カレン五世の物語 第2話
八百三十三年九月十二日
エリッヒが入宮してから三年、王妃が死亡してからは五年が過ぎていた。
カレンの王家は紛糾した状態だった。
王妃の椅子は五年が過ぎても空席であった。
様々な階層の女性たちから生まれたカレン四世の子供たちが入宮したためだ。
その中の誰かの母親が王妃の椅子に座ることになる。
既に成年となった王世子のジャケリがいるのにも拘わらず、それぞれが顔色を伺いながら列をなしていた。
ジャケリが陰険な性格で王としての資質に欠けるということも一因だった。
また、王世子問題において、カレン四世の口はいつも重かった。
もし、カレン四世がこれほど強靭で偉大な王じゃなかったらカレンの王家はめちゃくちゃになっていたことだろう。
しかし、彼が偉大な王であるがため、彼がいなくなった状況に対する不安はより大きかった。
もし、王が急にお亡くなりになられたら一体どうなるのだろうか……。
こんな状況で下級階層の、それも亡くなった女性の子であるエリッヒは、依然として何者でもない状態だった。
この間にノムメルは士官学校を卒業してエリッヒの師範となった。
師範といっても実際は王宮内でエリッヒの世話をするのが役目だった。
当時、エリッヒは自分の面倒を見てくれる乳母や下女もいない状況だった。
八百三十三年九月十二日の正午を過ぎた時だった。
その時、ノムメルは早足でエリッヒの元に向かっていた。
朝からべろべろに酔っぱらったジャケリが幼いエリッヒに乱暴していたためだ。
エリッヒの部屋の前に立っている警備隊員たちはノムメルが来ると背筋を伸ばした。
「誰も入れるなとおっしゃいました」
「王世子様は密室でこそこそと何をされようというのだ」
「そ、それが……エリッヒ様と決闘されるのだと……」
ノムメルは溜息をついて首を振った。
エリッヒはやっと八歳になったところだ。
腹違いとはいえ、十五歳も幼い弟を相手に一体何をしているのか。
後ろ盾のある子供相手には何もできないくせに。
ノムメルは目くばせをして警備隊員を退かせて中に入った。
片手にワインの瓶を持ち、シャツをはだけた姿で、 もう片手に剣を掲げたジャケリがエリッヒを威嚇していた。
ノムメルは警備隊員たちをその場から離れさせて扉を閉めた。
「王世子様、これは一体どういうことですか」
「父上がお望みのことだ。父上は強き者を大切にされてるではないか」
「陛下は酒に酔った戦士を望まれていません」
「戦士? 戯言をいうな! 父上はただ我々が殺しあうことをお望みだ!」
ジャケリは王家の模様が刻まれた剣を宙で振り回しながら、にたっと笑ってみせた。
「だから、この私生児どもを宮廷に集めたのではないのか」
「お言葉が過ぎます。私生児だなんて」
「あの汚らしい母親たちを見たか。奴らが絶対に父上の子だと貴様は信じてるのか」
「ジャケリ様!」
「俺が王世子だ。俺が正式な王世子だ!」
ノムメルはさっとジャケリの前へと進んだ。
その汚い母さえもエリッヒにはいない。
この宮中で知っている人が自分しかいない幼い子。
その上、父の顔さえも入宮した日に一度見たきりだ。
こんなことが一度や二度ではなかった。
ジャケリはエリッヒの料理に毒を入れたこともあり、傷が残るほど殴りつけたこともあった。
そして、少しずつ度が増していった。
いつか本当にエリッヒを殺すかもしれない。
母親の後ろ盾のある王世子に見せしめをするため、最も弱い子供を殺すかもしれない。
今日が……その日になってはいけない。
「貴様が口をはさむことではない。これは王世子同士の高潔な決闘だからな!」
ジャケリはにたにたと笑いながら、今度は本当にエリッヒに向けて剣を振り下ろした。
たとえ酒に酔っていたとしても、 剣の刃は本物だ。
ノムメルは咄嗟にエリッヒの前に立ち、ふらついたジャケリは振り下ろした剣を床に落とした。
ノムメルの足の前に落ちた剣の柄に威容堂々たるカレンの模様が見えた。
酔いどれていても王家の資格は逃したくなかったのか。
王の資格のない王世子の人生なんて、それだけでどんなに卑しいものだろうか!
