06 気紛れをやっているのは

 しばらく黒すけは、言った通りのことをしていた。

 「身辺を見る」という行動だ。

 姿は見えなかったからトイには「おそらく」と言うことしかできなかったけれど、あとで本人がそう告白してきたのだから、そうだったのだろう。

 見えるところではまず、翌夜に彼はひとりで店に顔を出した。ガリーアンは少し嫌な顔をしたが、黒ローブを着ていなければ客のひとりと考えることにしたらしく、追い出そうとはしなかった。

 それに、猫は実におとなしくもしていた。

 何かあの日の騒動に触れたり、ほかの客の迷惑にでもなるようなら、ガリーアンは喜んで少年を放り出しただろう。或いは、トイの邪魔をするようでも。

 だが、静かだった。ほかの客はもとより、トイやガリーアンでさえも魔術師がいるこを忘れそうなほどだった。

 深更を回って、明らかにトイが暇になったところではじめて、黒すけは自分がいることを彼女に思い出させようとした。

「忙しいのですね」

「まあね」

 ライファム酒を注ぎながら、トイは返事をした。

「まだ、お仕事中では?」

「そうだけど?」

「お酒を飲んでもいいんですか」

「ライファムなんか、酒じゃないよ」

 軽く返せば、黒猫は知ったような顔でうなずいていた。

「あんたは酒は飲まないの?」

「あまり、機会がありませんでしたから」

「じゃあこれを機会にすれば」

 トイは酒瓶を手にしかけ、ああ、と言った。

「そっちこそ、仕事中って訳か」

「いえ」

 少年は首を振った。

「これは、僕が勝手にやっていることなんです」

「勝手に?」

はいアレイス導師セラスは報復の可能性を考え、数日ほどあなたの帰りを護衛して様子を見るようにと。深夜帯は危険ですから」

「じゃ、店のなかまで居座ってる理由は?」

「ひとつは、申し上げました通り。単純に、僕があなたを心配しています」

「ほかにも、あるの」

「ええ。これも申し上げたんですが」

 黒猫はそう言ってからまた首を振った。

「いえ、きちんとは言わなかったんでした。僕が昨日の逮捕劇に参加したのは、必ずしも導師の命令じゃないんです。僕は修行中の身ですから、もちろん命じられれば従うんですが、昨夜は命令ではなく提案という段階で」

「ふうん」

 トイは曖昧に首を傾げた。

「魔術師も神官みたく、『修行』なんてするんだ」

「ええ、まあ」

 黒猫も曖昧に返した。

「夜も遅い仕事でしたし、術の行使を伴う事例には、本当はもう少し慣れた術師がつきます。でも、僕がぜひにとお願いしたんです」

「何で」

「ですから」

 黒すけはあくまでも真顔だった。

「あなたに会えるような気がしたので」

「は」

 思わず、トイは笑ってしまった。十代の小娘であればこのような台詞に顔を赤らめることもあろう。或いは、年上のいい男から言われれば、トイも少しこそばゆいような気持ちになるかもしれない。

 だが、子供。

 いや、に甘いことを言われても。

「ご迷惑でしたか」

「別に」

 トイは笑った。

「売り上げが増えることに文句なんかないし」

「よかった」

 黒猫は笑んだ。トイは適当な言葉を返して、瓏草カァジを手にした。黒すけが彼女の手元を見ている。

「ああ、幻想を砕いたなら、悪かったね」

「何ですって?」

「『女が煙を吸うなんて』」

「ああ」

 意味が判ったというように彼はうなずく。

「そういうつもりではなく」

 くすりと笑ってしまった。いったいこの猫はどれだけ「つもりではなかった」を繰り返すのだろう!

