第35話 伯井の過去−④

「クーリャ!」階段を駆け上がると同時に、ドアを開けて叫んだ。


「渉……大学とやらは」女王がキッチンから振り返った。


「絶対外に出るな!厄介な事になる」


「よく分からないが」とクーリャは首を傾げて大人しく蛇口を閉めた。


 見れば食器だったものが散乱している。見れば食器はほぼ全滅状態。まだ森嶋は来ていない。


「良かった」と渉はクーリャの細い躰を抱きしめた。クーリャの目がぱちりと開く。


「ともかく」と渉は背の高いクーリャを抱いたまま、きつい声音で言おうとして、玄関でのドアのノック音に気がついた。檸檬だ。クーリャの触覚がぴくりと動いた。


「開けるな。女王たる神経がささくれ立っている。そんな馬鹿な……」


 クーリャはドアを見つめた。

「ドアの向こうにいるのは、女王バチだ」

「は? いや、あれは俺の元彼女だ。蜂じゃないし」


「蜂だ。それも凶悪な蜂」


 あのさあ!と渉が文句を言おうとして、クーリャの擬態が溶けているのにぎくっとした。


「うううううう」


 クーリャは身をよじり、金色の目を怒りに滾らせている。擬態が熔けかけていた。羽がうっすら。右側だけだが、透けた翅が2対4枚。後ろの翅は前の翅より小さく、初めて見た姿に渉は思わず忘れていた。


 ――蜂だ。


 檸檬はまだ合い鍵を持っており、駆け込んだ拍子にチェーンをかけて置かなかったこと。蜂が咆吼した。女王の麗しい声は微塵もない。生き残りを懸けて生きた女王の叫びだった。


「殺す。私の巣に入り込む寄生蜂が! 私には、巣を護る義務がある!」


 ドサリと玄関で檸檬が鞄を落とす音が響いた。え、と檸檬が渉を伺う。渉はこれまでかと眼鏡を外して、檸檬に説明しようと背中を向けた。


だが、どう説明する? アイドマの話はできない。檸檬、声が震えている。はやく。はやく説明をと気が逸るのに、言葉が出ない。 


「どうして?! 渉はね! 蜂に両親を殺されているのよ! だから、彼は蜂の社会を勉強して。いつかそんな蜂の被害を失くそうと努力しているのに!」


「……殺された?」


 衝撃を受けたせいか、クーリャの姿は元に戻った。檸檬は嘘でしょ・・・と座り込んでしまい、涙を浮かべて渉を見やっている。


「なに、あの、化け物・・・・・・渉・・・」


「化け物と言ったか・・・?今」


***


 クーリャの脳裏に過去が過ぎる。女王として生まれて、束縛と賞賛を手に入れたクーリャはその日、天空で男たちが戦っているのを眺めていた。


男蜂は戦い、はるか天空にいる女王の元へと昇って来る。登り切ったものだけに、女王との生殖は赦される。女王の生き甲斐を噛み締める一瞬だ。


 そこにもう一匹の女王蜂が急襲してきた。国はあっという間に乗っ取られ、その女王蜂は新たな女王物質(queen substance)の元、国を建築した。クーリャの責任は大きかった。


女王が別の女王の女王物質(queen substance)を許したのだ。


 目の前の女はその時の女王蜂と同じ匂いを発しているではないか! 


「何故、言わなかった」


 女王の瞳が悲しみに染まるなど有り得ない。


「私が傍にいて苦痛だと、何故言わぬ! そんなに己を痛めつけて何とする!それがおまえの優しさか! AIDMA・・・許さない。何故こんな・・・こんな男に引き合わせる・・・」


 何故、渉なのだ。誰が結びつけた。


 ――やはりこの星は要らない。

早々に宿り、すべての生物を蜂に変え、女王として未来を再生するとしよう。だが、あの女に産卵するなど吐き気がする。産卵するなら、渉がいい。


 二人の視線がぴたりと合った。クーリャは膝をついてしまう。


(出来るわけがない。わたしの存在は渉の悲しみの象徴だ……)