そして、ノムメルの後ろでエリッヒが震えを抑えながらまっすぐ立っていた。
真っ青になった唇をぎゅっと噛み締めているが、それが怒りなのか、恐怖なのか、羞恥なのかはわからなかった。
ノムメルは剣を拾い上げてジャケリに手渡そうとした。
その時、ジャケリは腰に帯びていたリボルバーを手にした。
王家の決闘はいくら形式的だといっても、剣でのみ可能だった。
決闘では殺人も認められるというが、それはあくまでも建前だった。
しかし、銃を使うとなれば話が違う。
それに、銃声が鳴り響けば警備隊員が全員集結するだろう。
ジャケリもただではいられないが、この事態の主人公であるエリッヒも無事ではいられないだろう。
「この幼く不幸なガキを見ろ! こいつらが大人になったらどうなるのか知ってるか」
「ジャケリ様、落ち着いてください!」
「こいつらが大人になったら俺のようになるんだ! だから、俺がここで終わらせてやるのさ」
ノムメルがジャケリを止めようとしたが、彼は既に引き金を引こうとしていた。
エリッヒとの間隔は一メートルもなかった。
ノムメルは素早く自身が手にしていた剣でジャケリを刺した。
剣術においてもいつも優秀な成績を収めていたノムメルは、どこを刺せば致命傷になるかよくわかっていた。
そのため、傷だけを負わせようとしたというのは噓だった。
左胸を深く貫かれたジャケリは暫く瞳孔が散大し、すぐに床に崩れ落ちた。
喘いでいた息も長く続かず静かになった。
恐れ多くも王世子を殺害するとは……
いくらノムメルといえど二十四時間エリッヒを警護することはできなかった。
恐らく、エリッヒに対する愛情が、彼を過激にさせたのだろう。
ノムメルは突然体を流れている血が冷たくなるのを感じた。
事は起こってしまい、後は収拾をしなくてはならない時間だ。
彼はゆっくりと振り返り、エリッヒを見つめた。
ジャケリが崩れ落ちながらエリッヒに噴き出す自身の熱い血を浴びせたのか血だらけだった。
エリッヒはその場でわなわな震えていた。
捨てられた王の息子は王宮の外では汚物を被り、王宮の中では血を被るんだな。
「王子様、お怪我はないですか」
「お前は言った。王宮に入れば、僕も当然ほかの王子と同じ権利を持つと」
「その通りです」
「それなら、僕にも王になる資格がある」
「その通りです」
いいえ……あなたには王になる資格はありません。
誰もあなたにはそんな機会を与えないでしょう。
あなたの目標は王になることではなく、生き残ることです。
ただ、静かにこの王宮を去ることです。
とノムメルは心の中で呟いた。
「ならば僕は必ず王になる。お前は僕が王になることを信じるか」
小さく、みすぼらしい、ある意味卑しさもある少年。
朽ちかけた掘っ立て小屋からノムメルの手によって直接救い出された子供。
彼はすぐに答えられずに、エリッヒの前で静かに跪いた。
八歳の子供の言葉はどんなに威厳に溢れたものであっても弱弱しいものだった。
八歳の子供がどんなに勇気を出したとしても震えまでは隠せなかった。"
それでも子供は、再度声に力を入れてノムメルに訊いた。
「お前にもう一度訊く。僕が王になれると本当に信じるか」
ノムメルは震えている小さな子供を見た。
すぐにはとても答えられず、しばらく彼を見つめていた。
遠い将来、もしかしたら今日のこの返答を後悔することになるかもしれない。
この子供が王になるなら、それまでに経なければならない苦難がどれほどのものなのか想像もつかない。
その過程の中で、この子供は結局駄目になってしまうだろう。
しかし、この瞬間が何度訪れたとしても、やはり…… ノムメルはこう答えるしかなかった。
「……その通りです。あなたは私の王になられます」
「それなら、今から僕はお前の王だ。お前は僕の最初の臣下だ」
エリッヒは目を一度閉じてから開き、ジャケリの死体を眺めながら言った。
「兄上に刺さっている剣を抜いてこい」
「はい?」
「僕はまだ力がなくて、あの剣を抜けないから抜いてこい」
ノムメルはそれ以上訊かず、ジャケリの体に刺さっていた王家の剣を抜いた。
生まれ落ちてから初めて刃物を咥えたジャケリの胸の皮はすぐに剣を離そうとはしなかった。
剣を回しながら抜いた瞬間、再びジャケリの血が噴き出した。
彼の死体は最後のあがきでもするかのように、再びのたくっているようだった。
エリッヒはノムメルから王家の剣を受け取った。
子供は大きくて重い、まるで自身の人生のような剣の重さを受け入れた。
「王に伝えろ。僕と兄上の決闘は僕の勝利で終わったと」
カレン四世は許さないだろう。
いくらならず者のような息子でも、正式な王妃の実子はジャケリただ一人だ。
彼の言う通り、たくさんの王子たちはジャケリを成長させるために連れてきたのかもしれない。
ノムメルは、もしかしたら軍人としての自身の人生がここで終わるかもしれないと思った。
エリッヒがジャケリを決闘の末に殺したなんてふざけた話を誰が信じるだろうか。
どうすれば罰を受けずに済むのか……
ノムメルはエリッヒを見つめた。
子供は依然として震えながら剣を持っていた。
血に濡れた顔を拭おうともせずに。
今度はノムメルの血が熱く沸き上がった。
今日、彼は俺の王になると言った。
ノムメルはエリッヒを見つめながら、静かに頷き扉の外に出ていった。
事は起こってしまい、後は本当に収拾をしなくてはならない時間だ。
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