ヘネシーの物語 第3話
八百四十五年五月三日
「送還すべきです。いたずらに事を大きくしてもいいことは何もありません!」
「私もそう思います。カレン五世はとても激情的な性格だというではないですか!」
「その通りです。実際軍事力ではヒストリアとは比較にもなりません」
二年前、王位継承争いから押し出されたペイオードはヒストリアに亡命した。
ヘネシーは歓んで彼の亡命の手助けをした。
彼を恋慕する気持ちは以前のままだったが、
だからといって昔のように彼との未来を夢見てはいなかった。
ヘネシーは一度結婚した後は未亡人になった状況であり、
ヒストリアに亡命したペイオードも伯爵の家門の娘と結婚した。
一方はヒストリアの王であり、
もう一方は自国の王を避けて越境してきた亡命者の身だった。
従って、もう二人の未来は夢見てはいけないものとなった。
それでもヘネシーはペイオードが幸せに暮らすことを願った。
自身にできることならば、何であれしてあげたかった。
彼は依然としてヘネシーの可哀想な子であり、それ故に愛しい人だった。
「だから我々にもペイオードのような者たちが必要なのです」
ヘネシーは可能な限り全ての貴族たちと目を合わせながら言った。
「万一、カレン五世政権に反発する勢力が現れたとしたら、新しい指導者が必要です。反対にカレン五世が強力な王になったとしたら、我々には交渉カードが多いほどいいでしょう」
「それはそうですが……送還の要求は火急の事態です」
「その通りです。私たちはすぐにカレン側に返事をしようと考えております」
「送還してしまいましょう。私たちとは関係のないことです!」
ヘネシーは貴族たちの言葉を一蹴した。
「カレン五世は私が説得します」
もし、すぐにカレン五世を説得できるのなら、
当然ペイオードを手中にしておいた方がいいだろう。
いつでも、選択できるカードは多い方がいいから。
しかし、相手は政敵をすべて排除してカレン四世の権力をそのまま移譲されたカレン五世だ。
彼が黙ってこれを見逃してくれるだろうか。
貴族たちは半信半疑だったが、カレン出身の女王を見守ることにした。
もし、カレン五世を説得できなかったら、どうせ彼女の意見は黙殺されるのだから。
貴族たちが散り散りになった後、書記官だったイェフデイットがヘネシーに尋ねた。
「ペイオード様の情報を記録に残した方がよいでしょうか」
「全てのことをありのまま記録してください。一つ残らず」
「記録をすればそれが事実です。殿下は何を記録するのかお決めになることができます」
イェフデイットは何年経とうと、この土地を他人の土地だと考えている自身の王を見つめた。
いくら非のある親といえど、子供の前で卑屈になってはいけない。
いくら欠陥のある親といえど、子供に対する愛は無限でなくてはならない。
実際はそうでなかったとしても、少なくともそう思わせなくてはならない。
王とはそういうものだ。
「王の決断を判断してもらおうと思わないでください」
「私は……」
「強い軍隊がなく、貴族たちの派閥はあちこちに分かれているから、この国は危なっかしいのです。殿下はどうかこの国を可哀想に思って、愛してください」
ヘネシーは侘しく笑った。
いつもそうだった。
可哀想な者たちはいつも愛おしかった。
ヒストリアが幾重にも及ぶ送還要請に応じずにいると、カレン五世が直接ヘネシーを訪ねて来た。
謁見室のドアを開けて入ってきたカレン五世には以前の面影は見当たらなかった。
誰も帯同せずに一人でヘネシーの前に座った彼は鋭い目で彼女を見つめた。
しばらく何も話せずにいたヘネシーがまず口を開いた。
「送還はできない」
「何が起きてもか」
「貴族たちが彼を保護したがっている。皆お前を怖がっているからな」
ヘネシーはカレン五世から目をそらさずに答えた。
人を騙すにはまず自分を騙さなくてはいけない。
今から私が話す言葉は全て真実だ。
