イルマの物語 第3話

八百五十三年八月十三日




 カトリンは祭司長候補となった少し後に一人の男と恋に落ち、

 まもなく娘のアイラを産んだが、父が誰かについては明かされなかった。

 世間ではアイラの父に関する様々な噂が出回った。

 在野に隠れた黒魔法の達人であったり、カトリンの上司であったりという具合に。


 カトリンが相手を明らかにしなかったのは、

 彼が平凡な家門出身の見習い魔法兵だったため、

 二人の身分の差が彼の未来をダメにしてしまうかもしれないと考えてのことだ。

 その見習い魔法兵はブノワトという者だったが、

 これを知っている者はほとんどいなかった。


 一方、イルマは王位継承の授業を着実に受けていった。

 自身の病気がどれほど大きな弱点なのか自認していたため、

 より必死に食らい付いた。

 しかし、

 イルマの努力や才能がどれほどの物だろうと、人に見られる姿が重要だった。

 公式的な場所にはいつも仮面をかぶり、全身を隠して出ていたが

 人々は彼女の仮面の下にある顔にのみ興味を持っていた。


 ヴィトゥルースはセンテンドレ地方の都市国家戦争に

 傭兵隊長であるカロスを引き入れることにした。


 この長引いている都市国家戦争は最も強力な東部の二国家が抜けて、

 徐々に終わりが見え始めていた。


 ヴィトゥルースは名分上メイネを支援しながら、

 残りの国々が自滅するのを待っていた。


 何事もなかったら、ことはそのように進んでいったことだろう。

 しかし、

 レス・ディマスがメイネの敵国であるトリス連合を水面下で支援し始めた。


 レス・ディマスにとってもこの紛争は内陸に進出するチャンスだった。


 これに慌てたフレイザーは破格の条件でカロスと契約することにした。

 そして、フレイザーはこの戦争を利用してイルマの資質を証明しようとした。

 そのため、経験豊富な参謀たちをつけて司令官に任命したのだった。


 イルマが初めてカロスに会ったのは、最初の戦略会議の時だった。

 ぶっきらぼうで極めて無礼な男だったが、素晴らしい戦術を用いるという。


 フレイザーはイルマの初の戦闘をカロスとの合同作戦とすることを提案した。

 実戦経験のないイルマの良い教本になると思ったからだ。


 簡単な戦術会議が終わるとイルマはカロスに近づき手を差し出した。

 カロスは

 イルマと握手する代わりに腕組みをして仮面の奥の黒い瞳をただ見つめていた。


 「戦闘経験がおありでないと?」

 「そうなんです。しかし、誰にでも初めてというものはあるものです」


 イルマはしばらくの間、

 手を差し出したままだったが、結局手を下ろしてこの無礼な男をにらみつけた。


 「それならば、握手は初めての戦闘が終わってからにしようか」

 「初心者は相手にしないというのが、そちらの慣習のようですね」

 「死ぬかもしれない人とは握手したくないんだ」"


 イルマの横にいた参謀が顔をしかめながら、カロスにすっと近づいた。

 状況がどうであれヴィトゥルースは王政国家だった。

 後継者の前でこのように無礼な態度を取るとは。

 イルマは前へ出ようとする参謀を手で制した。


 「経験豊富な指揮官のアドバイスだと思って受け入れます」


 この時は仮面のおかげで助かったと思った。

 恥ずかしさで真っ赤に染まった顔を見せなくてもよかったから。

 恐らくあの者も、

 らい病にかかったヴィトゥルースの後継者の噂を聞いていることだろう。

 温室の花のように保護されながら育ち、病に侵された、

 か弱い女の子だと思っているのだろう。


 父がなぜ自分を指揮官に任命したのかがわかるような気がした。

 戦術に関しては自分もそれなりに知っていた。

 しかし、知っているだけでは駄目だ。


 この戦争を通して自分がどんな人間なのかはっきりと見せてやろう。

 イルマは静かに唇を噛みしめた。


 トリスとメイネの国境地域の広い平原に低めの丘があった。

 ここに陣を敷いたイルマの部隊は午前零時に黒魔法部隊と合流する予定だった。


 カロスの艦船は翌日の明け方にトリスの西海岸に上陸することになっていた。


 両側の部隊の準備が終われば

 内陸と海岸から同時に攻撃を始めて西側地方を占領するだろう。


 イルマと合流することにした黒魔法部隊は

 その日の昼に東側の激戦地で戦闘を繰り広げていた。


 この戦闘を終えた後、イルマの部隊と合流する予定だった。


 当然のことだったが、最も危険な戦場にはイルマを派遣しない。

 後継者の権威を示してアピールすることは重要だったが、

 後継者の命ほど重要ではないためだ。


 午前一時になったが、まだ合流できずにいた。

 通信を何度も試みたが、円滑にいかなかった。

 多数の黒魔導士が配置される予定だったので、

 イルマが属した中隊には長距離の火器が配置されていなかった。


 長距離の火器の代わりになる黒魔導士を計算し、

 イルマの中隊は大多数を歩兵で編成していた。

 航空部隊も一部いたが、それは分隊規模の偵察兵程度に過ぎなかった。


 もし、明け方までに魔導士たちが合流できなかったら?

