Second Wave

チャレンジャーズ

カレン五世の物語 第1話

八百三十年七月二十一日


 「王子様が既にたくさんいらっしゃるのに、敢えてその方をお迎えする必要があるのでしょうか」

 「……あの子も私の息子だ」


 カレン四世の言葉に大臣は口を閉じた。

 横にいたノムメルも大臣と同じ考えだった。


 しかし、まだ任官も受けていない幼い生徒だったノムメルは、ただ指示通りに事を進めるしかなかった。

 ノムメルが受けた命令はエリッヒを秘密裏に王宮に連れてくるものだった。


 実際、秘密裏と言うほど大層なものではなかった。

 王子ともあろう人を、ただの士官生徒一人に任せるところを見ると、どうせ誰も気にしていないという意味だった。


 このように他国坊主に国侍のような扱いをする人を……

エリッヒに向かうノムメルの最初の一歩はこのように気乗りがしないものだった。

 ノムメルが向かった場所は旧都心の浮浪者たちが集まる路地だった。

 ノムメルは高い身分やとてつもない富を手に生まれたわけではなかったが、こういう路地に慣れているほど不幸な身でもなかった。

 雨が降っていた。


 貧しい身の者にとって雨というものは悪魔の嘔吐物と変わりなかった。


 雨は整備されていない道路をぬかるみにして全ての排泄物を道路に吐き出した。


 また、長い梅雨時期には毎年伝染病が猛威を振るった。


 ノムメルは自分でも気づかぬうちにエリッヒをこの雨と同一視していることに気が付いた。

 もしかして、いつか疫病のような存在になるのかもしれないな……


 下水の匂いに顔をしかめながら至る所を探し回り、やっとのことでエリッヒを見つけた。

 そこは、家といえるものではなかった。

 物置小屋や倉庫に近い空間に辛うじて軒先がついているような代物だった。

 そして、ノムメルが到着した時、なんとも形容しがたい匂いが漂い始めた。


 小屋の隅に獣のようにうずくまっている五歳のエリッヒの横に

腐りかけの死体が一体放置されていた。

 ノムメルは自分でも知らないうちにエリッヒを抱き上げて外に飛び出していた。


 あの子も私の息子だ。

 あの子も私の息子だ……


 カレン四世の言葉がノムメルの耳元で木霊しているようだった。

 あなたの息子であるなら、せめて生母の葬礼くらいはするべきなのではないか。

 たとえ、生母が卑しい身分の女性だったとしても。

 こんな扱いをしておいて、どうしてこの子を呼び寄せるのだろうか。ノムメルは唇をぐっと嚙み締めた。


 ノムメルの立場から見たカレン四世は偉大な王だった。

 アーケイン鉱石が豊富ではないカレンは産業革命以降、国力が衰退する恐れがあった。

 このような状況でカレン四世は最も早く軍制改革を実施した。

 彼はレス・ディマスのように傭兵を雇用する代わりに常備軍制度に手を加えた。


 王室と貴族たちが贅沢することを禁じ、新しい武器の開発や軍隊養成に相当な額の予算を投入した。

 一部の貴族たちの反発もあったが、カレン四世は彼らに介意することなく軍隊改革を推し進めた。


 ノムメルが士官学校に入ったのは、おそらくカレン四世のこのような姿に影響されてのことだろう。


 ……そんな人間だったからこそ、家族のことは気にしないのかもしれない。


 物思いに耽ったノムメルの耳元に幼いエリッヒの息がかかった。

 そういえば、子供の体から熱が感じられる。

 それでも、エリッヒはなんの不平も言わず、ノムメルに大人しく抱かれていた。

 冷静になったノムメルはエリッヒを胸から降ろした。

 誰が見ても五歳くらいにしか見えない、小さく幼い子供がノムメルの前に立っていた。


 煤がこびりついて汚れた服を着て、母の死体の横に木石のように座っていたが、それでも泣いてはいなかった五歳のエリッヒ。


 「これから王宮にお入りになって、王子様に成られるんですよ」


 ノムメルは片膝をついて、目線をエリッヒの高さに合わせた。


 「そうしたら、あなたも他の王子様たちと同じ権利を持つことになるのだから臆することはありませんよ」


 エリッヒは小屋の方を見つめていたが 、一度頷いてからノムメルの手を握った。


 まだ、雨は止んでいなかった。

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