第二部 第四章 渭南県鄭城・南岳衡山・二仙山(二)

「……ってなことがあってよ。ていの町は大騒ぎだと。もう何百人食い殺されたかわからねぇと」

「なんでぇだらしねぇな道士さまもよぉ。化け物退治が仕事だろうに。じれってぇなどうも」

「いや、それはちと酷だろ。渭南の衛兵もみんなやられちまったっていうぜ」

「だったら道士でも兵隊でもどんどん送り込んでやっつけりゃいいのによ。当てにならねえな役人も兵隊もよぉ。」


「全くだ。そんな化け物が出てくるってこたあ、この国も長くはねぇなあ。今のおかみになってからこのかた、ろくなことがありゃしねぇ。変わってくんねえかな」

「おう、それより俺たちも武器を買っておいた方が良くねぇか? 兵隊は当てにならねえし、自衛しねえと」

「いや、それがよ。どこの武器屋にも鍛冶屋にも、槍だろうが剣だろうが全部売り切れちまってるらしいぜ。竹槍でも作るか? 」

 

 文字通り千里(500km)以上離れたここ国都東京開封府の町中にまで、檮杌の噂は広まり、口さがない庶民の間でどんどん盛られ、さらには朝廷批判、政府批判、軍隊批判へとつながっていった。


 その裏では、例の元天長観道士たちの命を受けた、工作員たちによる情報操作デマゴーグが行われていた。いつの間にか話は大きくふくらみ、「渭南県の住民は皆食い殺されて無人状態」だの「県の兵隊は全滅」だの「役人が住民を捨てて真っ先に逃げ出した」だの、あることないことが次々広まり、同時に政情不安も強まっていった。


 もちろん禁裏にも、諜報機関たる皇城司こうじょうしから、鄭を荒らす檮杌と、封印に向かった龍虎山道士の敗北についての情報は入っていた。あわせて市井に広まる噂や朝廷批判の声も伝わっていた。


 古来より中国では、善政がしかれれば麒麟などの聖獣が現れるし、悪政ならば魔物悪霊が跋扈ばっこするとされている。ましてや古来よりずっと現れなかった「四凶」が今現れたということは、とりもなおさず今上皇帝に「徳がない」ということになるのだ。


 ただでさえ梁山泊の力を借りてまで、やっと田虎や方臘の反乱を抑え込んだばかりである。このうえそんな魔物を放置していてはますます朝廷の権威が下がり、別の反乱が起こりかねない。ゆえにここは威信にかけても、檮杌を押さえ込まねばならない。


 知らせを受けた時の皇城司長官、徐苞じょほうは、蔡京の息子である宰相末席の蔡攸さいゆうに相談のうえ、各方面に指令を出した。


 まずは渭南県の東、約六百里(300km)離れた宋国四京のひとつ西京河南府さいけいかなんふ(旧洛陽あたり)内の兵士五十人に動員をかけた。


 もうひとつは龍虎山。張継先に次ぐ実力者である王道堅が破れた以上、天師直々の出馬を乞うしかない。とはいえ、今上皇帝徽宗の覚えめでたい張天師である。こちらは勅命を出さざるを得ない。蔡攸を通じて勅令をいただき、龍虎山へ急使を送った。 


 ただし、勅令をいただいたとはいえ、徽宗が明確に事態を把握していたわけではない。中国においては、昔も今も都合の悪い内容は最高統治者にきちんと伝わらないものである。


 徽宗には「少々厄介な妖物が現れまして、張天師直々でないと退治が難しいかと。いえいえ、お上が悩まれるほどのものではございません。どうかお任せください」などとしか伝わらないし、徽宗にしても「左様か、良きに計らえ」と鷹揚なものである。


 この徽宗の無責任さが、後に宋国に大いなる悲劇をもたらすことになろうとは、この段階では知るべくもないことではあるが。


 龍虎山では既に、縮地法を使って戻ってきた王道堅から子細を聞き取った張継先が、亡くなった弟子たちの慰霊の祭を執りおこなっていた。


 行方知れず十六人、おそらく檮杌に食われてしまったのだろう、再度城隍神廟の偵察に行ったときには、識別できるような死体は残っておらず、あちらこちらに食い散らかされた骨と大きな血溜まりがあるばかり。


