能な限りで店へやってきた。それから、彼女の仕事が終わるのを待って、家まで送った。「仕事をたくさん命じられた」日は、直接彼女の家に。
それでもやっぱり、トイには少年は黒猫だった。
少年の様子は、初めて女を知った男がまるで相手を女神のように思って離れたがらない、というのとは違う気がした。
いまは彼女の部屋を根城にしているけれど、それはただの気紛れで、ある日ふいっといなくなってしまう。そんな気持ちが抜けなかった。
少年のためにはそうである方がいい、という気持ちが抜けなかった。
「年下の魔法使いを恋人にしたんだって?」
店では、くる常連という常連に、問い質された。
「何だ、まだ知らなかったのか」
「もうずいぶん、経ってるんだぜ」
「深夜までいれば、噂の魔法使いが見られるよ」
魔術師などは不気味だ、というのが一般的な観念だったけれど、黒ローブを脱いでしまえば不吉な感じはしないものだ。黒すけはこんな酒場に似合わない知性的な少年という雰囲気だったから、ガリーアンは彼の日参を容認したし、客たちも厄除けの印を切ったりはしなかった。
日々は穏やかで、心地よかった。
彼が休みのときには一緒に市場へ行って買い物をしたり、〈海の泡〉亭以外の飯も楽しんだ。ガリーアンの料理も悪くはないが、いつもでは飽きる。
なかでも、店名に笑って入った〈猫の雨宿り〉亭は安くて味もよく、かなり通い込んだ。
黒すけは年齢に似合わぬ鷹揚さで、過去の男だとか、自分がいない昼間にトイがどうしているだとか、そんなことを気にしない。一度も尋ねてこない。もし例の理性で抑えているのなら大したものだが、そんな感じはしなかった。おそらく、そういう気質なのだ。
ただ、気になることがあった。
時折、しきりに瓏草を求めてくる。
好いたという感じでもない様子だったから、不思議だった。
「ほしいなら、かまわないけど」
珍しく互いの休日が重なった夕方、トイの部屋で彼女は黒すけに瓏草を一本渡す。
黒すけの休日には一緒に昼間の街を歩くというのが定番になっていたけれど、トイはそのとき、家でのんびりしたい気分だった。
黒すけはそう聞くと、それなら僕はいない方がいいですか、ときた。
落胆を隠そうとしながらも完全には隠せていない様子が演技であるなら、黒すけは一流の
彼女は、そんなこと言ってないよ、と返し、ふたりでのんびりしようじゃない、と家に落ち着いたのだ。こんな日もいい。
「酒と煙を教えた悪い女、なんて評価はあまり嬉しくないけれど」
「誰があなたを評価するんですか?」
面白そうに黒すけは言った。
「あんたの友だちとかさ」
「魔術師には、滅多に友人なんていないんですよ」
「そりゃまあ、協会に引きこもってばっかりじゃね」
酒場の給仕女のように交流はないだろう。
「でも、魔術師仲間はいるんじゃないの」
「話をすることはあります。でも、友人という感じでは」
「魔術師になる前は?」
「は」
「協会で生まれた訳でもないだろう。その前は、普通に親の世話になってたんじゃないの。近所の友だちとか、いただろう」
「協会に入る前も、友人はいませんでしたね」
さらりと猫は言った。気に病んでいるとか引け目に思っているとか、それとも逆に孤高を誇っているとか、そのどれでもないようだった。ただ、事実を言っただけ。
「ですから、〈海の泡〉はとても面白い」
「面白い?」
「みんなが僕を『トイの恋人』として扱います」
「ああ」
トイは苦笑した。
「嫌じゃないの。からかわれ通しで」
「ちっとも」
黒すけは肩をすくめたあとで、少し心配そうにトイを見た。
「トイは、嫌なんですか」
「嫌だと言うんじゃないけれど」
彼女は苦笑した。
「少しはね、気になるよ。若い男を騙してるなんて言われたら」
「誰がそんなことを言うんですか」
むっとしたように黒すけ。
「誰がって訳じゃなくて」
放っておくと「その相手に抗議に行く」だとか言い出しそうな気がして、トイは笑った。
「ただ、そう言われることもあるだろうってだけ」
「言われたら……気になりますか」
ふっと黒猫は心細そうな顔をした。何を考えているのか、何となく判った。「若さ」という彼自身ではどうしようもない事情のためにトイに振られるのではないかと心配しているのだ。
いったい、どうしてこんなに自分に懐いたものか、とトイは不思議にさえ思う。この場合、どう考えても、捨てられる心配をするのは年上の自分だろうに。
「気になるよ。私はけっこう気が小さいんだ。でも同時に、意思は持ってるつもり。人にどうこう言われれば気にはかかるけど、それのせいで自分の行動を変えたりはしないね」
「安心しました」
その顔がほころぶ。どうにも、素直だ。不意に小難しいことを言い出したりするのに、気取らない。
いや、他者の前では初めて会った頃のように無表情で、大人びた調子を崩さない。
どうしてか、黒すけはトイに心を許している。
それはやっぱり、トイにだけ喉を鳴らす猫を飼っている気分で――そんなことを言ったら拗ねさせてしまいそうだが、それが彼女の真実だった。
抱き抱かれ、年の離れた少年に愛情を覚えるけれど、例えば彼がほかの女と歩いているのを見ても、これまでの恋人に覚えたように、怒りや狂おしい嫉妬などは浮かばないのではないかと思う。
それどころか、ほっとするかもと。
言葉や行為こそ激しくないけれど、黒すけには彼女がもう失ってしまった若い情熱がある。まっすぐに彼女を愛してくる。
重いとか負担だとかは思わないのだけれど――それとも、少し、そう思うのだろうか。
もうちょっと若ければな、とそんなふうにも思った。少年の可愛らしい情熱に笑ってしまうことなく、幸せだと受け入れられるくらいの、若さがあれば。
「酒も、瓏草も」
ゆっくりと煙を吐き出しながら――咳き込むことはなくなったが、不味いものに耐えているという感じはあった――黒猫は呟いた。
「知らないよりは、知っておいた方がいいと思ったんです」
「そんなこと、ないだろう」
トイは肩をすくめた。
「酒は、まあ、多少は飲めた方が楽しいと思うけどさ、瓏草は別に必要ない。だいたい、こんなものは」
「悪徳で不健康?」
少年は女の言葉を先取り、笑った。
「それでも、あなたは愛飲している」
「気分転換だよ。こんなものに頼らないで済むなら、それでいいのさ」
「あなたは――どろどろしたものを見ないでいいように煙を吸うのだと言いました」
「そんな言い方もしたっけね」
黒すけがそれを覚えていたことに少し驚きながら、トイは言った。
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