カレン五世の物語 第3話

八百四十四年十二月二十八日


 ジャケリの事件は信じられないくらい大事にならなかった。

 ノムメルが状況の報告をした時、カレン 四世は決闘に証人がいるのかという問いだけを投げかけた。

 ノムメルは自身が証人だと証言した。

 そして、カレンの歴史に王子同士の決闘でエリッヒが勝利したという、僅か一行が記録されただけだった。


 その後、八歳のエリッヒの剣術の腕が凄まじいという噂が広まり始めた。

 こうして目立つと、当然警戒する対象も増えることになる。


 それ以降、ノムメルは植民地での戦闘に出征するたびにエリッヒを連れて行った。

 事実上、戦時下であったため、幼い王子が行くべきところではなかった。


 それでも、ノムメルは幼いエリッヒが自身の目の届くところにいた方が遥かに安全だと思っていた。

 また、エリッヒは貪欲な学生でもあった。

 何でも早く吸収し、一度覚えたことは必ず実践しようとしていた。


 いつからだったか、カレンの植民地の兵士たちは王子の加護を受けているという噂が広まった。

 銃と剣に慣れた後のエリッヒはいつも兵士たちと共にいた。

 それはカレン四世が軍制改革を進めながら兵士たちと苦楽を共にしていたことと酷似した行動だった。

 エリッヒの腹違いの兄弟たちが王室で暗闘を繰り広げている間、彼は実戦で名声を築いていた。

 ノムメルをはじめとした、植民地での戦闘で活躍している兵士たちは皆エリッヒを支持するようになった。


 八百四十二年、年老いたカレン四世は執務中に倒れて病床に伏せた後、二度と起き上がることはなかった。

 そして、二年余り寝たきりだった彼は最後まで王世子を決めることはなかった。

 カレン四世が病床に伏せた年からエリッヒは王宮に残った。


 当時、植民地では少しずつ帝国間の紛争が始まっていた。

 そのため、ノムメルは二年間王宮に戻れずにいた。


 ノムメルはエリッヒを王宮で一人にしておきたくなかった。

 既に十代後半になったエリッヒは、これ以上ノムメルの保護が必要なほど弱くはなかったのにも拘わらず。

 ノムメルにとってエリッヒは長い間、彼の背の後ろで震えている小さく弱い子供だったからだ。


 しかし、ノムメルはエリッヒの行動を阻止できなかった。

 エリッヒは彼の王であり、従って彼はエリッヒの命令を受ける立場にあった。

 その二年間、多くの王子たちが消えた。

 原因のはっきりとしない失踪や死亡が連続して発生していた。


 ああ……どれほど多くの母親が胸を引き裂かれる思いをしただろうか。

 彼女らの怨念は死の淵にいるカレン四世に向かった。

 こんなことになったのはあの老いた王が最後まで王妃を決めなかったからだ。

 あの老いた王が最後まで胸の内を明かさなかったためだ。


 しかし、怨念だけでは何も変わらないものだ。

 最後にペイオードという王子がヒストリアに亡命をし、王世子候補はエリッヒしか残っていなかった。

 この事態は全てエリッヒが計画したという噂もあり、王子同士の暗闘の中で全く警戒されていなかった彼が漁夫の利で王冠を手にしたという噂もあった。


 もちろん、何が正しい真実なのかは誰にもわからなかった。

 重要なことはカレン四世の命の火が消えようとしていたその夜、彼に謁見することができた王子はエリッヒだけだったということだ。


 病床生活も日常のものとなった八百四十四年十二月二十八日。

 カレン四世は家臣を皆部屋から出させ、エリッヒを呼びつけた。

 巨大な古木が倒れ行く瞬間だった。


 「この年老いた男は俺の父なのか。それとも俺の王なのか。それでもなければ俺の敵なのか。


 エリッヒは黙って彼を見つめた。

 「王になりたいか」


 絶えそうな息をしながらカレン四世がエリッヒに訊いた。

 エリッヒは無意識のうちににやりと笑ってしまった。

 王になりたいかだって?


 あぁ父上。

 私は王になりたくてこの王宮に来たわけではありません。

 あなたが私を王宮に招き入れたので王になるしかなかったのです。


 エリッヒの沈黙にカレン四世が再び苦しそうに口を開いた。


 「我が息子よ。 俺はお前に王冠を被って欲しくない。お前にその資格がないからというわけではない。理解してくれるか」

 「理解できません」

 「初めはわからなかったが、今となってはわかる。お前は俺に似すぎている。だから、俺と同じ人生を歩むことになるだろう。我が国の王冠はいつも生臭い死体の上にのみ存在している。お前は至極孤独となるだろう」


 吐き気が込み上げた。

 今になってなんという戯れ言だ。

 生臭い死体は王冠を被る前から既に溢れかえっている。


 「父上。私はあなたの跡を継ぐ王になります。度が過ぎることなく、それ相応の王になります。」

 「ならば、俺から王冠を奪っていけ。俺の死体が、王となったお前の道の最初の踏み台となるだろう。それができるか……。それができるのなら、王冠を手にする資格があるということだ。」


 カレン四世の荒い息が静かな部屋に響いた。

 彼が今日か明日の命だということを知らぬ者はいなかった。

 また、王位を継ぐ者はエリッヒだけだということを知らぬ者もいなかった。

 エリッヒはしばらく父の荒い息をただ聞いていた。


 それでも、この男はあのぬかるみから俺を救い出してくれた。

 険しく血生臭い道とはいえ道を示してくれた。

 結果的に自身の王座を俺に譲ることになる。

 だから父上、俺はあなたの息子であることは間違いない。


 その瞬間、エリッヒの胸に熱いものがぐっと込み上げ、彼は歯を食いしばらなければならなかった。


 エリッヒは極めてゆっくりと父に近づき、彼の顔を見下ろしながら枕を持ち上げた。

 自身を殺して王冠を奪っていけという父の遺志を汲むためだった。


 放っておいても数日のうちにこの男は死ぬだろう。

 しかし、ここで彼の息の根を止めなければならない。

 俺はそうして父の跡を継ぐ王になるのだから。


 エリッヒは枕をカレン四世の顔に押し付けながら、小さな声で彼の耳に囁いた。


 「あなたが本当に望んでいた息子はペイオードだということは知っています。彼を亡命させたのも、いつか彼を殺すのも私です。悲しくもあなたの死体は、私の踏み台になるには遅すぎました」


 カレン四世の微弱な息が絶える瞬間、彼は何を考えていたのだろうか。


 本当に愛していた従妹との間に生まれた子供であるペイオードの安寧を祈っていたのだろうか。

 それとも、エリッヒの母を思い出していたのだろうか。


 かつてあれほど偉大だった王が息子の手にかけられた時、そして自身のように生きることになる息子の未来が見えた時、一体どんな気持ちだったのだろうか。


 だらり……

 カレン四世の腕がベッドの外に垂れた。


 エリッヒはいざ殺してみたら、王冠の重さから逃れることもできるのではないかと思った。

 ベッドの横にぶら下がっている父の腕がやけに細く、軽そうに見えたからだ。

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