カレン五世の物語 第6話

八百五十八年


 カレン五世はヒストリアの国境に砲台を配置した。


 カレンはヒストリアと、ザハマンの難民を受け入れないようにする協約を結んだ。

ところが、ヒストリアがこの協約を破ったのだった。

 これを名分として、カレンの軍隊はヒストリアの国境を越えた。


 この摩擦がきっかけとなり、戦争が始まった。

 周辺国ではこれを王室内部の争いと見ていた。

 ヘネシーとカレン五世はずっと協力関係にあり、ヒストリアはテネズ王妃の故郷でもあった。

 結局、適度な線で解決するだろうという安逸な考えが広がっていた。


 しかし、カレン五世の軍隊は止まらなかった。

 二年も経たぬうちにカレンはヒストリアの首都の城壁を包囲した。



 実際、その二年さえもカレンが武器の実験をしながら、

ゆっくりと浸透していったものであり、

ヒストリア側の防御に手こずって時間がかかったものではなかった。

 城壁が包囲されたヒストリアは一か月余り持ちこたえたが、遂には白旗を掲げた。


 八百六十年一月十六日、

ヒストリアの王宮を占拠したカレン五世は接見室でヘネシーと会談していた。

 この日までも、カレンがヒストリアを占領したと思っていた者はいなかった。


 その接見室では戦争に対する賠償の話し合いがされているのだと信じられていたのだった。

 ヘネシーの前には署名されるのを待っている文書が一枚置かれていた。


 「私に王位を譲って命乞いをしろと言うのか」


 ヘネシーはできる限り、卑屈にならぬように努めながらカレン五世を睨みつけた。


 「まさか。そんなわけがない。どうこうしたって、どうせあんたは死ぬ。これはあんたへの配慮だ」

 「いっそのこと、私を処刑して城門の前に死体をかけたらどうだ。お前が死体マニアだってことは万人の知るところじゃないか」


 ヘネシーはせせら笑いを浮かべながら冷めた茶を飲んだ。

 「本当に我々が同じ血筋であることを思わずにはいられないな」

 「何が言いたいんだ」

 「父上は自身の従妹を本当に愛していた。まるであんたがペイオードを想っているように」


 ヘネシーは思わずティーカップを落としてしまった。

 「ガチャン!」

という音とともに冷めていたお茶がヘネシーの前に置かれた覚書を濡らした。


 「私とペイオードは遥かに遠い親戚だ! それに私たちはそんな仲ではない…… よくもそんなことを!」


 ヘネシーはもう一度考えた。

 亡命したペイオードを守るためにテネズをカレン五世と結婚させたのではないと。

 いつかカレンが肥大化した時に備えて、

ヒストリアで別の選択肢を一つ持とうとしただけだと。

 王として、これは当然な政治的選択だったと。


 ……しかし、これが明白な真実なわけはなかった。

 ペイオードが別の選択肢になり得たとしても、

ヘネシーは決してその選択肢を使えなかったはずだ。"


