04 曖昧な心

 それから、黒すけは茶を飲み、当たり障りのない世間話をして、雨が小やみになると礼を言って帰った。

 トイは茶杯を片づけながら、何だか残念に思っていた。

 断じて年下趣味などないのだけれど、もう少し何でもない話を続けたり、それとももう少し彼女や自分自身について話したり、そうしたことにならなかったのが物足りない気持ちだった。

 猫に気紛れで餌をやったけれど、喉を鳴らしもせずに出て行かれてしまった、そんな感じだろうか。

 でも、すぐに忘れるだろうと思っていた。

 たぶん、忘れてしまっただろう。

 もし、それから数日の内に再会をしなければ。

 トイの仕事場は、小さな酒場だ。〈海の娘アリシア通り〉から少し入った路地裏にある、少し暗い店。

 暗いと言うのは、日の当たらないという意味ではない。当たらないかもしれないが、営業時間は夜だけだから、陽射しが差し込もうと差し込むまいと関係がない。

 雰囲気が暗いと言うのでもない。店主のガリーアンは陽気な大男で、常連客も酒が入れば下らない話に興じ、深夜になっても笑いが絶えない店だ。

 だが、暗いところもある。

 狭い店の片隅では、毎晩のように非合法な薬が売り買いされたり、娼館に属さない春女がこっそりと客を捜しにやってきたりする。つまり、治安が少々悪い、ということだ。

 トイは主に、給仕役をしていた。頼まれれば時折、客の隣で酒を作ったりもする。金で身体を売ることはないが、仲がよくなれば客とも寝る。ただ、そういった〈暁星ロウィルの結びつき〉は彼女の自由意志で、勘違いをした客が彼女に春女の仕事を強要すれば、ガリーアンはそれを叩き出した。

 危ないところもあるが、よい職場だ。

 給金は決してよくないけれど、日々が食えれば充分だ。トイはこの〈海の泡〉亭が気に入っていた。

 その夜、客足が落ち着いて注文もひと通り出揃うと、トイはいつものように休憩に入った。長台のいちばん奥に腰掛け、ガリーアンの作った賄い飯を食い、片づけの手順について考えていた。閉店まではまだ時間があるが、そろそろ新しい客はやってこない時間帯である。

 食事を終えると、瓏草カァジを取り出した。

 昼間の世界では、女の喫煙は不道徳のように言われることもある。

 だが〈海の泡〉亭では誰も気にしない。店主からして、相当の「煙吸い」だ。

 ゆっくりと煙をくゆらせていると、落ち着いた気分になる。たゆたう煙を目前にしていると、何だか夢を見ているような気持ちになれた。

 変わらぬ日常。

 安定しているが、変化のない日々。

 それに飽きることができるほどは、生活に余裕がない。結婚をしていない女によくあるように、トイもときどき、自分はこのまま独りで生涯を送るのだろうかと考えることがあった。

 それが嫌だと言うのではない。彼女に言い寄ってきた男のなかには一緒になってくれと言ってきた者もいるが、トイは断ったのだ。

 相手を好かなかったというのではない。ただ、誰かのものになるような生活はご免だと思った。

 そこに愛があれば、そのような気持ちは抱かないのだろうか、などと考えたこともある。トイはもしかしたら、自分が誰かを愛したことなどないのかもしれない、と思っていた。

 恋なら幾度もした。

 誰もがそうであるように、恋人しか見えなくて浮かれたり、ほかの女がいるのではと疑心暗鬼になったり、ささいなことで喧嘩をしたり、別れれば幾日も泣いたり、そんなふうにしてきたけれど、愛し合ったと思った誰とも「生涯を共にしたい」と感じたことはないような気がしていた。

 これからも、寂しくなれば恋人を作るだろう。

 けれど、この感覚が改まることはないだろう。

 漠然とした将来への不安を打ち消すために、そのときの恋人を夫にする、それは何だか悔しいようで――そんな話をすれば、まだ若いのだと笑われた。

 彼女自身には、もう、若いという気持ちはなかった。

 四十五十の男たちから見れば彼女はいまだに若い女だったけれど、そう言われることにはどうにも抵抗があった。

 それもまた、「若いのだ」ということになったかもしれないが、気持ちばかり若くても身体の方が追いつかない、と思った。

 ひとりでくゆらす白い煙は、そんな曖昧な心を全部夢に変えてしまう。

 夢。

 残らないもの。

 少しふわっとした頭で、トイは次の瓏草を手にした。

 そのときだった。

 カラン、と入り口の扉についている鐘が鳴った。

 反射的に「いらっしゃい」と言って、彼女は戸口を振り向く。

 そこで、どきりとした。

 「夜」が入り込んできたのかと思った。

「何の用だ」

 すぐに声を出したのは、ガリーアンだった。

「うちは魔術師リートになんざ、用はない。出てってくれ。どうしても入りたいなら、そいつを脱いでくるんだな」

 そこにいたのは夜の女神ナーネミア・ルーの使者ではなく、ふたり組の黒ローブだった。

 ふたりの魔術師は、ガリーアンの言葉を露とも気にせぬように、店内に入ってきた。ガリーアンはむっとした様子で彼らの方へ向かう。だが彼らは、店主を待ってはいなかった。

 いや、彼らよりも先に動いた人間がいる。

 がたん、と椅子を蹴り倒して立ち上がり、ひとりの客が〈尻を蹴られたケルクのごとく〉走り出した。黒ローブの片方がぱっと手を振る。と、客はみっともなくすっ転んだ。

「縛れ」

 手を振った方の魔術師が、もうひとりの魔術師に言った。言われた方はうなずき、だが、「縛る」という言葉から通常で考えられるように縄などを取り出したりはせず、小さな棒を杖にしてそれを振った。倒れた男は、うぐう、というような声を出して身体をじたばたさせたが、立ち上がることはおろか、足を動かすこともできないようだった。

「よし」

 命じた魔術師はうなずくと店内を見回すようにしてから、ガリーアンに一礼した。

「な……何なんだ、いったい!」

 魔術などは、見慣れないものだ。怖ろしいと、思ってしまうもの。ガリーアンは、魔術師を掴みだしてやろうという気迫を完全に削がれた声で叫んだ。

「この男は魔術の護符を売っていた。力のない偽物であれば、それは詐欺だが、協会ではかまわない。だがそうではなく、本当に魔力を持つものを闇に売りさばいていたのだ。これは、放っておけぬ事項となる」

 陰気な声音で魔術師は言った。ガリーアンはうーとかあーとか唸るだけで、それに何も返せなかった。

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