07 変化

 何だか、新しいおもちゃを手に入れた気分だった。

 黒すけは、時にはとても判りやすい反応をするし、時には予想と正反対の発言をする。これが同世代の男だったら、トイも違う意見に腹を立てたり怒鳴ったりがあったかもしれないが、十以上も年下の子供なのだと思うと何だかついつい許してしまった。

 それを狙っているような狡いところがあれば、判る。少なくともそのつもりだ。もしも自分の観察眼よりも黒猫の演技が達者であれば、それはそれで仕方がない。

 深夜に店を閉めたあと、毎晩、黒すけはトイを送った。

 黒すけごと盗賊ガーラに狙われる心配は、まずない。いくら体力的に問題のありそうな細身であっても、そこにまとうのは黒ローブだ。わざわざ魔術師を襲おうと考える阿呆は、いないものである。

「少し気になることがあります」

「何?」

「あなたの安全のためとは言え、こんなふうに僕が隣にいれば、あなたの悪評に繋がらないかと」

「悪評だって?」

 判らないとばかりに返しかけ、それからトイは気づいた。

「ああ、これのこと」

 トイは黒すけのローブをつまんで言った。

「別に私は、評判が落ちたって痛くもかゆくもないし」

 もともと落ちるほどの評判もないよ、とトイは笑った。

「でも、そうだね。魔術師がどうのというより、十代の少年に手を出したなんて噂が出るかもしれないね」

「手を」

 黒猫は目をしばたたいた。

「まあ、世間はそう見るってだけのことだけど」

 トイは大げさに周囲を見回した。

「『世間』はお休み中だし」

 誰も見ていなければ噂になりようがない、という訳である。

 深夜に男とふたりで街を歩き、それが恋人でないというのは何だか不思議な気分だった。トイはあまり意味のないお喋りを少ししたあと、黙ってその不思議な感覚を楽しむことにした。

