第34話 伯井の過去ー③

「・・・蜂蜜は入れてないから」


 夜、ベランダで今度は星を見上げて動かないクーリャに試しに珈琲を渡して、一緒に並んだ。


 クーリャは渉よりも身長が大きい。まるで・・・姉のようだと渉は思う。


 最初は訝しげにコップを見ていたが、やがて一口二口、マグカップに口を付け始めた。


 右手の針に触れないように、向かい合った。


「温かい。ロイヤルゼリーのようだ」

「ああ、お湯。水を熱して使うんだけど。ロイヤルゼリーって今日聞いた、赤ん坊の食事?」


「そうだ。母親たる女王はロイヤルゼリーだけで育つ。物質が違うんだよ。ロイヤルゼリー以外は食べないが。そうじゃない」


 切れ長の目が美しく伏せられた。


「おまえがだよ。私は星にいたとき、温かいなんて思いもしなかった。こうしてすべて終わってみて、ほっとするという言葉を知った気がする」


 言葉は渉には届かなかった。昼間にバイトと大学に明け暮れている青年は隣で目を瞑り、寄りかかってしまったからだ。クーリャの笑い声が密かな夜に消えてゆく。


 苗床に、もう一度新しい星を始める力はクーリャの手にある。既に月経は過ぎ、体内の準備は万全。ふわりと女王の手が青年を撫で、心地よさに渉は遠く離れる母の夢を観る。


 AIDMAは見抜いていたか? 


凶暴なハチビリス=イーストの女王がどうしたらその毒針を使うのか。クーリャは掌に隠したままの大きな針の先端を見つめた。蜂の針は鼠径部にあるが、ハチビリス=イーストの針は掌の付け根にある。内臓と直結している命の針だ。


(あの監理人とはいつか刺し違えてやりたいね)


 渉は絶対に報酬では頷かない。なのに、クーリャを構っている。何という心優しい青年なのだろう。


クーリャは短時間で渉の内面に惹かれ始めていた。


「おまえを苦しめる男がいたら、私はこの針を相手の首に刺すことも厭わぬよ。渉」


 ん・・・と渉が目を擦り、「交尾はしない」と言ってまた目を閉じた。


その隣でクーリャはとんでもない言葉を口にした。


「女王蜂に交尾を申し込まれる事は男として一番名誉な事。交尾するために、男は戦うもの。その戦いに参加しない男を屑と呼ぶ。おまえを屑とは呼びたくない」


 とっさの本心だった。クーリャは慌てて口を押さえた。


渉の目がぎょっと開く。男にしては多い睫を揺らした渉は片方の眉を下げて見せた。


***


「なんだって?」


 ――なんか今、偉い侮辱を受けたような・・・・・・。


クーリャは寒いと室内に引き上げてしまい、渉もベランダを上がる。


それでも腹に貯まった鬱憤は消えず、渉はクーリャの手を掴み、寝室に踏み込んだ。ずっとクーリャに貸しているリビングにはほのかに蜂蜜の香りがした。ただ、クーリャは眠ると言うよりは、動きを止めているようではある。


そして渉は気づいていた。

クーリャの本当の姿は女王蜂だ。


 何で女王蜂なんかが部屋にいるのかは考えるのを止めている。クーリャは特に凶暴でもなかったし、ペットと思えばいい。それに蜂を絶滅させたい自分の欲しい知識の宝庫だった。


 しかし、今、クーリャは本性を垣間見せるような発言をしたのだ。間違いない。


 クーリャはヤドリバチだ。渉は沸々とした何かを腹に押し込めた。


「別に交尾が出来ないわけじゃない。だけど常識で考えて欲しいよ。僕は地球人で人間で、きみは蜂だ。しかも女王! どうやって交尾するんだよ。勝手なことばかり言うな!」


「みな私をほしがったぞ?」


「それはきみの仲間だからだ!」


「わたしは、醜いか?」


 ……醜いどころか……。渉はクーリャの擬態のすらりとした足と、ずり落ちた肩のセーターの鎖骨を見詰める。綺麗だ。間違いなく、地球なら美人の類い。


「そりゃ。綺麗だ。僕だってきみが女性なら、その気になる。言っておくが、僕は蜂の交尾の契約なんかした覚えはないからな。一週間きみを預かる。それだけだ。報酬も要らない」


