03 猫に見えた
三十を越したトイに、年下趣味はなかった。
これまでに作った恋人は同年代か年上で、店に来る若いのと飲んだり、向こうが若さに任せて彼女を抱きたがればつき合ったりするけれど、恋愛感情を抱いたことはなかった。
だから、黒猫を家に誘ったのも、別に下心があってではない。
これが「定めの鎖」とやらで彼の「役割」なら、雨が本格的になる前に洗濯物を取り込むのを手伝ってくれ、と冗談半分で言っただけだ。
黒猫は笑って、判りましたと答えた。
あまりにあっさり乗ってきたので、向こうにこそ下心が湧いたのかとも思った。トイの身体つきは決して豊満ではないが均整は取れていて、好んで着るぴったりとした衣服は、男にずいぶんと彼女を色っぽく見せるらしい。
それならそれでもいいか、とも思った。聞くところによると魔術師という連中は異性に興味を持たないらしいが、それはもしかしたらある程度以上年齢の行った場合によるもので、彼のような若者は魔力を持たない若者と同じように、女に興味があるのかもしれない。
とは言え、知性的に見える様子からは、十代の若者にありがちなぎらついた欲望は見て取れなかった。魔術師という職業柄、少年が奥手であることも考えられるな、などとトイは思い、どう出るのか見てやろう、という悪戯心も少し抱いた。
そんなふうに考えるということは、このときに既に惹かれていたのかもしれない。
だが、彼女がそう思うようになるのはまだ先だった。
「洗濯物は、どこです」
「あんなの冗談に決まってるじゃない」
そう返すと少年は目をぱちぱちとさせた。本当に洗濯物を取り込む手伝いにきたつもりだったのか、と思うとトイはおかしくなって笑った。
「心配しなくても、取って食うつもりなんかないよ。はい」
引き出しから手布を取り出して差し出す。少年はきょとんとしていた。
「髪くらい、拭いたら。魔術師だって、風邪を引くだろう」
「ああ」
意図が判ったというように、少年はうなずいて顔と髪を拭いはじめた。それは
「冷えないように、お茶でも淹れるよ。ローブも脱いで、ほら、そこの窓の外で絞って、枠にかけときな」
「でも、雨がきますよ」
ゴロゴロという音は、次第に近くなっていた。先の場所からここまではすぐだったが、空はもう、すっかり暗くなっていた。北の海に近いこの街では、珍しいことではない。
「ああ、そうだったね。じゃ、こっちだ」
トイは手近な椅子の背を叩いた。少年はうなずき、言われた通りにする。
「何か拭くものはありませんか」
「布を渡したじゃないの」
「そうではなく。床を濡らしてしまったようなので」
「ほっとけば乾くよ。どうしても拭きたければ、それで拭けば」
顔と床を同じ布で拭くのは悪い、と言う訳だろうが、いちいち雑巾用の布きれなど用意していない。トイの言葉に少年は驚いたようだった。無神経な女だ、とでも思っただろうか。別に、かまわないが。
「察するに、セルは」
「トイ」
一般的な敬称を使って呼びかけた黒すけに、トイは名乗った。
「トイは、魔術師を忌まわしく思っていないようですね」
「魔術師だって人間だろ。いや」
彼女は笑った。
「本当のことを言うとね、私はあんたが猫に見えた」
「猫」
「
「黒すけ」
繰り返した様子に腹を立てたところはなく、彼女の言葉を面白く思っている感じだった。
「そう、黒すけ」
トイもまた繰り返した。
「猫は魔性なんて言うことだし、もしかしたら人間にくらい、化けるかもね」
これも冗談半分だが、黒すけは真顔で考えるようにした。
「有り得ます」
その返答にトイはやはり笑い、黒猫は、では、と続けた。
「僕が魔法を使っても、かまわないですね」
「家を燃やしたりしなけりゃね」
「気をつけます」
やはり真顔でそう応じると、少年は何か小さな棒のようなものを取り出した。手を不思議な形に動かしながらぶつぶつと口のなかで言っていると思うと、長さ十ファインほどだった棒は一
トイが目をぱちくりとさせている間に、少年は杖をかまえて先とは違う仕草をし、また何かを唱える。と、湿った床がしゅうっと音を立て、煙を立てる。次の瞬間には、水たまりも、木材にしみこんだ水気も、立った煙も、消えてしまった。
「……暑くなったような気がするけれど」
「水には火、というのは単純な考えですけれど、真理なんです」
「火だって」
トイは瞬きをした。
「じゃ、あんたはやっぱり、うちを燃やそうとした訳」
「燃やすことが目的ではありませんが、一歩間違えれば有り得ました。だから、『気をつけます』と」
淡々と語る黒すけには、冗談を言っている風情はない。トイは危ない真似をしたと怒ったりするよりも、ますますおかしくなった。
「それなら次は風でも起こしてよ。ただでさえ暑いところなのに、火なんかを放たれたら余計にむわっとくるじゃないの」
「済みませんでした」
黒すけは謝罪の仕草をした。
「でも、僕が起こさなくても、
「
そう言ってトイが窓の外を見たとき、ちょうど大粒の雨が降り出したところだった。
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