イザベルの物語 第1話
八百三十四年九月十五日
イザベルの父はキエンギルのインスパン王国の原住民だった。
海賊といってもよく、商人といってもいい男だった。
ある日、
この男は雑役夫として大きな商船に乗ってレス・ディマスに行くことになった。
彼はその大都市で、
ある資産家の一人娘を引っかけるのに成功して熱烈な恋愛をすることになる。
二人は物凄く愛し合い、結婚を約束し、愛の逃避行をすることになった。
......そうして、その男は資産家の一人娘の人生をぶち壊すこととなった。
海賊のならず者ごときにそそのかされて駆け落ちをしたため、
両親は激怒して娘との縁を切った。
そうして資産家の一人娘は海賊の妻となり、十年が過ぎた。
その間に二人にはイザベルという子供も生まれた。
インスパン王国は
イザベルの父のような海賊や商人が集まって暮らすところだった。
イザベルの隣人もまた、その隣人の隣人も皆似たり寄ったりの下層民だった。
八百三十四年、
イザベルの母方の祖父からの手紙が夫婦のもとに届いた。
全てを許すから孫娘を連れてレス・ディマスに戻れと。
生活苦に疲れた海賊の妻は飛び上がって喜び、海賊の男も妻以上に喜んだ。
彼らは生活に疲れていたが、それでも依然としてお互いを愛しており、
当然イザベルのこともとても愛していた。
母方の祖父もやはり一人娘を愛していた。
そのため、この話はハッピーエンドになり得た。
唯一つの問題点がなかったのなら。
それは、イザベルの母方の祖父が
下層民の暮らしがどういうものか知らなかったということだ。
彼は自身が許しさえすれば、全てうまくいくだろうと考えていた。
イザベルの母方の祖父は、
娘たちがレス・ディマスまで来る旅費がないということを思いもしなかった。
イザベルの父所有の古い船では当然たどり着けない。
その当時はインスパンにすぐに行ける旅客船などもなかった。
イザベルの母方の祖父は死ぬまでこの事実について知らなかった。
夫婦は隣人たちと数か月間お金を集めて、
やっとのことで船を一隻準備することができた。
一番最初にイザベルの家族と一緒に出発しようと決心した隣人は
メアリーの家族だった。
一家族のように過ごした最も親しい隣人で、
イザベルより若干幼いメアリーはイザベルを実の姉のように思い、なついていた。
イザベルの母は自身が手にした僅かな幸運を隣人と分け合いたがっていた。
ここで会った隣人もやはり自身の家族だったから。
だから、単純に船を用意するお金が足りなくて
隣人たちに詐欺を働いたわけではなかったということだ。
そんな隣人たちが一人、二人彼女の幸運に一緒に乗りこみ始めた。
貧しい隣人たちが集めたお金なので、
集めたところでそれほど大きなお金にはならなかったが、
なんとかして船は準備できた。
イザベルの父の船よりはましだったが、やはり古く粗末な船だった。
お金をもう少し集められればよかったが、
折悪しくインスパンとドレンス王国の間に紛争が起きてしまったので
急がなくてはいけなかった。
運が悪ければレス・ディマスに行くこともできずに紛争に
巻き込まれて死ぬかもしれなかったから。
この数か月、隣人たちはお互い囁きあっていた。
イザベルのお母さんの家ってすごく大金持ちなんだって。
レス・ディマスに行けば仕事がごろごろ転がってるらしいよ。
そこに着きさえすればうちらの人生に花が咲くんだ。
実際、イザベルの祖父母がどんなに大金持ちだとしても
彼ら全員を食わせていくことはできず、
大都市の暮らしが、いつでも誰にでも豊かさを約束しているわけではなかった。
それでも彼らはそういった希望を抱いて船に乗り込んだ。
彼らの希望に比べれば、限りなく古く粗末な船だった。
そして、彼らの貧しい船は平凡な風浪にも耐えられずに難破することになる。
時は夜で、レス・ディマスに到着したら
一番最初に何を食べるかについての話を交わしていた。
幼いメアリーもイザベルの手を握ってこの楽しい会話に混ざっていた。
船の揺れに眠れなかったメアリーが、イザベルの横で寝たいと言ってきたのだ。
風浪に遭わなかったら、
この幼い少女たちは前日と同じく揺れる船の中で朝を迎えていたはずだった……
イザベルが気が付いた時、
小さな板にイザベルとメアリー、
そして辛うじてしがみついて泳いでいる両親がいた。
限りなく広い海の真ん中で。
「イザベル。お前はメアリーよりもお姉ちゃんなんだからちゃんと守ってやれよ」
イザベルの父が、歯をガタガタ震わせながら言った。
「優しいね、うちの娘は。強い子供だからしっかり耐えられるよね。必ず生き残るんだよ!」
イザベルの母が涙をぐっとこらえながら言った。
イザベルの両親は子供を生かすために最善の選択をした。
この小さな板に大人が二人もしがみついているわけにはいかなかった。
だから、板から手を離して力いっぱい板を押した。
太陽が海に赤い熱気を吐き出しながら水平線の下に消える頃、
イザベルの目に遥か彼方にあるとても小さい救命艇が映った。
すぐにでも力尽きそうで、
全てをあきらめようとしていたが、救命ボートを見たら一気に力が湧いた。
「メアリーあれ見て! 見える? 私たち助かるよ!」
「え? ホントだ!」
イザベルはありったけの力を振り絞って、救命ボートに向かって泳ぎ始めた。
イザベルより二歳幼いメアリーも力になろうとバタ足を始めた。
数時間後にイザベルは救命ボートの上に引き上げられた。
驚いたことにその救命ボートにはメアリーの両親が乗っていた。
二人の顔を確認するとイザベルは、嬉しさのあまりに涙を溢れさせてしまった。
しかし、喜びも束の間だった。
救命ボートの前までたどり着いた時、
板にしがみついていたのはイザベルだけだった。
八歳の少女は結局、耐えられずに板を離してしまったのだろうか。
「ああ...イザベル! メアリーは? メアリーはどこにいるんだい?」
風浪が起きた日、メアリーはイザベルと一緒にいたいと言い、
両親と離れてイザベルの家族のもとに来ていた。
イザベルは、数時間前まで一緒にいたとはとても言い出せなかった。
「船が難破した時は私の横にいたんだけど......」
メアリーの母が悲しい表情で差し出してくれた水を飲みながらイザベルは誓った。
メアリーの両親の言うことをよく聞かなきゃ。
メアリーよりもいい子になってみせる。
私は両親を失って、二人は娘を失ったから、これから私たちは一つの家族になる。
メアリーの両親の確保していた食料は極めて少量だったので、
一回の食事をかなり少しずつに分けて食べなければいけなかった。
どうにかして長く生き残ってこそ、救助される可能性も高くなるはずだから。
そのため、海の上でのイザベルはいつもお腹を空かしていた。
最初はぺちゃくちゃ昔の話をしていたイザベルはすぐに疲れて口を閉じた。
数日後、真夜中に目を覚ましたイザベルは、
空いたお腹をさすりながら食料の袋を見つめていた。
ほんの少し、本当にほんの少しくらいなら食べても大丈夫よね。
まだ十歳の私が食べたって全然目立たないはずだわ。
イザベルは恐る恐る食料の袋を開いて、ドライフルーツを一切れ口にした。
そして、ビスケットを。
そして、ビーフジャーキーを。
そして、精製された清潔な水を......
