ヘネシーの物語 第1話
ヒストリア王の即位前のことについてはあまり知られていない。
ただ、彼女は幼い頃からカレン王家と交流が深かったことだけは事実と見られている。
亡命したペイオード王子からカレン五世まで、皆彼女と関連があった。
これは、以降のヒストリアの外交に深い影響を及ぼした。
…(中略)
ヒストリアの貴族たちは王家の血統をくまなく調べ、最も力の無さそうな候補を探し出した。
彼女が傍系の血統の末端の辺りにいたカレンのヘネシー・バッテンベルクだった。
元々有力な王位継承者だったナタリーンは、両親の結婚の正当性を否定され継承権を剥奪された。
八百三十六年、ヘネシーはヒストリアの王として即位することになる。
- 『ヒストリア、その最後の王について』より抜粋
八百三十三年九月十二日
八百三十三年頃、まだ少女だったヘネシーはエリッヒに初めて会う。
初めて王宮で彼に会った時、彼女はこんなことを思った。
こんなに小さくてみすぼらしい子がいるの?
カレンの者たちの多くがエリッヒを蔑視していた。
カレン四世は王妃が亡くなってから、自身の庶子たちを王宮に呼び寄せた。
嫡子であるジャケリが健在だったのにも拘わらず。
元々人間性に問題があったジャケリは、一層ひねくれて王宮に集まった庶子たちをなぶり始めた。
その庶子たちの中でも最も下賤な女の息子がエリッヒだった。
だが、ヘネシーはその幼い子供が嫌いではなかった。
可哀想な者たちはどうしてみんな愛おしいのか。
という思いも持っていた。
それで、エリッヒがジャケリに酷いなぶられ方をした時にはきれいな服をプレゼントしたり、 傷によく効く薬をエリッヒの部屋のドアの前に置いてあげたりもした。
エリッヒと初めて言葉を交わした日のことも覚えている。
子供の部屋のドアの前にきれいなシャツと軟膏を置いて踵を巡らした日だった。
「キイッ」とドアが開いた音を聞いて、ヘネシーは後ろを振り向いた。
エリッヒはシャツと軟膏を胸にぎゅっと抱いて立っていたが、ヘネシーと目が合うと何か間違いでも犯したかのように頭を深く下げた。
傍らまで歩み寄り、頭を撫でてあげようとすると、エリッヒはぐっと首を引いて縮こまった。
「怖がらなくていいのよ」
ヘネシーは膝をついて子供と目を合わせながら頭を撫でてあげた。
「……そなたはどなたであるか」
これほどまでに怖がり、縮こまりながらも、エリッヒは王子としての威容を保とうとしていた。
その姿が不憫でもあり、おかしくもあり、ヘネシーは無意識のうちに大笑いをしていた。
彼女がなぜ笑っているのか知る由もなかったが、それでもその笑いがエリッヒの緊張を解きほぐしてくれた。
「私はあなたの位置とはなんの関係もない人間よ。だから私と二人の時は楽にしてちょうだい」
ヘネシーはエリッヒの耳元で優しく囁いたあと、彼の髪の毛をむちゃくちゃにかき乱した。
エリッヒはいつの間にか平凡な少年の表情に戻っていた。
しかし、ヘネシーの施しはここまでだった。
薬や新しい服などを与えることもでき、時々優しい言葉をかけることもできた。
時にはこの可哀想な子供に温かい眼差しや微笑みを送ることもできた。
しかし、彼女はジャケリの悪行を止めてくれず、王宮内で送られる蔑視に反発することもなかった。
彼女が本当に愛する可哀想な子供はペイオードだったから。
ジャケリが死亡すると、カレン四世はペイオードを自身の息子だと公表した。
ペイオードはカレン四世と彼の従妹の間に生まれた子だった。
いとこ同士の結婚は不可能ではなかったが、ペイオードが生まれた時は王妃が健在だった。
彼の従妹もやはり別の貴族の妻だったから、二人は不倫関係にあったということだ。