「吸ったことがないもので」

「成程ね」

 トイはやはり悪戯心を刺激されて、一本を少年に差し出した。

「やってみる?」

 黒猫は思いがけないことを言われたと思うのか、暗い色の目を見開いてトイを見た。トイはすぐに紙巻を引っ込める。

「まあ、身体にいいもんじゃないし。やらないに越したことは」

「それなら、どうして吸うんですか」

 口調に咎めるような様子はなかった。ただ、疑問に思ったようだ。

「落ち着くから」

「落ち着く」

「あんたには要らないかな。落ち着いてるもんね」

「あなただって、そう見えますけれど」

「内心はどろどろだよ。それを隠すんだ。他人に対してじゃない、自分にね」

 何となく自嘲気味に言った。黒猫は少し黙ったあと、トイの指に手を伸ばした。

「ください」

「やめときな。さっきのは冗談」

 からかっただけ、と言えば黒猫は彼女の前ではじめて、若者らしい様子を見せた。むっとしたような――負けん気を見せたのだ。

 ぱっとトイの手からその一本を奪うと、たどたどしい手つきで口にくわえ、燭台に顔を近づけた。トイはとめようかどうしようかと思ったけれど、未成年でもないのだし、経験するのも悪いことじゃないだろうと好きにさせた。

 黒猫は、初めて煙を吸う人が十割方そうであるように、のどに入り込んだ自然でない成分に酷くむせた。

「残りは引き受けようか?」

 気を使ってトイは言ったが、黒すけは首を振った。案外と意地っ張りカンドロールなのかな、とトイは面白そうにそれを見た。

「最初はみんなそうだよ。わざわざ異物を吸い込んでるんだから、身体はそれに抵抗して当たり前。そこで『馬鹿らしい』と思ってやめるのが賢いと思うんだけど、何となく続けちゃう馬鹿が、けっこう世の中にはいる」

 トイは自分用にもう一本を取り出すと、こちらはもちろん慣れて、煙を吸い込んだ。少年は、短くならないそれを指の間に挟みながら、トイの様子を見守る。

「隠れましたか」

「何だって?」

「『どろどろしたもの』」

「ああ」

 トイは苦笑する。

「どうかな」

 少年が二口目を吸えずにいる間に、トイのカァジは短くなっていった。彼女は、負けん気を刺激しないように気をつけながら、無理することはないよ、と言ってやった。

「トイ、三番卓に酒の追加だ」

「了解」

 ガリーアンの言葉にトイは火を消し、すっと仕事に戻った。こういうときも、別に黒すけは話を長引かせない。決して仕事の邪魔はしないのだ。若いのにその辺りの線引きができる大した理性を持っているものだと思う一方、もう少し自分を出してもいいんじゃないかと思い――先の意地っ張りは、もしかしたら、彼にしては珍しい自己主張だったのかな、とも思った。

 黒猫は明らかにトイに興味を持っていたが、年若い少年が年上の女性に憧れを抱くという感じとも違った。勘違いした崇拝やら、欲望を伴う熱の入ったまなざしやら、そうしたものはないのだ。

 それはまるで、猫が捕食の目的でなく、動いているものに本能的に目を奪われ、じゃれつこうかどうしようか迷っているに似た。

 いまはだいぶ暇な時間だが、忙しいときの自分はまるで独楽鼠のようにくるくると回っている自覚がある。さぞや猫には面白かっただろう、などとも思った。

 給仕をやめて戻ってくると、黒すけの指から瓏草は消えていた。一リア、魔術で消したのだろうかなどと馬鹿げたことが思い浮かんだが、無論そのようなことはなかった。卓上の灰皿にはトイの先ほどの一本の横に、きれいに並べるようにしてもう一本の吸い滓が追加されていた。

「ガリーアン、香り水ラッケをもらうよ」

 トイが言いながら白い杯に注いだのは、香草を漬け込んださわやかな香りのする水だ。彼女はそれをそのまま少年に差し出す。

「口んなか、気持ち悪いだろ」

 飲みなよ、と促せば、少年は気遣われているのかからかわれているのか見定めるように、トイを眺める。その頭の中でどういった判断がなされたのかは判らなかったが、表面的にでも本音でも、黒すけは礼を言ってすっきりとしたラッケ水を飲んだ。

 トイは少年の細い喉が動くのを何となく見つめながら、気紛れをやっているのは自分なのか、それとも黒すけの方なのか、どっちだろう、と考えた。

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