イルマの物語 第5話
八百六十年三月二日
八百六十年、
ヴィトゥルースのフレイザーは突然王政を放棄して共和制を宣布した。
そして、第一回目の投票の結果、フレイザーの娘のイルマが大統領に当選した。
この時、イルマの歳は二十七で
体制が変わっていなかったら王位を継承していたことだろう。
また、
体制が変わったばかりのため、議会の大部分は依然として貴族が占めていた。
したがって、外から見たらヴィトゥルースの政治構造は何の変化もなかった。
それでもフレイザーはなぜ、このような面倒な制度を施行したのか。
「メイネとアルノの貴族たちの派閥があまりにも強くなったのが気にかかりますか?」
「否定はできないが、それは予想していたことだ」
フレイザーはイルマを前にして、重大な決定について説明しようとした。
自らの手で王政を廃止することについて。
イルマは最終的にはフレイザーの意見に同意していたが、
いま決定するのはあまりにも性急だ。
「貴族の奴らはいまも昔も派閥争いをしているに過ぎない…それよりは市民たちの方が問題だ」
「ジャンバルソーの影響を受けるのではと心配されているのですか」
「彼らも見たり、聞いたりしているだろうからな」
ヴィトゥルースの近隣にあるジャンバルソーでは
八百五十三年に市民革命が起きた。
市民たちが勝利し、市民のための政府が作られた。
八百六十年当時は、
ジャンバルソーでの革命成功が世界の様々な国に影響を与えていた。
一年後には、市民たちの流した血と汗を無にするかのように
独裁政権が始まるが、八百六十年当時はそんな未来を予測できなかった。
「ヴィトゥルースの状況とジャンバルソーの状況は全く同じではないだろう。しかし、貴族に対する不満が限界に達している。その全ての問題を王室が解決することはできない」
イルマは既に十数年間後継者としてフレイザーの国政パートナーの役割をしていた。
フレイザーが心配していることがどんな内容なのか充分に理解していた。
「もし、それがお父様の意志であるならば従います。私は王座を天が与えてくれたと思っていません」
「私の考えもそうだ。 そうだとしたら、反逆が成功することなどありえない」"
カトリンとオルバディアが死んだ時、
フレイザーはイルマにとっての最も大きな障害物を消したと思った。
しかし、反逆の火はしばらく息をひそめているだけで、
いつでも燃えあがる準備ができていた。
イルマは結婚と出産はしないことにした。
そして、自身の後継者はカトリンの娘であるアイラと決めていた。
これはフレイザーの状況とあまり変わらなかった。
欠陥のある母を持つ子供、ただ一人にだけ引き継がれる血統。
これがまた現実となれば、
自身がそうだったように、イルマの王座も脅かされていくだろう。
もう、フレイザーも高齢となった。
いつまでもヴィトゥルースの全てをコントロールしながら、
イルマの未来を守ることはできない。
「基本的な準備はほとんど終わりつつあるから、お前も新体制を指導する準備を早く終えなさい」
「王政が崩壊して新しい体制が始まるのに私が当選するでしょうか」
「俺は生涯をかけてお前をヴィトゥルースの指導者に育て上げた。当然お前が当選することを想定して体制を変えるんだ。お前にはその座が疎ましいかもしれないが」
「そんなことはありません」
「俺の利己的な考えでこう言うのではない。今は群小国家の団結が必要な時期だ。当然内治が揺らいでも駄目だ。何を言ってるかわかるか」
「はい。わかります」
イルマはこの時、
共和制になれば王座を完全に捨てられると期待していたのかもしれない。
そうなれば、仮面を脱いで自由に生きていけるから。
彼女にとって王座は必ずしも栄光の座というわけでもなかった。
幼い頃から決められていたただの運命。
らい病にかかった体を必死に隠しながら政務に追われることは
一日だけでも苦痛なことだった。
しかし、体制が変わっても
彼女が座らなくてはいけない王座はそこにそのまま置かれていた。
イルマがそこに座るということは苦しい未来を受け入れるという意味だった。
それにもかかわらず、彼女は運命に逆らわない。
与えられたからにはやり抜く。
母の腹を裂いて出てこようと、忌々しい病気にかかろうと、
世界で最も大切に思っていた従姉の命を奪おうと…
イルマは与えられた状況を避けて逃げ出したことがない。
今までそうやって生きてきたから、
これからもそうやって生きていくことになるだろう。
フレイザーの努力は無駄ではなく、イルマは圧倒的な票差で大統領となった。
実際、急に起こった血を流さない体制変更の中で、
イルマ以外に準備された代案もなかった。
このして、
ヴィトゥルースは血を流さずに王政から共和制に体制を変更するのに成功した。"
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