 歩兵だけで構成された一個中隊にこの平原でどうしろと言うのか。


 イルマは参謀たちを呼び集めた。


 「一時間後までに黒魔法航空部隊が合流できなかったら計画を変えます」

 「王女様、その必要はありません」

 「その通りです。二、三時間遅れたとしても問題ありません。戦闘が少し長引いているのでしょう」

 「二、三時間じゃなかったらどうするんですか? 現在通信も途切れた状態だと聞きました」

 「激戦地での戦闘なので突発的な状況も起こり得ます」

 「つまり、魔法部隊が合流できなくても我々に勝算があるということですか?」

 参謀たちは、なぜそんなわかりきった質問をするんだという風にイルマを眺めた。


 「たとえ戦闘で敗れたとしても、一部は必ず合流するでしょう」

 「最初からそう計画した作戦なのでご心配なさらないでください」

 「王女様はおわかりじゃないかもしれませんが、一つ一つの戦闘よりも戦争で勝つことが重要です」

 「魔法兵たちの安全を心配されるお気持ちはわかりますが、犠牲のない戦争などありません」


 イルマは参謀たちの顔を見て唖然とした。


 いまこの者たちは自分が魔法兵たちの安否を気にかけていると思っているのか?


 「何をバカなことを! 誰が誰を心配しているですって? 彼らが合流できなかった時に備えた作戦を準備していないのかと訊いているんです!」

 「まぁ、そんなことは起きませんから」

 「何も把握できてないくせに、そんなことは起きないとなぜ言えるのですか?」


 到着する魔法兵の数がどれだけであろうと、

 彼らは自身の命を使い果たしてでも後継者を守るだろう。

 イルマの参戦は宣伝用だから、参謀たちの戦略ではそれが最も重要なことだった。

 彼らの意図を読み取ったイルマは溜息をつくしかなかった。


 これではただの自殺特攻隊ではないか。

 黒魔法兵を養成するのにどれだけ時間がかかるのかわかっているのか。


 ヴィトゥルースは長い間他の国と大きな戦争をしていなかった。

 こんな部隊編成を敵国に知られたらどうするのか?


 今回の戦争はレス・ディマスが密かに支援していると聞いた。

 彼らはどう対応するのだろう?


 もし、自分が敵国なら黒魔導士の合流を何としてでも妨ごうとするだろう。

 黒魔導士たちの足さえ縛っておけたら、残りの部隊はただの肉の盾に過ぎない。


 それもただ一人、王女の自分を守るための肉の盾。

 そんな結果になっても、この戦闘を宣伝用にできると思っているのか?


 「私は指揮官としてここに来ました。一時間後に我々は移動します」

 「...どこにですか?」


 イルマは広げてあった地図上の険しい山道を指した。


 「森を通ってカロスの艦船が上陸する地点に行って、カロスの部隊と合流します」

 「王女様!いまになって何を...意味のない作戦です」

 「王女ではなく指揮官です。これ以上説明しません」"


 同じ時刻、レス・ディマスの支援を受けたトリス軍は

 激戦地でヴィトゥルースの黒魔法兵たちを包囲していた。

 その一方でトリス連合の兵力はイルマの部隊を叩くために進撃していた。

 彼らはヴィトゥルースの後継者を排除することでヴィトゥルースに内紛を起こそうと考えていた。


 もし、

 イルマが作戦を変更していなかったら、イルマの中隊はほぼ全滅していただろう。


 幸いイルマの決断で、

 衝突が起きるはずだった午前にカロスの部隊と合流することができた。


 「おチビの指揮官様は生きて辿りつかれましたな。実戦で生き残った気分はいかがですかな?」


 カロスは嘲りの混ざった声で、徹夜で行軍してきたイルマの部隊を出迎えた。

 イルマは依然として無礼なカロスにこれ以上我慢できなかった。


 一般人でも行軍しやすい道ではなかった。

 らい病で足の小指のないイルマには尚更苦しい道のりだった。

 イルマは汗に濡れた髪を掻き上げながら仮面を床に投げ捨てた。

 後にも先にも人前で仮面を外したことはなかった。

 それだけイルマにとって初の戦闘は大変なものだった。


 仮面を投げた後、イルマは自分でも知らないうちに深く息を吐いた。

 どうせなら行軍中に外してしまえばよかった。


 しばらく息を整えた後、無礼極まりないカロスをにらみつけた。

 依然として笑っているのか、怒っているのかわからない、

 何とも言えない表情をしていた。


 「一体全体、あなたは礼儀というものを知らないのか?」

 「やっと少し戦士らしい顔になったな」


 カロスはイルマに近寄り手を差し出した。


 「ふん...あなたはずっといけ好かない顔だ」


 イルマは顔を一度しかめて、手袋をはめたままの手を出してカロスと握手した。

 カロスは人差し指が第二関節までないイルマの手を強く握り返した。


 その後、イルマは戦闘に積極的に参加し始めた。

 イルマは自分に実戦経験が少ないことを素直に受け入れた。


 そして、どんな戦略会議にも欠かさず参加した。

 戦闘で先頭に立つ子供じみた行動をすることはなかったが、

 可能な限り最後まで前線から離脱しなかった。


 勝利が積み重なっていき、

 フレイザーが望んでいた通りにイルマの神話も書き加えられていった。


 仮面の軍神。

 ヴィトゥルースの後継者が参加した戦場では負けることはない。


 全ての戦闘で勝利したわけではなかったが、それでも神話は作られた。

 大衆はこの勝利の女神に歓呼を送った。


 そうしてイルマの病気は呪いから幸運へと変わった。

 まるで彼女の病気がヴィトゥルースを救うための贖いのしるしであるかのように。


 彼らは宣伝の戦略にも成功したのだった。

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