ヘネシーの物語 第4話

 八百五十年六月、カレンで王妃の暗殺未遂事件が起きる。

 有力な容疑者としてヒストリアの詩人であるヴェルト・ピエロが挙げられる。

 ヴェルト・ピエロはカレンの領土の中で検挙され、カレンで処刑された。


 この時、ヒストリアの王であるヘネシーはなんの措置も取らなかった。

 ヴェルト・ピエロを保護しようともせず、

カレン五世に遺憾の意を表明することもなかった。


 王妃の暗殺企図というとんでもない事件が起こったということを鑑みると極めて異例な状況であった。

 貴族たちは王の対処に抗議した。

 このことで外交的な紛争が始まるだろうと予想した。


 しかし、何年過ぎても何も起きなかった。

 人々は自然にこの事件を忘れていった。

 しかし、この件はカレンとヒストリアに深い溝を残した。

 この事件以降数年間、ヒストリアの王は常に不安がっていた。

 彼女が不安がっている間、彼女の行動はより消極的となっていった。

 王権が弱まっていると見た貴族たちはまた安心し始めた。

 貴族たちはいつも、器量の足りない王を望んでいたためだ。

 そしてこの時期、貴族たちはカレンとの友好関係もよくなり続けていると信じていた。


 ヒストリアの貴族たちは自身が重要だと考えていることは、他の国も重要だと考えていると信じた。


 この妄信はカレンがザハマンを併合した時も変わりなく、

八百五十八年にヒストリアの侵攻を始めた時も変わりなかった。

 それどころか、ヒストリアが滅亡したとしても変わらないだろう。


 カレンが侵攻を開始してからしばらくして、ムーヴシュでは派兵を決めたが、

彼らの国政も貴族たちの手で行われていた。

 同じような文化を享受していたムーヴシュも

やはりカレンに対して安逸に考えていたことには変わりなかった。


 この戦争の結果がとても悲劇的だということは最初から予想できたことだった。


- 『ヒストリア、その最後の王について』より抜粋"



 八百五十八年三月九日


 「ふむ……これはちょっと使い道のない資料かな。これは除いてと」


 ヒストリアの南部の小さい村でイェフデイットは書類を整理していた。

 イェフデイットの九才になる孫のキルバサが不満そうな表情で祖父を見つめた。


 「ただ僕と一緒にここにいたらいいじゃん」

 「駄目だ。キルバサ。おじいちゃんにも任された役目があるんだから!」

 「国はもう亡びるんでしょ」


 イェフデイットは家の中なのに、周りを見回しながら孫の口を塞いだ。

 

 「そんな話をしてはいけないよ!」

 「村の人たちもみんな話してることだよ」

 「全く……みんな子供の前でなんてこと話してるんだ」

 「王宮に戻らないでよ。おじいちゃんまでいなくなったら、僕はどうすればいいの?」

 「なにかあったらすぐに戻ってくるから心配しないでいいんだよ」

 「……戻れない時のことを考えてあれこれ教えてくれたじゃん」

 「それはもしも、本当にもしもの時だよ」

 「こんなに遠い親戚の家まで僕を預けておきながら……おじいちゃん。僕まだ九歳だよ」


 イェフデイットはキルバサの顔を一度確認してぎゅっと抱きしめた。

 もっと何か言い聞かせたかったが、既に何度も繰り返していた言葉しかなかった。


 もし、自分が戻って来なかったら、親戚の大人たちに付いていきどうしなくてはいけないのか。

 どんなに大変でも必ず持っていかなければいけない冊子はどれなのか。

 ヒストリアが滅びたらどこに行かなければいけないのか……


 貴族たちはまだ安逸に考えていた。

 今回起こった戦争はヘネシーとカレン五世の軋轢だと。

 それ相応の危険が行き交ったから、今後は交渉につながるのだと思っていた。


 イェフデイットは、ヘネシーのような決断力のない王にしてはそれでも長く持った方だと思った。

 ヘネシーはイェフデイットが仕えた三番目の王だった。

 彼女が初めて王宮に訪れた時は、二~三年持つだろうかと思ったが二十四年も持ち堪えた。


 これほどの時間なら、何が起きてもおかしくはなかった。

 かつての燃え上がる恋情も色褪せる時間であり、振り払えない復讐心も鎮まるほどの時間であった。

 そんな長い年月の間、貴族たちはこの危機的な状況に対応する準備ができていなかった。


 二十四年前であれ、今であれ、ヒストリアには依然として軍事力というものがなかった。

 偉大な精神も結構だし、高邁な知識の象牙の塔も結構だが、

国を失ってしまったら何の意味があるのだろうか。


 しかし、自身もやはり国をこの有様にした世代の一員だった。

 他人のせいばかりにはできない。

 これまで書記官は最も近いところで王を見守ってきた。


 カレンとヒストリアの貴族たちの間で均衡を保とうと苦心しながら危なっかしく立っていた王。

 どんなことであれ、彼女はいつも自身の無能を嘆いていた。

 本当に無能なだけの者だったなら、カレンという強国を相手に二十四年も持ち堪えられなかっただろう。

 もう少し自信を持って事を処理していたらなにか変わっていただろうか。


 イェフデイットはこの戦争で生き残ることができたら、ヒストリアにどんな機会があったのか顧みないといけないと思った。

 その時に備えて彼は細かく年代記を作成していた。

 ヘネシーの私生活に関する記録まで全て。


 「キルバサ、何があっても諦めたらだめだからね。それが我が家の家訓だから。いいね?」

 「ちぇっ。おじいちゃんも諦めてるくせに」

 「何言ってんだ。こいつめ。諦めていないから王宮に戻るんじゃないか」

 「……また会えるよね」

 「当たり前だろ!約束するよ。すぐにまた会えるよ!」


 イェフデイットは笑いながら孫の頭を撫でた。

 イェフデイットが残した資料は多かったが、ほとんどは消失してしまった。

 戦争中に彼の親戚は皆死亡し、生き残ったのはキルバサだけだった。

 九歳の少年は祖父とたくさんの約束をしたが、子供が運べる資料はごく一部に過ぎなかった。


 キルバサが最後まで捨てずに持っていけた資料の中にヒストリア年代記の筆写本があった。

 ヒストリアを滅亡させたカレン五世は、ヒストリアの歴史記録のほとんどを葬り去った。

 しかし、キルバサが保管していた筆写本によってヒストリアの歴史はこの世に残ることになる。


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