 夜の静けさが、ひとりのときよりも強調されるような。

 等間隔で置かれている見慣れた街角灯が、いつもと異なる色合いを持っているような。

 傍らで足音もなく歩く少年が、本当に猫であるかのような。

「お疲れ」

 小さな集合住宅の入り口に帰り着くと、トイは黒すけを振り返った。

「また明日も、店にくるの?」

「ご迷惑ですか」

「言ったように、売上げが増えることに文句なんかないよ」

 ひらひらと手を振って、トイはもう一度、お疲れと言って踵を返した。

「――トイ」

 二階への狭い階段を上がろうとすると、か細い声が追いかけてきた。

「今日は、取り込む洗濯物はないんですか」

 招いてくれと言ったのか――と彼女は少し驚いて、それから笑うと「あるよ」と同じ嘘をついた。


 と言っても、ふたりがそのまま男女の関係になったということは、なかった。

 トイはやはり「年下趣味などない」と思っていたし、猫は猫でやっぱり猫めいていて、判りやすい欲望を見せることはしなかった。

 最初に出会った日と同じように、トイが茶を入れて、話の続きをちょっとして、茶を飲み終えると黒すけは帰った。

 何をしに上がってきたのだろうかとも少し思ったけれど、猫が気に入った場所を巡回することに理由づけをしても仕方ないかな、と考えることにした。

 そうした日が幾日か続いた。黒すけは〈海の泡〉亭にやってきて、仕事の終わったトイを送り、茶を飲んで帰る。トイも、引き止めたりはしなかった。

 変化は、五日後にあった。

 と言っても――黒猫がついに発情した訳ではない。

 むしろ、逆だ。

 と言っても、トイが少年を襲った訳でも、無論ない。

 猫は、深更になっても酒場にやってこなかったのだ。

「残念か?」

 少し茶化すようにガリーアンはにやっとした。夜道に人目はなくとも、当然ながら店内にはあったという訳だ。

「そうだね。ちょっとだけ」

「お」

「面白がるなよ。残念だって言うのは、野良猫が遊びにこなくなっちまった、みたいなもん」

 以前から考えていたことを呟き、トイは、もう少し生活費を切り詰めて、今度は本当に猫を飼おうか、と思った。

 後片付けがこんなに味気なく感じたのはいつ以来だったろう。

 しばらくは、何の感動もないままで日々の仕事を終えていたのに、ここ数日は黒すけが待っていると思うと、仕事を終わらせることが心楽しくなっていた。

 それがなくなったいま、無感動に戻ればそれはそれでいいのに、とても寂しく感じてしまう。何だか理不尽だ、とトイは思った。

 黙りがちになって店の掃除を終えると、ガリーアンがじっと彼女を見ていた。

「何?」

「元気、ないな。やっぱりあの若いのがこなかったからか」

「残念だ、とは言ったろ。正直な気持ちだよ。でも何か誤解をしているようなら、やめといてくれ。若い子に入れあげた挙げ句、振られたなんて」

 黒すけではないが、悪評甚だしいというものだ。

「何だ」

 ガリーアンは笑った。

「俺は単に、護衛がいなくなったら心細いんじゃないかと、そんな話をしようとしてたんだが」

 店の主人は、くっくっと嫌な笑い方をする。

「振られたのか」

「違う」

 ここで一緒に笑えば済むのに、トイは気づけば仏頂面で返していた。

「信者と神官みたいに、何もなかった」

「へえ」

 ガリーアンは却ってにやにやとした。

「信者の方は、神様への信仰を勘違いして神官に愛情を抱くこともあると言うがね」

 どっちが神官で信者かな、とガリーアンはからかうように言った。

「おい」

 抗議の色をはっきりと示せば店の主人は謝罪の仕草をしたが、にやにや笑いは治まらなかった。

「今日は俺が送ってやろうか」

「何だって?」

「俺だって、うちの看板娘に何かあったら困るんだ」

、はやめてくれ」

 げんなりと言えば、ガリーアンはやはり笑った。

 店主が彼女に下心など持っていないことは黒猫以上だが、トイはガリーアンの申し出を断った。ここで頼んでしまうと、いつまでも頼まなければならなくなってしまうような気がする。サリウェが協会に捕まった――と言っても、町憲兵のように逮捕をする訳ではないだろうが――のかどうか、黒すけは何も言わなかった。捕まったのなら護衛の必要はなくなるけれど、と思って、はたと気づいた。

 ひとつには、協会が無資格の護符売りを捕まえてどのような処置をするとしても、まさか死刑にはしないだろうから、そうなればサリウェは捕まって何らかの処分を受けたあとで解放されるのだということ。

 ふたつには、黒すけはそれに気づいているはずなのに、何も言わなかったこと。

 だが、それをして少年が「不誠実だ」ということになるのか、「彼女を不安にさせまいとしたのだ」ということになるのか、トイにはよく判らなかった。

 ただ、判ったことがある。

 トイはもしかしたら、黒すけに護衛を「いつまでも頼まなければ」ならなかったのかもしれなかった。

 けれど、黒猫は訪問を取りやめた。

 今日だけ、何か事情があったのかと考えることもできる。

 でもトイはそう考えることはしなかった。

 それはまるで、失った恋を認められない小娘のようだったから。

 ひとりで歩く深夜の街は、昨日と違う感じがした。傍らに、大人びた発言をする生意気な黒すけのいないことが、何だかとても物足りなかった。

 いつもよりも長く感じた数ティムの道のりを終え、部屋の扉を開けながら、トイはため息が洩れたのに気づいた。

 次には、自嘲めいた笑いが浮かぶ。

 これでは本当に、振られたかのようだ。

 そのとき、背後で物音がした。

「――黒す」

 少年が待っていたのか、と思ってしまったのは、何故だったのだろう。

 振り返ろうとしたトイは、次の瞬間、バシンという音と熱くなった頬と、崩れ落ちた自分が石の床にはいつくばっているのを知った。

「この……クソアマ」

「……サリウェ」

 闇から現れた姿に甘酸っぱい思いは凍りつき、恐怖が背筋を走った。

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