 クーリャは目を伏せると、一匹の蜂になった。


 小さな蜂に姿を変えたクーリャは窓の隙間から外に逃げるしかなかった。


***


「クーリャ!」

「蜂になった?」


「そこまでだ。とんだ茶番だった。この俺が読み間違いとは」


 どさりと檸檬が倒れ込む。背後にTAKUが立っていた。


「面倒を起こすなと言っても女王は聞きやしない。坂巻渉。宝生檸檬と森嶋都の記憶を消してやる。AIDMAの記憶はろくな未来を呼ばないからな。これは騒がせた詫びだ。森嶋は惜しい人材だが、檸檬と同様に知りすぎている。これで恋愛契約は続行となる」


 ぴ、と片手ほどの白い機械を取り出すと、監理人は倒れた檸檬にしゃがみ込み、こめかみにそれを当てた。どういう仕組みになっているのだろう。


「消去。彼女はおまえを訪ねたところからリプレイする。適当に話を合わせろ」


「もう嫌だ」


「嫌だと?……臆病者が」


 監理人持つ機械が、渉の口に押し込まれた。


「では消すか? 記憶すべて。ただし、おまえの場合、根強く残る蜂の関連もすべて消える。むしろ廃人に近くなる。坂巻、逃げた先に何があるんだ。おまえも気づいているだろう。クーリャを救えるのは誰か。それほど、おまえのなかでの蜂の記憶は根強い」


「でもクーリャは!」


「救える方法があるのに気づかないのか? クーリャは逃げてなぞいない。女王が見下げた行動だな!ハチビリス=イースト女王よ」


 もぞ・・・とベランダで頭が動いた。


(そこに、いたのか)とほっとして、渉はたったひとつの言葉に反応した。


「救える方法がある……」


 監理人は初めて微笑むと、渉に向かって頷いた。


「蜂の生態におまえは詳しい。おまえしか出来ない方法で、クーリャを解放してやれ」


「でも交尾なんて!無理だ。それに少し怖い」


「クーリャが抱いていてくれる。万物の母たる女王だ。坂巻、地球にとって、宇宙生物との共存は憧れで夢だったんだ。だが、誰も成し遂げてはいない。それこそがおまえの望みなのだと、いい加減に諦めて受け入れるのだな。逃げようが、逃げまいが未来は変わらない」


 ――共存・・・・・・。


 やがて檸檬が目を覚まし、話があると言ったが、渉は断った。それでも檸檬は必死で渉に取りすがった。檸檬の記憶は消され、ただ、渉への憤りだけが残されたのだ。森嶋の方は分からない。檸檬の心からは森嶋の存在は消えてしまっていた。わけもわからない理由は、綻びのまま、嘘で塗られたようで。


「違うの! あなたのためにしたことなの!…でも、私が好きなのは…」

「帰れ」

「中に誰かがいるの…?」


 泣きそうな表情に渉は顔を背けて、言った。


「…きみには関係ない。僕は逃げないと誓った。だからさよなら、檸檬。僕はもうただ、彼女を大切にしたい。そう思って否定していたんだ。何だろうと関係ない。きみよりは優しいよ」

 檸檬は何も言わない。抱きしめあう向こうでドアが静かに締まるのが分かった。


「いいのか?私はおまえの中に産卵するつもりでいるのだぞ」


 渉はシャツを脱ぎかけて諦めの極地になった。蜂だろうと、何だろうと。クーリャを……僕は。


「ヤドリバチだろ・・・・・・大して美味しくないだろうけどね」


「優しいいい蜂がたくさん生まれる。そうだな、時には人間の手伝いなどもするかも知れない。共存は私の夢でもあるんだ。おまえといて思い出した。私の先祖は地球にいた。しかし人間と相容れず、いつしか宇宙に姿を消した。そんな気がする」


「共存は僕の最終目的だ。人間が蜂の食料を奪うような世の中だよ。でも、きみと僕ならば出来る気がする。例え終わったとしてもね。檸檬を捨てたんだ。臆病者はもうヤメだ」


***


 女王の目から初めて涙がこぼれ落ちた。涙が落ちるごとに、本来の女王の姿に擬態は溶けてゆく。


「わたしの本当の姿を見ても、そう言えるか」


「すでに知ってる。節が12節。高度な蜂にしかない特徴だ。すなわち貴方は女王なんだ」


「おまえの両親は蜂で死んだという事だったな。そんなおまえに愛されようとしたのが間違いだ。既に、女王を終われた私には女王物質(queen substance)はもうない。おまえを引き付けるものはもうない」