 「あんたはどうしたって死ぬ。死んだ後に城門にかけられようが、土に埋められようが、そんなことは重要ではない」


 カレン五世の言葉はなんの感情もないかのように単調だった


 「だが、ここに署名すればペイオードは死なない。あんたに忠誠を誓った者は皆死なない。私に王位を譲れば、彼らは俺の配下になるのだから」

 「それをどうやって信じろと」

 「お望みなら、夜が明けるまで、一人ずつ、あんたの目の前で処刑することもできる。あんたの言う通り、俺は死体マニアだから」

 「お前に優しくするのではなかった。ジャケリがお前を殺そうとした時、加勢するべきだった!」


 カレン五世はそんなヘネシーをじっと見つめた。

 王宮で出会った人たちの中でヘネシーは彼に親切な方だった。

 あんなお姉さんがいたら、自身の母があんな人だったらと思っていた時もあった。


 しかし、ヘネシーが自身に特別にそうしていたわけではない。

 彼女が親切だったのは生まれつきの性格からのものだった。


 そのため、

将来このようなことが起きると予見できていたとしても、

ジャケリと共に自身を殺せはしなかっただろう。


 カレン五世はテーブルの上で割れたティーカップの破片を腕で床に振り落とし新しい文書を置いた。

 そして、新しいティーカップにお茶を注ぎ、彼女の前に置いた。

 今度はティーカップの横に小さい薬瓶も一緒に置かれていた。


 「ティーカップに三滴ならば、苦しむことはないはずだ」

 「親切すぎて、感動的だな」

 「俺も自分の親切さに驚いてるよ」


 カレン五世の顔に穏やかな微笑みが浮かんだ。

 ヘネシーは微笑みを浮かべる彼の顔が、

まるで泣きべそをかいているように思えた。


 「あんたはテネズとヴェルトの関係を知っていた。それなのにあんたになついていたテネズを俺に送ったよな」

 「……テネズはヴェルトと添い遂げることはできなかった」

 「あんたはテネズが出産のためにヒストリアに滞在していたことも知っていた。そうだろ」

 「私が知らない振りをしていなければ、お前たちはあの時破綻していたはずだ!」

 「この戦争が始まった時、あんたはペイオードを利用することができた。奴を利用して勢力を集めて俺に対抗することもできたし、奴を殺して俺の信頼を得ることもできたはずだ」

 「カレンだって私の母国だ」


ヘネシーの声はだんだん小さくなっていた。


 「なんてことだ……ヘネシー。優柔不断さや思いやりは王の美徳にはなり得ない。俺はペイオードを殺して、あんたを苦しめるためにここに来たのではない。ただ、ヒストリアの領土と技術が必要なだけだ」


 そうしてカレン五世はしばらく考えた。

 ヒストリアの領土と技術が必要なのは事実だった。

 時は熟し、カレン四世の準備が花を咲かせる時がきた。

 カレンが強大な帝国になるためには、当然より多くの領土が、人力が必要だ。

 隣接国であるザハマンとヒストリアを叩くのは当然のことだ。


 だが、それにも拘わらず……


 もし、数年前にペイオードを殺せていたら、

いや、別の人を愛するテネズと結婚していなかったら、

ヘネシーの国を滅亡させようとまでしていただろうか。


 しかし、カレン五世の表情にはこの全てが表れていなかった。

 彼は自身が抱いた疑問と疑念の全てを自分の中に飲み込む人間だった。

 ヘネシーはそれ以上反駁せず、文書に署名した。

 そして、瓶の蓋を開けて薬をティーカップに垂らした。


 「一つだけ訂正する。やはり、ジャケリと共に幼いお前を殺すことはできなかっただろう」

 「知ってるさ」


 ヘネシーはどうしようもないというような寂しい微笑を浮かべ、茶を飲み干した。

 そして、しばらくして、「ドサッ!」とテーブルの端に上体が崩れ落ちた。


 カレン五世は誰かの死の隣に、またも座っている自身を見た。

 母と父、兄弟と数多くの敵……

 自身は果たして誰の横で死を迎えるのだろうか。


 カレン五世はエスルにまたすぐに会うだろう。

 もう十五歳。

 暗殺者であるなら、最初の任務を遂行するのに早過ぎる年齢ではないはずだ。

彼女はペイオードを見つけ出し殺すだろう。

 彼を殺す計画があまりにも延び過ぎてしまっている。

 その時、ドアを開けてノムメルが入ってきた。

 彼は戦場ではない場所で見る死体には全く慣れていなかった。


 「報告があります」

 「少ししたら出る。俺はまだ従姉と終えていない話がある」


 ノムメルはテーブルに突っ伏して冷たくなっていくヘネシーを眺めて思った。

 実はカレン五世も慣れることはないだろうと……


 ノムメルは未だに、雨に降られた小屋の中にエリッヒを記憶している。

 もしかしたら、この子はまだ最初の死と決別できていないのかもしれない。

 しかし、臣下になった者は王に同情してはいけない。

 ノムメルは静かに外に出るしかなかった。

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