09 勘違いだよ

 少年が、がたいのいい男をどうやって「連れていく」のだろうと思ったけれど、何のことはない、魔術師は魔術でそれを「片づけた」。

 黒すけ曰く、これは相手に意識がないからできることで、抵抗されれば高位の魔術師でない限り魔術で移動させるのは難しい、というようなことだった。しかしトイは魔術のことなど知らない。少年は実際、年齢の割に大した技を使っているのだが、それは彼女の理解の範疇外だった。

 小さな火鉢で湯を沸かしていると、やがて本当に少年は戻ってきた。

 戻ってこないんじゃないかと思っていた自分に気づいたトイは、期待をしないでおこうと考えていた自分にも気づいた。

「早かったね」

「引き渡しただけですから。それに」

 黒すけは苦笑した。

「協会内には、ローブがないと入れないんです」

「へえ」

 トイは笑った。先の借り物は丁寧に畳んで、小さな卓の上に置いておいた。もちろん、彼女自身の着替えも済ませてある。

「取りにくればよかったじゃない。……ああ、取りにきたのか」

 少し落胆を覚えた。だが少年は首を振る。

「今日はもうお役ご免です。明日には叱責くらい受けるかもしれませんが、これで協会の仕事を追われるようなことがあっても、僕はかまわない」

「そんなこと言うもんじゃないよ」

 茶瓶にカラン茶の葉を入れながら、トイは言った。

「仕事ってのは、大事だもの。まあ、若くて男なら、幾らでも職はあるかもしれないけれど」

「ときどき感じていたんですけど」

「何を?」

 トイは目線を上げた。少年はじっと彼女を見ている。

「あなたは、僕を子供だと思っていますか」

 そのまっすぐな問いかけに、彼女はどうしても笑ってしまった。

「子供じゃないか」

 そう言われたくないのだろうということは判ったけれど、つい、口から出てしまう。黒猫は案の定、少し傷ついた顔をした。

「それなら、どうすればあなたに認めてもらえますか」

「そんなのは教えてもらうことじゃないよ」

 意地悪かなとも思ったけれど、いつも生意気な口を利く彼がどんなふうに返してくるのか気になって、トイはわざと、子供を諭すような調子で言った。

「自分で学んでいくことさ」

 少年はどうやら、彼女を好いている。それもまた、よく判った。教えてあげると言って手を取るのは簡単だ。けれど、躊躇いがあった。

 何となく居心地の悪い沈黙が降りた。

「念のために」

 それを破ったのは黒すけの方だった。

「公正を期すために言いますと、導師ばかりが非道だというんじゃない」

「何だって?」

「『囮』のことです」

 ああ、とトイはうなずいた。自分はサリウェに罪を負わせるための生け贄だったという話。殺傷事件が起これば町憲兵隊も本腰を入れると。

「本当のことを言えば、僕もそれはよい手段だと思いました。ただし、あなたでなければ、です」

 黒猫は真剣な眼差しで言い――トイはぷっと笑ってしまった。

「……どうして、笑うんです」

「だって、『公正を期すために』なんて言い方がおかしくてさ」

「おかしいですか?」

「いや、何か間違ってると言うんじゃないけどね」

 トイはどうにか笑いを納めた。

 子供が背伸びをしているようでおかしかった、などと言えば少年はがっかりするに違いない。

「でもさ、思わなかったの?」

「何がですか」

「そんな話をして、私があんたのことを『非道な魔術師だ』と考えるとは」

「本当のことですから、仕方ありません」

 黒すけは肩をすくめた。

「それで、あなたはどう思うんです」

「助けてもらって、非道もないさね」

 トイは気軽に言った。

「有難う。助かったよ」

「僕は」

 少年は、まっすぐな礼の言葉に却って困ったかのようだった。

「あなたを守ると、言いましたから」

 そう告げた黒猫の、暗い色をした瞳ははっきりと彼女を捕らえた。

 あまりよくない、とトイは思った。

「印象的な出会いと、劇的な再会だったもんね。あんた、勘違いしてるんだ」

 それ以上の言葉を少年が言い出さない内にと、トイは続ける。

「こんな年上の、『夜の仕事』をしてる女じゃなくて、あんたに合う年頃の可愛い子を」

「それならどうして、いつもお茶を淹れてくれるんですか」

 あなたは、と少年はうつむいて続けた。

「一度も、もう部屋に入るなとか、早く帰れとか、そうしたことを言わなかった」

「それは、説明しただろ」

 トイはお湯を茶瓶に注いだ。

「猫が懐いてくれれば、嬉しいもんだから」

「僕は猫じゃありません」

 彼女にとってどうしても黒猫にしか見えない少年は、そう言った。

「トイ、あなたに恋をした、ひとりの男です」

「勘違いだよ」

 トイは首を振った。言い聞かせるように。そう、勘違い。――自分も。

「ねえ、黒すけ。私は」

 茶杯を探そうとして顔をあげた、そのすぐ前に、暗い色の瞳があった。

 避けなければと思った。でも、動けなかった。

 何とも不器用に、けれども優しく、唇が合わされた。

「――帰れと、言いますか」

「……言わないよ」

「『猫』には言わないと?」

「いいや」

 わずかに、女は息を吐いた。

「理性がそう言えと告げても、なかなか。惚れた男にはね」

 黒猫は喉を鳴らす勢いで、トイに抱きついた。

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