「女王物質(queen substance)だけじゃないって啖呵切った女王はどこの誰だよ」


 どうして相手が渉なのか。…時には生を憎しむ力は強い想いと混同する。蜂を恨んでいるようで、どうしていいかわからない葛藤の中に坂巻渉は一人、取り残されていた。


だから、引き寄せられた…女王たる自分が引き寄せられた屈辱の事実は確かにある。そしてそれを監理人とAIDMAは見抜いていたと言うことだ。


 だが、それは恋じゃない。盲目で、愚かな幻覚だ。それでも。女王の目的が果たされる。この男に宿り、永遠を共有する。



「わたしはおまえがいい。果てるなら、おまえの中で果てたい」


***


「生まれた時、わたしはすぐに「王台」という特別な部屋に閉じ込められた。そこで、栄養を蓄え、交尾相手を待つ。生まれた子供たちはすぐに働いて……しかし、何十年後には今度は交尾相手になるのさ。そんなわたしが、青い空を見上げているのが不思議でならない」


「俺も、まさか憎んでいる相手を抱くとはね……それも、蜂の女王なんて俺の天敵じゃないか」


「おまえは蜂の呪縛から、解き放たれるんだ。…わたしだと思えば、怖くないのだろ?」


 気高い声、気高い瞳。瞳の中に銀河を見る。その銀河はゆっくりと遠ざかり、黒に染まって行き。


「イテ」


 気がつけば、女王の針が腕に刺さっている。驚きで渉は目を見開いた。


 クーリャの針には小さな反しが付着していた。


(ヤドリバチだと思っていた)


 何故かあのレストランでの靴紐を思い出す。引っかかって無理矢理ぶち切った挙げ句、廃棄した靴。


クーリャが腕を絡ませたまま、寂しく笑った。


「私がヤドリバチだという考察は良かったが、蜂蜜で気づいて欲しかったね。ヤドリバチは蜂蜜など必要としない。蜂蜜を食べることは出来ない。仲間の体液だからだ」


 渉は見落とした文献の一文を今頃思い出していた。



『また、ミツバチの針には返し棘があり、皮膚に刺さると抜けなくなり、無理に抜けば毒腺ごと抜けて、ハチは死ぬ。ミツバチはそれほどの覚悟を持って生きているからだ。目的を達成できないと悟ったときに彼らは自殺行為を行うのだ』


(そうだ!あの時は蜂蜜の文面にばかり気が行ってしまっていて・・・確かに読んだのに!)


「クーリャ!きみはミツバチの類いか!」


 クーリャはふと笑って、頷いた。


「わたしは地球人をエサに、この地球でやり直そうと思って来た。なのに、あたたかな誰かに確かに愛されながら死にたいと、今そう思った。長らえれば永らえるだけ、待つのは孤独と犠牲だ。他の者を犠牲にして、生きることになんの意義があろう? 人の不幸に塗り重ねた幸福は本当に幸福なのか? わたしには解らなくなった。おまえの呪縛はわたしが夜空に持って行く。蜂を恨む事など、二度とないように」


 だからおまえに宿りたいと蜂の擬態が溶けたクーリャが小さく囁く。


「おまえには分からないか? 女王が宿るための行為をするということは、名誉だ。蜂は生物で一番気高いのだ。その女王が地球の中で、おまえを選んだ。何故泣く」


「あんたが死んだら、自分自身をもっと恨むことになる」


「やはりおまえは変わっている。いつか、わたしとおまえが共存できる道を一緒に探そう」


 蜂と人間。

地球人と宇宙人。

牡と雌。


 数多の障害が常に横たわっている。


「さあ、おまえの体に産卵する。イヤなら、毒が回る前に手に刺した針を引きちぎれ」


 針を引きちぎるという事は、体内の神経と内臓を破壊すること。毒を注ぐか、その針に直結させた内臓の動きを止めるか。毒針は常にどちらかの選択を迫られる。


 その覚悟で女王は針を刺した。


 気高いミツバチの派生種族。ハチビリス=イーストの最期の女王。名をクーリャと言う。


 キスした瞬間、その手を強く引いた。針が抜ける。


タイムリミットを時計は迎えていた。


 ……渉。


 わたしは消えないよ。何故って、おまえの中に宿り続けることが出来るから。とっくに産卵の時期は過ぎていた。わたしはそれに気がついて絶望した。


それでも、わたしがおまえに宿したものは尊いものだ。


共存しよう。ずっと、ずうっと……。



 女王の亡骸を丁寧にシーツで包み、階段をそっと下りて、ゆっくりと外に出ると、空は夕暮れを迎えていた。涙で濡れた頬に風が当たる。玄関に見覚えのある車と男が立っていた。


