ヘネシーの物語 第5話

八百六十年一月十七日



 ヒストリアの貴族の多くが亡命を試みた。

 もちろん、事態を伺っている貴族がより多かったのだが。

 イェフデイットが予見した通り、最後までこの状況を楽観している視線が存在していた。


 ヒストリアの貴族たちの視点では、

血統で続いてきた国を武力で占領することなど想像できないことだった。


 彼らは今日予定されていたヘネシーとカレン五世の会談を休戦協定のためのものだと信じていた。

 そのため、未だにどんなことを譲歩しなければいけないのかを論じていた。

 ヘネシーは彼らの意見が記されたリストを黙って受け取った。

 どうせもう、彼らの意見を受け入れなくてはいけないのは彼女ではない。

 カレン五世に会う数時間前、ヘネシーはイェフデイットの元に向かった。


 「打ち明けなければいけないことがあります」

 「殿下、私は司祭ではありません」

 「ヒストリアの歴史に残してください。最後の王が個人の私欲によって国を滅ぼしたと。自身の望む物だけを守るために嘘を並べ立て、結局この国を滅亡させたと」


 「殿下でなければ、何年も前に滅びていたかもしれません」

 「有能な者が王になっていたら、ここまで酷くはなっていなかったでしょう」


 ヘネシーはとても長い間、自身に付きまとった刺々しい視線のナタリーンを憶えている。

 ナタリーンがオルペアンと自分を結婚させようとした時、本当にその縁談を受け入れたかった。


 もし、あの時オルペアンと結婚していたら、自分は彼らの手で殺されていただろう。

 そうしていたら、ヴェルト・ピエロの処刑の知らせなんかを耳にしなくてもよかっただろう。

 そうしていたら、国を滅亡に導いた王にならなかったかもしれない。


 「今になってこんな話をするのもなんですが……殿下は貴族たちに選ばれた王にあらせられます」

 「そうでしたね。彼らが私を選んだのでしたね」


 そうだ。彼らが何者でもなかった人間を王座に座らせた。

 彼らが思いのままに動かそうと、望んでもいなかった私を連れてきてここに座らせた。

 私が望むものはここには何も無いのに。

 ……しかし、それはあまりに昔のことだ。


 「消える物は何をしても消えるものです」

 「ですが、王がそんなお考えではいけません」

 「ふむ……たった今滅亡したと言いませんでしたか。滅亡したならもう王でもないのだから、どうでもいいではないですか」


 年老いた書記官であるイェフデイットは可能な限り雰囲気を和らげようと努めた。

 王が国の滅亡を論じているのだから、書記官が司祭の真似事をしたっていいだろう。

 彼女には救いが必要で、私の言葉で救ってあげられるなら、してあげたって。


 「殿下。まず、お生き残りください。そうすれば、また明日を期することができます」

 「私がまた明日を期してもいいのでしょうか。私のような者が……」


 ヘネシーはペイオードのことを思い出した。

 彼は自身の家族を連れて、とうの昔にムーヴシュに亡命していた。

 この時もヘネシーは彼を援助してあげたが、彼が発つ前に会うことはできなかった。

 いや、彼に会えなくなってからもう何年も経っている。


 恋情のための恋情……

 彼に向かう気持ちが何だったのか、今ではもうわかりもしない。

 遠い昔に少女だった自身が抱いていた大切だった気持ち、抑えられなかった胸の高まり。

 その後はペイオードではなく、その純粋な熱望を守ろうとしていたのだと思う。

 いや、もしかしたらペイオードは言い訳で、本当はこの国ヒストリアを守ろうと思っていたのかもしれない。

 いや、それも違うのか?


 「私にはもう守る物も、守らなければならない物もありません」

 「そんな気弱なことを仰らないでください。この老いた私にも九年前に守らないといけない荷がまたできました」


 イェフデイットは書記官ではなく、一人の人間としてヘネシーの手を握った。

 決断力のない人ではあったが、それでも最後まで諦めないことを祈りながら。"


 「殿下、私も生き残ります。生きて孫の元に戻らなくてはいけないんです。ですから、殿下もどうかお生き残りください」


 ヘネシーは年老いた書記官の言葉に頷いてみせた。


 「そうして生きていけば守る物もでき、守る物ができれば、また生きていけます」


 ヘネシーはこの後すぐにカリン五世に会う。

 今からでもひょっとしたら逃げられるかもしれない。

 年老いた書記官の言う通り、生きてこそ明日を迎えることができる。

 果たして私のような者に……


 彼女は今まで自身に与えられた運命にただの一度も逆らえずにいた。

 そのため、もしかしたらこれが運命に逆らえる最後の機会かもしれない。

 ヘネシーは崩れ落ちていく心を何度も奮い立たせた。


 しかし、彼女はとうとう最後まで逃げ出すことができなかった。

 最後まで期待に満ちた目で自身を見つめる貴族たちの視線を背に受け、カレン五世に会うために歩き出した。


 王宮の長い通路に到る。

 この通路の先には

かつて自身の物だった執務室があり、その中でカレン五世が自身を待っている。

 ここで二十年以上過ごした。

 だが、本当にここが私の物だった時があったのか。


 ヘネシーは一歩前に踏み出す度に後ろを振り返った。

 そうして迷いながらも結局は執務室のドアを開けた。

 数時間後、ヘネシーはカレン五世に王位を譲り自決することになる。

 彼女は結局、死ぬ時までただの一度も自身の運命に逆らうことができなかった。

 この日、ヒストリアは公式的に地図の上から消えた。

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