空の贈り物
おおまろ
第1話 斉信と則光、祈祷を求めて冬の比叡山へ
今は昔、一条天皇の御世にイケメン蔵人頭がおりました。
帝の信任も篤い彼の名は藤原斉信。今日は帝の御使いで、比叡山のえらいお坊さまの所までお出かけです。帝の持病である神経性胃炎がひどくなったため、ここのえらいお坊さまに祈祷を頼みに来たのです。
気の毒なことに、この帝は慢性の胃痛持ちであられ、その原因というのはご自分の体質からくるものではなく、ある関白候補二人の確執と、教育ママゴンの政治への過剰介入という精神的ストレスから来ているものなのでした。
互いに反目しあう政界ツートップと、「道長を関白にしなさい」と叫びながらどこまでも追いかけてくる母上の精神的しめつけが頂点に達すると、帝は夜の御座から出ることすらできないくらいみぞおちが痛み出すのです。みぞおちを押さえて苦しみにじっと耐えている御姿を見ることは、昼夜おそばに控えている蔵人頭にとってはたいへん胸の痛む光景でした。ですから、時々こうして非公式に比叡山を訪れては、祈祷をお願いしているのでした。
一年で一番寒い時期をようやく越したとはいえ、山へ上がるのはなかなかつらいものがありましたが、内裏での仕事をもう一人の頭である行成に任せ、お供に六位蔵人の橘則光を従えて馬での訪問です。
はだら雪があちこちに残る中、斉信の着ている黒い袍(ほう)がカラスの濡れた羽のように艶やかに輝き、本人は地味にまとめたつもりでも豪華な浮き文が鮮やかに浮かび上がり、たいそうゴージャスです。けれども、それを見ている人と言えば、無骨で和歌ひとつ詠むのもいやがる橘則光だけ。訪問先も僧だらけの寺とあっては、あつらえたばかりのこの衣装もしのび泣くというものでしょう。
寒いですが、京の町なかとはまた違った深山の雪景色が心を浮き浮きさせてくれます。
人が通る道だということを示す木の杭の上には丸く冠雪が積もり、まるで人がかぶる烏帽子のよう。木の枝から落ちた雪が新雪の斜面を転がって、ちょうど轍(わだち)を残しながら牛車の車輪がいくつも並んでいるようです。目をみはるような見事な風景に気を取られて、斉信は自然と馬の足取りが遅くなってしまうのでした。
「頭中将どの、道草を喰っていては、僧庵に到着するのが夕方になってしまいます。山は昼を過ぎれば急に気温が下がってきますゆえ、どうかお急ぎ下さい」
則光の催促にうわの空になるのも無理はありません。からりと明るい陽射しが山中に満ち、雪に覆われた山道のうねが光を反射してキラキラと輝き、まるで、雪の欠片がえくぼを見せて笑っているかのようです。町なかでは決して見ることのできない雪景色を見ているうちに、斉信は唐の書物に出てくる『六花』という言葉を思い出しました。
『およそ草木の花は五弁であるが、雪花だけは六弁である』
…けどさ、雪片のひとつひとつを目を凝らして見つめても、ちっとも花びらには見えないんだけどな。
ざっくりと雪をかいて手のひらに乗せても、雪のかたまりは手に触れたところからキラキラと融けていくばかり。杉の葉にふっくらとかかった雪のひとかけらをじっと見つめても、ちぎれたような綿のような欠片からは、花びららしきものは何もわかりません。
かの国の雪と京の雪は違うのかな、ここに公任が居れば何か意見の一つも聞けようが、相手が芸術オンチの則光ではな…
とため息をつきながら馬を進めていくと、ふいに冷たい突風が吹きぬけ、斉信の手に持っていた馬用のムチが飛ばされてしまいました。
二人はあわててムチの飛んでいった方向に走ってゆくと、ふいに視界が開け、そこには小さな泉がありました。
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