 五体満足なのは王道堅のみで、命のあった四人も、ある者は片腕を失い、ある者は顔面の皮を剥がれ、ほぼ再起不能になってしまった。いずれも術士としては中堅以上の道士たちである。龍虎山の重要な戦力が一挙に、そして大量に削がれてしまった。


(やはり最初から私がいくべきであったか……)

 張天師としては痛恨の極みである。とはいえ、近々羽化登仙したいという気持ちが日に日につのる身としては、自分がいなくても弟子たちだけでやっていける見通しをつけたかったのも確かなのだ。


 黄袍こうほうに身を包み、長い線香を林のように立て、金紙銀紙の紙銭を次々に焚き上げながら、張天師は一心に弟子たちの供養をおこなった。


 と同時に、

(千年以上誰も手をつけなかった五岳の封印を、わざわざ破って四凶を解き放とうと企てたのはいったいどこのどいつなのだろう)

 と訝しがっていた。


(いまごろそいつがどこかで、うまくいったわいとほくそ笑んでいるかと思うと虫唾が走るわ)

 普段温厚で知られる張天師のこめかみに、知らず知らず青筋が立っていた。ちょうどその頃。

 


 (うまくいったわい)

 長江と漢江の交わるところ、鄂州がくしゅう武昌ぶしょう(今の武漢)の街中、とある大店おおだなの一室に、元天長観の道士たちがずらりと並んで立っている。その後ろには趙壮ちょうそうを先頭に、戦袍と甲冑に身を包んだ偉丈夫たち。


 彼らの眼前、一段高くなった台上の椅子に腰掛けた、大人たいじん風に黒絹の服を着込んだ男が、渭南県の様子と東亰開封府の噂を聞きそっとほくそ笑んだ。


 男の名は黄熊こうゆうという。

 密かに「疣関公ようかんこう」と綽名あだなされる大商人である。


 年の頃なら六十くらいか。脂ぎった赤ら顔のあちこちにいぼがあり、細めた目は油断なく光り、腹まで届くほどの長い顎髭を蓄えた様は、綽名の通り関帝(三国志の関羽を神として祀ったもの)もかくや、と思わせる迫力がある。


 身の丈六尺あまり。みっしりとした肉付きで、例えるならば分厚い筋肉の上に均等に肉が付いた、力士のごとき威風堂々とした体格の持ち主だ。。


 元々は、細々と燕京で武具馬具を取り扱う、小さな鍛冶屋兼商店の跡取りだった。


 燕京のみならず燕雲十六州は、遼国にとられ、金国に取り返され、近年やっと宋国に返還されるという、めまぐるしくそのあるじを変えた地域である。


 黄熊はその混乱の中、遼軍にも金軍にも、そして宋軍にも言葉巧みに入り込んだ。そしてうち続く戦乱の中、武器も馬具も飛ぶように売れ、さらに食料や闇塩をも商うようになり、ここ何十年かのうちに戦太いくさぶとりで一代の財をなした。


 有り余る財力と伝手つてを活かし、自前で私兵を雇って鏢局ひょうきょく(護衛集団)も立ち上げている。その鏢局で一番の腕利きが、西岳崋山で大暴れした趙壮ちょうそうである。 


 礼山道人らが燕京で路頭に迷っていたところを救い、宋軍に恨みを持つ彼らを、自分に忠誠を誓う手下にした。

 

 金軍のネメガ将軍に渡りをつけ、四凶の魔物の封印を解かせるよう働きかけたのも彼である。


 戦乱、混乱が続くほど、武器も甲冑も売れる。田虎や方臘らの乱も、黄熊にとってはまさに「書き入れ時」だった。黄熊のような武器商人にとって、最も忌むべきは「平和」な世の中なのである。


 現在本拠を置いているこの武昌で製造している武器防具馬具の類いは、宋国禁軍の御用達であるが、本拠のあった燕京でも引き続き製造していて、これらは金軍へ流されている。戦乱が続く限り、黄熊の金蔵かねぐらは潤い続けることになるわけだ。


「南岳衡山の饕餮とうてつの解放には、いつ取りかかりましょうか」

 礼山道人の問いかけに、黄熊の分厚い唇が薄く開いた。

「そうさなあ」

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