イザベルが、一瓶しかなかったジャムの蓋をこじ開けて、
指でジャムをかき込んだ瞬間だった。
一心不乱に甘ったるい塊を飲み込んでいたイザベルは、
背後にゾクッとするものを感じ後ろを振り返った。
メアリーの両親が言葉を失ったままイザベルを眺めていた。
イザベルと目が合った瞬間、メアリーの父は𠮟責したが
メアリーの母はただ、イザベルを抱きしめるだけだった。
彼女はイザベルの耳元で、
もう全て終わった、本当に全て終わってしまったと繰り返した。
イザベルは彼女の囁きを聞きながら、口の周りに付いていたジャムをなめていた。
まるで自身の罪悪感をなめているかのように、猛烈な羞恥を感じながら......
翌日の朝、彼らは残った食料を公平に分けて最後の食事をした。
そして、何も食べられなくなってから三日くらい過ぎた頃だったか。
空っぽになった胃腸と同じくらい、空虚な瞳で海を見つめていたメアリーの母はそのまま海に身を投げた。
これ以上、大海原を見つめていられなかったのだ。
そして、またどれくらい時間が流れただろうか?
飢えに疲れて気を失うように眠っていたイザベルが目を開けた時、
自身をにらみつけているメアリーの父を見た。
イザベルは恐る恐る身を起こした。
なぜか、全身に鳥肌が立った。
「イザベル。正直に言ってくれ。お前最後までメアリーと一緒にいたんだろ」
「一緒じゃなかったです」
イザベルはあまりに動揺して
ポケットに突っ込んでいた拳をぐっと握ってしまった。
「バキッ」と、こっそり隠しておいたビスケットが割れ、
その音が悲鳴のように聞こえた。
「俺たちがお前を救助した日、お前はメアリーと一緒にいた。そうなんだろ? どうか真実を話してくれ」
メアリーの父はイザベルの両肩を力いっぱい揺さぶりながら絶叫した。
イザベルは首を激しく振りながら、その日のことを思い出そうとした。
メアリーは本当に力尽きて手を離したのかな。
傾く板を見て、もしかしたら私が突き押してしまったんじゃないよね。
イザベルは目をぎゅっと閉じた。
ここで真実を話せば殺される。
おじさんは私を海に突き落とすに決まってる。
という考えと
もしかしたら、おじさんの耳にもビスケットが割れる音が聞こえたかも。
という考えが延々と交差していた。
「ある人たちがメアリーを抱きかかえて救命ボートに乗り込んだんです。私は遠くにいたから一緒に乗れなかったんです。私は......私はお父さんが......」
つじつまの合わない話だったが、何かを言わなくてはいけなかった。
「そうなのか? メアリーが生きているということなのか?」
「は、はい......大きな救命ボートでした。すごく大きな......」"
イザベルの肩をつかんだ彼の手から力が抜けていった。
そして、急にくるっと背を向けて海に飛び込んだ。
これで本当に一人だ。
イザベルは泣きながら手のひらについていたビスケットの粉をなめた。
その後イザベルは、時々メアリーの父の最後を思い出す。
彼はメアリーが生きているという言葉を信じたのだろうか。
それとも、
妻に続いて子供まで失ったという思いに希望を失い、身を投げたのだろうか。
もちろん、永遠に答えはわからない。
イザベルは翌日劇的に救助された。
彼女を救助したのはレス・ディマス艦船だったため、
祖父母に安全に引き渡された。
いくつもの奇跡が重なって、
あの貧しい船に乗った人の中で唯一救出されたのだった。
レス・ディマスに到着してしばらくの間は話題になった。
唯一生き残った、貧しい王国から来た奇跡の少女!
都市中の人が彼女を知っているほどだった。
もちろん、都市ではこの程度の話題は数か月もすると収まるほどのものだったが。
イザベルの祖父母は
一人娘にしてあげられなかったあらゆることをイザベルにしてくれた。
そのため、イザベルは他の資産家の子供たちと同様に賢く平凡に育った。
ただ一つ、ジャムとビスケットが食べられなくなったことを除いては。
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