 更にマンションの玄関ポーチの柱の陰。檸檬が立っているのが目に入るが、渉は見向きもせずに歩いてTAKUに包みを差しだした。


「ご苦労だった、礼を言う。最後で臆病者返上か」


 無言の渉から女王の亡骸を引き取ると、TAKUは相変わらず感情を押し殺したような声音で続いた。


「おまえの首に微量だが、女王物質(queen substance)が塗られているぞ。そいつを塗られれば、蜂は相手を女王と思う。だが、運悪く女王蜂に見つかれば、一発で死ぬ。クーリャ女王の最期の執念か」


「違います。これは彼女が願った共存ですよ……僕はもう蜂には怯えない。僕自身が女王だから」


 声が震えた。生物の死に立ち会った心は同じ痛みを抱えてこれからもゆくのだろう。思えば女王は地球を滅ぼすつもりなどなく、ただ、誰かと共存したかったのではないだろうか。だが、その答えはもうどこにもない。


 それでも、きっと坂巻渉の中にはクーリャが宿った。宇宙最期の絶滅種の尊い蜂の想いが。


「もしもおまえが女王になったらどうする」


 渉は驚いた風でもなく、ゆっくりと厚い唇を開いた。


「共存への明日が繋がるだけですよ。それが願いなら・・・僕はもっと勉強しなければいけない」


「おかしな男だな。そいつはおまえが大嫌いで、憎んでいた蜂の女王だぞ。それも、過去、彗星の激突と同時に地球に蜂を生み出した元凶のね。ハチビリス=イーストの方が歴史が長い。今年、その彗星が数千年ぶりに近づいた。そいつはミツバチとヤドリバチの一種だ。交尾して、人間を養分にして繁殖する。勿論相手を喰えなければ死す。おまえの事は食えず、その命を果たしたのだ。見事だ。地球にとって生物の宿り問題は脅威だ。ウイルスや細菌のように。女王をおまえは消してくれた。こいつは生きていては困る存在だった。さあ、十億だ」


 報酬だと差し出されたアタッシュケース。一度は受け取ったが、渉はそっと押し返した。


「十億で、買いたいものがあるんですが」


 いつか記憶は消える。それでも、いい。


 やがてクーリャを乗せた車は静かに目の前から走り去った。



 ***



「渉…」


 夜空の下。星が瞬いている。


彗星がもっとも近づいた夜は静かに過ぎゆく。時折あの蜂の女王との思い出が過っては消える。記憶を買ったが、十億と禁忌の記憶ではどちらが上か。


(これが共存だ。クーリャ女王――……僕は蜂に怯えない)


 きみを知ったから。

 逢えて良かった……。


 檸檬の手を払い、渉はゆっくりと夜空を見上げて歩いた。


 その手に駆け寄った檸檬の温かい手が触れた時、頬に一縷涙が流れて行った。


 涙は、あたかも夜空の彗星のように空気に消えた。その涙は数億の世界を映し出した。


『一雫の中に那由多の時間が流れているんだ』


 いつか聞いた声ーーー

『覚えていないのか? きみは自分を』


 それはランドルになった。

 蒼桐は唇を噛み締めた。心から湧き上がる悔しさと羨望でぐちゃぐちゃになりそうだった。

 口にしなければーーー耐えられない。


「飛鳥をーー獲らないで」


 ケロリとした「いや、獲らないが」という伯井の声に上を仰ぐ。


「おい、もう第七密度に入ってるんだ。この手、邪魔」


 ーーーマネーゲームだ、渉。


(僕は知った。魂は在処を変えてまた、出逢う。幻想を繰り返してーーー)


見れば飛鳥の黄色と黒のボーダーのようなパンツが見えた。


 危険⚠️ 蜂🐝…


「抱きつく相手こっち」と寄せられて飛鳥に聞いた。


「おまえ、蜂の女王だった?」

「え?」

「いや....チラッと」


 見事な平手を食らった。ワームホールは第七意識密度へ入ろうとしていた。


 第二章 了ーーー









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