イルマの物語 第2話
八百四十六年四月八日
「ああっ......」
全速力で走っていたイルマは路地の出口で転び、悲鳴を上げた。
イルマは、悲鳴を上げたことが過ちであるかのように
がばっと起きて周囲を見渡し、また走り始めた。
汚れた布を袈裟のようにまとった彼女は誰が見ても貧民街の子供のように見えた。
しかし、彼女はイルマ・へスター、ヴィトゥルースの後継者だった。
生まれて初めて見ることとなった国外の景色が貧民街だとは......
イルマは溢れそうな涙をぐっと我慢した。
王はあらゆる勢力から牽制される存在だと教わってきた。
貴族や他の王室の勢力とはいつも対立する立場。
人々はイルマが産み月より前に母のお腹を裂いて出てきた子だと噂していた。
母が出産中に亡くなったことがイルマのせいであるわけがない。
しかし、
自身の過ちではなくても責任を持って乗り越えてこそ資格を証明できると学んだ。
最初はあまりにも怖くて、
どうやって貧民窟まで連れられてきたのか思い出すこともできなかった。
イルマが生まれて初めて見た貧しさは、それ自体が恐怖となった。
しかし、イルマには唯一の後継者だという誇りがあった。
ただ捕まってぶるぶる震えているわけにはいかなかった。
イルマは貧民窟の子供をそそのかして服を交換し、監視者の目を盗んで脱出した。
初めて訪れた所なので助けを請う相手もおらず、
ただやみくもに走るしかなかった。
そして、路地の出口で誰かが彼女の襟首をつかんだ。
強い力が感じられ、イルマは必死であがいた。
「王女様!もう安全ですので、ご心配なさらないでください!」
それでやっと後ろを振り返ると、見慣れた護衛隊の顔が見えた。
緊張の解けたイルマはその場で倒れてしまった。
護衛隊は周囲に王女を保護したと伝えた後、イルマを抱き上げた。
布がめくれて露になったイルマの肌に斑になった傷のようなものが見えた。
センテンドレ都市国家の戦争が泥沼になって久しい。
ヴィトゥルースも隣接国であるメイネとアルノを何年も支援していた。
センテンドレ地方で最も強かった二国が合併して戦争から抜け出すと、
メイネと敵対していたトリス連合は躍起となった。
トリス連合はヴィトゥルースがメイネから手を引くことを望んだ。
結局、過激派たちが独断的に後継者を拉致した。
「トリスの奴らの仕業であることは確実です」
「しかし、確固とした証拠がありません。海賊の仕業であるかのように巧妙に仕立て上げています」
トリスは
イルマが拉致された場所についての情報をフレイザーに教えて対価を受け取った。
したがって、ヴィトゥルース内ではトリスが関係していると疑っていたが、公式的には金を目的とした海賊たちの所業だと伝えられた。"
「とりあえずは後継者が無事に戻ってきて幸いでした」
「何が幸いなんですか! よりによってらい病にかかったのに!」
「病気なんてしっかりと治療すれば治るのではないですか」
「もどかしい方だ。らい病なんですよ! 単なる病気ではなく、レプラだって言ってるんです!」
騒々しかった議会が一瞬静かになった。
他でもない王位継承者がらい病だとは。
らい病だとしたら隠し通せない。
「こうなってしまったら、いくら直系と言えど後を継ぐのはご無理ではないでしょうか」
「ですが、一人娘です。代わりがいません」
「代わりがいないですって? カトリン様がいらっしゃるのに......」
「その通りです。結局は王家から祭司長と王が排出されればいいのですから」
「そして、元々障害のある方が祭司長を......」"
ある貴族はそこまで言いかけて、
吐いた言葉を後悔しながら周りの顔色をうかがった。
後継者に対して障害という言葉をあまりにも軽々と口にしたことに気付いたからだ。
祭司長の職位は傍系で最も序列が高い者が引き受ける。
しかし、後継者に重病が見つかると、その者が祭司長になる。
病気や障害があることが、
まるで魔法の才能の徴表のように考えられていたからだ。
もちろん、これは言い訳だった。
どうせ病気にかかって長生きできないので、
家門の犠牲となるカードとして使おうということだ。
病気にかかった者が魔導士になれば、戦闘では最前線に配置される。
思い切り黒魔法を使って、名誉だけでも高めるために。
しかし、イルマ・へスターは王家直系の一人娘だ。
戦時であれ、平時であれ、果たして王が受け入れるだろうか。
一般的にはこんな問題は起きない。
子供が一人しかいない王は珍しいためだ。
こうなってしまうと、
イルマが祭司長の後継者となり、その弟妹が王位を継承することとなる。
そして、10年前後の時間が流れた後、
また傍系血族の嫡孫に祭司長の役割を譲ることになる。
しかし、フレイザーにはイルマ以外には子供がいなかったので、
苦悩は深まるばかりだった。
ヴィトゥルース、黒魔導士たちの本拠地。
大きくはないが、強力な黒魔力のおかげで、どんな国も簡単に手出しできない国。
しかし、これからはこれだけでは充分ではなかった。
フレイザーはヴィトゥルースの未来のために進取的な政策を繰り広げていた。
その過程で王室や貴族たちとどれほど多くの対立があったか......
王と言ってもすべてのことを独断的に実行することはできなかった。
貴族たちの反発をあまりに買ってしまうと、
彼らは反対勢力を作り対抗することだろう。
そこに、弟のオルバディアの野心が加わると、
反逆の派閥がじわじわと広がるだろう。
フレイザーは自身の改革とヴィトゥルースの未来をイルマにかけた。
また王室の他の者や貴族に権力が移って変革が中断しないように、
可能な限り長い時間をかけて着実に準備するつもりだった。
もし、カトリンに王位が移れば、自身の使命は完遂できないだろう。
カトリンはオルバディアとその後ろに立つ貴族たちの力を無視できないためだ。
結局、らい病は寿命と関連がないという理由でカトリンが祭司長の候補となった。
もちろん、これは表面的な理由だった。
イルマの後継者の座を保証してもらうために、
複数の貴族たちと多くの取引が行き来した。
意見の違う王室の者たちもいくつかの利権を受け取り口を閉じた。
イルマはやっと13歳で、カトリンはまだ祭司長候補生だ。
しかし、これからいくらでも機会があった。
ともあれ、王と王室間の闘争は終わらないだろう。
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