イザベルの物語 第4話

八百六十七年六月二十四日




 「他にも研究所があるというのは本当ですか」

 「まさか、それを確認したくてこんな夜中に私を呼び出したのか」


 第三統領であるネルソンの個人邸宅での会話だった。

 イザベルがカレンと協議して、

 最近建てたばかりの工学研究所に関連した話をしていた時だった。


 負傷者の治療という公益的な目的で建てられた研究所は、

 レス・ディマスとカレンの工学技術と兵器に対する情報を

 共有しようという目的もあった。


 しかし……

 研究所の人員配置もおかしかったし、何より謎めいたところがあまりに多かった。


 「まさか、人体実験のようなことをしているのではないですよね」

 「さあ。何も言うことはできない。もしそうだと言ったらどうするんだ」


 「どうか…...そんな非人道的なことはするなと言ってください」

 「なんだ。この陳腐な会話は。奴隷を売り買いしているレス・ディマス人の言うセリフじゃないじゃないか」

 「それは旧時代の産物です、いまではほとんどなくなったことですし」

 「いまは資本で奴隷と主人が分かれているからなくなりつつあるんだろう」

 「人体実験は文明を退行させるものです」


 イザベルはワインがなみなみと注がれたグラスを一気に空けて鼻で笑った。


 「退行? 何をわけのわからないことを! 人体実験が成功すれば文明の大発展だろ!」


 そして、上を見ながら付け加える言葉を選んでいた。


 「そうだ! それに、もし退行したとしても、人類愛程度じゃないか? そんなもの退行すればいいんだ」

 「イザベル様!」

 「おい、ネルソン! カレンが何をしているのか考えてみろ。いつどこで戦争が始まってもおかしくない。最近我々の植民地でどれほど多くの紛争が起きているのかわかってるのか」

 「いままでうまく対処されてきたではないですか」

 「傭兵がいたからだろ。だが、いつまでも傭兵だけに頼ってやっていけると思うか?」


 「いまからでも常備軍を増やして......」

 「しっかりしろ! 純粋な奴め! 贅沢を覚えた民は絶対に国のために命をかけたりはしない。何かを準備しておかないと転げ落ちるのは一瞬だ」


 政治の世界で何年も生きてきたイザベルだった。

 甘ければ飲み込み、苦ければ吐き出す大衆についてはもう充分に知っている。


 たくさんの植民地から得た富で腹を膨らませているくせに人類愛について論じやがる奴らめ。


 イザベルは「ペッ!」と心の中で唾を吐いた。

 彼女は故郷であるインスパンと同じくらいレス・ディマスも軽蔑している。

 もちろん、彼女の権力を埋めることができるくらいの軽蔑だ。


 ネルソンはそんなイザベルを見ながら溜息をついた。


 「これ以上文句を言うな。本当に人体実験をしているとは言ってないだろ。カレンに我々の技術が全て流れないように安全装置を作っておいただけだ」


 実は、敢えてカレンとの共同研究所に

 レスティとキンボールを配置したのには理由があった。


 生体実験が成功してこれが常用化した時に、万が一倫理的な問題が台頭したら、

 この技術の源泉はカレンだったと罪をかぶせるための保険だった。

 しかし、こんな話をネルソンにする必要は当然ない。


 「本当...…ですか?」

 「当たり前だ。結果の核心的な部分は当然別に管理するべきだろ? そんなことをカレンの奴らに気付かれてはいけないじゃないか。だから、もうこれくらいにしてくれ」


 イザベルはこれ以上話したくないという風に椅子から立ち上がった。

 ネルソンのような若者がいることも悪くはなかった。

 世界には偽善的な人間も必要で、理想を夢見るこんな仲間も必要なのだから。

 しかし、飾りとして置いておいた者に主人の役割をされては困る。


 「統領様。私はあなたにあこがれて政治に入門したんです。私はあなたがレス・ディマス、いやアルマンティアの全ての人たちの手本になる人だと思いました」


 政治の世界で何年も生きてきたイザベルだった。

 甘ければ飲み込み、苦ければ吐き出す大衆についてはもう充分に知っている。

 たくさんの植民地から得た富で腹を膨らませているくせに人類愛について論じやがる奴らめ。


 「違いない。お前は正義感に溢れた清廉なヒューマニストだから」


 イザベルの嫌味にネルソンの表情が歪んだ。


 「統領様、冗談を言ってるのではありません」

 「心配するな。お前のようなひよっこよりは、私の方がレス・ディマスを遥かに愛しているから」

 「私はあなたが世界を変えられると本気で思っていました」

 「その通りだ。私は世界を変えるさ。信じ続けて問題ない」


 イザベルはこれ以上ネルソンの言葉を聞かず、外に出ていってしまった。

 植民地はますます増え、レス・ディマスは際限なく肥大化した。

 腹の膨れた大衆たちはこの晩餐を中止しようとは考えもしなかった。

 レス・ディマスは、

 そんな腹の膨れた大衆たちの意見を尊重しなければいけなかった。


 では、全ての帝国が同じ立場だったのか?

 そうではなかった。


 依然として君主国のカレンを見ると、全てのことが一瀉千里に流れていた。

 そこでは王が決定をすればいいだけ。

 結果さえ良ければ、過程について市民に説明する必要はない。


 だから、すぐに植民地を増やす代わりに軍部を拡張させることができたのだ。

 もし、レス・ディマスの市民たちにカレンと同じようなことを要求したら、

 すぐに狂奔して立ち上がるだろう。


 そんなカレンといま衝突しようものなら?

 当然レス・ディマスの完敗だ。

 レス・ディマスがカレンより優勢なのは海上でだけだった。


 内陸にいる奴らは皆外部の傭兵たちだった。

 簡単に裏切り、お金に振り回される傭兵の奴ら。

 カレンと友好関係を維持している間になんとかしなくてはいけない。

 早いうちに外部の傭兵に代わる何かを探さなくてはいけない。


 イザベルは共同研究所の契約によって、

 カレンの編制についての資料のほとんどを受け取った。

 今後、レス・ディマスの軍隊も大々的に改変する予定だった。


 レス・ディマスの技術とカレンの軍事力が合わされば本当に完璧な帝国になる。

 その時がきたら、あの毒蛇のようなカレン五世をぐちゃぐちゃに踏みつぶしてやろう!

 来る日も来る日もストライキばかりしている傭兵の奴らもみんな追い出してやる。


 イザベルは爪をカチカチ噛みながらニヤリと笑った。


 あ! 念のためにムジールとも別に同盟を結ばないとな。


 いつかカレンを叩く日がきたら、奴らの背後にいるムジールが頼もしい仲間になってくれるだろうから。


 「イザベル...…また悪いことを考えてるのね」

 悪いことじゃない、この間抜け! なにも知らないなら黙ってろ!


 「あんたはあの時も悪いことを考えていたわ。だから、私を押し流したんじゃない」

 違うって言ってるだろ! お前はバタ足をしていて、自ら板を離してしまったんじゃないか!

 「違う。あんたは一人生き残ろうと私を押した」

 ああっ! いいから黙れ! 黙ってくれ、メアリー!


 イザベルは今夜も悪夢に苦しめられていた。

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