私が話す言葉はこの国、ヒストリアのためのものだ。
「ヒストリアの貴族たちは今後お前と交渉するためのカードを一つでも多く手にしたがっている」
「だから?」
「私は彼らの意見を一度で跳ねのけられるほどの強い王ではない。お前とは違う。私に時間をくれ。今は貴族たちと調子を合わせなければならない」
「今は? ならば今後俺が望めばペイオードを引き渡すという意味か?」
「大して価値のない人間だということが明らかになれば、関心もなくなるさ。その時にお前が望むなら引き渡してやるよ」
カレン五世は「クスッ」と笑いをこぼした。
ヘネシーは癪に障るカレン五世の笑い声を無視しながら言葉を続けた。
「そしてお前に結婚同盟を提案しようと思う」
「結婚? お姉様が俺に恋情を抱いているとは思わなかったな。それだけの覚悟があるのなら、ただ王位を譲ってくれればいいのではないか」
カレン五世もヘネシーが自分と結婚しようとしていると思ったわけではなかった。
ただ、偽りを真実だと思い込もうとしている彼女をからかおうとしただけだ。
「私が提案したい者はテネズ・シャロンだ」
カレン五世は片方の眉を吊り上げてヘネシーを見た。
どうも、余計なことをして気持ちを見抜かれていたようだ。
「そうなのか?」
「この結婚はペイオードとはなんの関係もない。お前が私と友好関係であることを証明してくれさえすればいい。そうすれば、ペイオードはもちろん、ヒストリアの学術的資料もいくらでも提供してやる」
カレン五世は一度溜息をついて頷いた。
今はヒストリアと友好関係を維持するのも悪くなかった。
ヒストリアがカレンを警戒して兵力を強化し、別の国と手を握るのは良くない。
はなっからヘネシーがペイオードをやすやすと差し出すことは期待していなかった。
ヘネシーの状態と彼女が掲げる条件を確認したかったのだ。
そしてテネズ……
カレン五世は自身を感傷的にするその名前をすぐに打ち消した。
「よし。提案を受け入れよう。では、我々の話はここまでだ」
カレン五世は振り向いて外に出ながらゆっくり一言付け加えた。
「欺瞞の螺旋に登ったことを歓迎する。どちらにしろ検討を祈ろう」
カレン五世が去り、ひとしきり時間が流れてやっと、ヘネシーはぎゅっと握っていた手を緩めた。
そして、テーブルの上に倒れた。
我慢していた涙が溢れ始めた。
ヒストリアに来た時、テネズの家門にどれほど助けてもらったことか。
彼らもカレン出身だったので、基盤のなかったヘネシーには大きな力となった。
その家門の幼い娘だったテネズもやはり優しいヘネシーにとてもなついていた。
それで、自身の秘密をどれほどたくさん喋ってくれていただろうか。
テネズは特定の名前を挙げはしなかったが、それでも彼女が恋慕する男を知っていた。
愛は隠すことができないものだから。
自身が結ばれることの難しいペイオードに恋情を抱いていたように、シャロンもやはり結ばれることの難しい身分の者に恋情を抱いた。
テネズ・シャロンが恋情を抱く男は著名な詩人とはいえど、とても低い階級のヴェルト・ピエロだった。
テネズが彼と結ばれるには強固な階級の壁を壊さなければならなかった。
それでも彼らにはまだ未来があった。
二人は駆け落ちすることもでき、ヴェルトが何かしらの功績を挙げて階級が上がるかもしれない。
ヘネシーは今日彼らの未来に起こるかもしれなかった僅かな可能性を完全に潰してしまった。
テネズはカレンの王妃となるだろう。
もう天地がひっくり返っても、ヴェルト・ピエロの妻にはなれない。
この全てのことを、
心から国を考えた王として決めることができていたならどれほどよかったか。
私情を挟まずに決めたことだったら、こんなに辛くはなかったはずなのに。
どうしてこんな人間が王座にいないといけないのか……
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