十六年前にペイオードがカレン四世の子だということが明らかになっていたら王室の醜聞となっていただろう。
しかし、ジャケリが死亡した今、王室は多くの庶子たちの争いの場となった。
これからはペイオードの存在は道徳性よりも、どれほど強力な競争相手なのかがより重要だった。
血筋でだけで見ると、ペイオードはそれこそカレン王室の純潔だった。
ペイオードは道徳的ではない出生のせいで幼い頃から遠い親戚であるヘネシーと一緒に育った。
彼についてなら、誰よりもよく知っていると自負しているヘネシーだった。
今この瞬間に、彼がどれほど混乱しているかも理解していた。
庭園の噴水台に腰かけているペイオードの表情が暗かった。
痩せた体格に青白い皮膚、どこか虚ろな眼差しをした少年……
「もう少し大きくなってから公表してくれればよかったのに」
ペイオードの声から無念さが感じられた。
「……よくわからないけど、支持勢力を集めるなら早い方がいいんじゃないの」
「もう少し時間があったらカレンを離れられたのに。僕は王なんかには興味ないんだ」
ペイオードは自身の顔と同じくらいの蒼白な笑みを浮かべながら寂しそうに呟いた。
ヘネシーも彼の言葉に同意した。
ペイオードのように繊細な子が王だなんて……全く似合わなかった。
王になりたい者がこれほど多いのに、なぜこの子まで序列争いに巻き込まれなければいけないのか。
「ヘネシー、もし僕が逃げようと言ったら一緒に逃げてくれるかい」
きらりと光るペイオードの眼差しにヘネシーの心臓が駆け出し始めた。
つまり……もしかしたら……この時からだったのかもしれない。
幼い頃からずっと、どこか悲しく、寂しそうに見えていた子。
王家の人たちの輪にも、いつも加わることができずに浮いていた子。
だから、憐憫に過ぎなかった。
可哀想な者たちは愛しいものだから。
しかし、この時ヘネシーは悟った。
可哀想な者たちが愛しいのではなく、自身の愛する者が可哀想なだけだったと。
「今すぐにでも逃げ出したいのなら一緒に逃げてあげるわ。幼い頃からあなたの世話をしていたのは私だったから」
たった二歳上なだけだったが、それでもヘネシーは大人っぽく言おうと努めた。
できることなら、自身がペイオードの防護壁になりたかったからだ。
彼が頼りにできる人が世界で自分一人だけだったらいいと思ったからだ。
「その言葉だけでもありがたいよ」
「本当に逃げられるかもしれない」
「どうやって?」
「商船にこっそり乗り込むのはどう? 穀物の袋なんかを使えば船の食料品倉庫にこっそり隠れられるんじゃないかな」
ヘネシーの言葉にペイオードの青白い笑みが飛沫のように空気中に拡散した。
彼の薄い笑みがヘネシーの心も乱した。
「はははっ。考えただけでも楽しそうだな」
ひとしきり笑っていたペイオードは噴水台から立ち上がり、ヘネシーの手を握った。
恐らく、自分でうまく切り抜けるからあまり心配するなという意味だったのだろう。
しかし、ヘネシーは一瞬顔が赤くなった。
もしかしたら、握られた手を通して、あまりに速く駆ける心臓の拍動が彼に気付かれないか不安だった。
一度意識し始めた感情の変化をヘネシーさえも制御できなかった。
「それでも僕を支持してくれる人を放ってはおけないだろ。多分、受け入れられるよ」
「ペイオード、私はいつでもあなたの味方だってこと忘れないで!」
ペイオードはわずかに頷いた。
ペイオードがその日のことを思い出したなら、彼は悲感に沈むことだろう。
しかし、ヘネシーはその日、その瞬間を思い出す度に浅い興奮に包まれていた。
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