「おまえは、それでいいよ」


 クーリャは布団の上で足を伸ばして、小さく膝を抱えて見せた。すっかり擬態に馴染んだ目で、渉を悪戯のように見上げる。


「だが、私はおまえを苦しめる相手にはこの針を翳す覚悟はある。それで命が果ててもね。それでいいと思ってる」


「クーリャ女王」


「いつから呼び名に女王がついたんだ。この針を使うことはないと信じたい。それに私と抱き合えば女王物質(queen substance)が遠慮無く付着する。うっかり外を歩いて他の蜂に刺されないとも限らない」


「女王物質(queen substance)講義で文句言ってたやつか」


 そう、とクーリャが頷いた。

「女王物質(queen substance)だけで女王が勤まると思うか? 選ばれし天命かも知れぬ。だが、その女王物質(queen substance)を自分のものにするかどうかは度量と努力。ハチビリスの社会はおまえより過酷だぞ。現に私は追い出される前に逃げたわけだから」


「逃げたって」


 クーリャの瞳は宇宙色になった。


「いくつも銀河を渡り、天の河を超え、重力の墓場を超え、彗星と共に生き存えた。私の母も、そうして宇宙を渡り、ハチビリスは続いてきた。同じ巣に女王は二人も要らない。私は地球に宿ろうとして。不思議だな。私はここで生まれた気がするのは何故だ」


 そうかも知れないね・・・と渉が呟いた。


「地球は宇宙のオアシスだっていう学者もいる。すべての生物は地球から広がって行ったって。僕らは猿が進化したけど、クーリャの星は蜂が進化しただけの話か」


 渉の手が電気から伸びたヒモを掴んだ。


「渉」呼ばれて、タオルケットを引き上げた。


「今日はここで眠るよ。ソファで寝るのはちょっと辛いけど。講義の御礼だ」


 クーリャは暖かい。蜂なのに。蜂の女王は、なんと、慈しむのだろう? 


(檸檬……)と呟くと、涙が溢れた。


 クーリャは、檸檬の感触に近い。ふくよかとは言えない上半身が、渉を包んだ。


「ああ、抱いてやろう。数多の子供を抱いてきたわたしだ。今更おまえが1匹増えたところで構わないよ。どのみち私のタイムリミットは3日を切った。一緒に休みたい」


「折り返しだ」



 ――クーリャの手の毒針が少しずつ変色していることに、渉は気づかなかった。



「渉!」


 大学の構内で、足を止めた。渉の吊り目が少し下がる。宝生檸檬。渉に堕胎を迫ったオンナだ。当然、渉は唇をへの字にした。


 まだ、好きなんだと思い知らされる。檸檬との日々は楽しかった。趣味も合ったし、初めてからだを結び合って、互いに初めて同士で、労りあった。


(そんな想い出も、もう捨てたんだろうが)


 檸檬の服装は、渉の時よりもけばくなっている。森嶋を射止めようとする雌にしか見えない。


「渉、彼女出来たって本当?」


 彼女?とノートを抱え直して、渉は怪訝そうな表情になる。目の前で、檸檬は子供のように喚いた。


「渉と同じ講義を受けた子が言っていたのだもの! ショートカットの美人と一緒に座ってたって」


 クーリャの話らしい。女性の噂話は光速だ。


 檸檬はうるうると音が聞こえるほど、大きな眼に涙の漣をみせた。


「渉、どうして? 私が嫌になったの?」

「そうかもね」


 渉はあまりのはっきりさに、呆然として動けない檸檬に背中を向けた。講義室を出る手前で足を止めた。


 ――まだ、好きなんだと思い知る。


堕胎……せっかく宿った命を……しかし、そんなヘマ。


〝箱庭でちまちま〟


あの男TAKUのイヤミを思い出した。何度考えても、渉は避妊はちゃんとした。それが恐くて、飲酒もしなかったのだから。


 檸檬はまた、「ねえ!」と腕を掴み直して引き寄せた。綺麗な手首が見える。クーリャには、針が出ていて近寄れないのに。


 ――おまえはそのままでいいよ。やけにクーリャの言葉を思い出している渉がいた。あまつさえ、心の支えにしているなど。


「檸檬。労りあいって何だと思う?」


 檸檬の前で、渉は唇を噛みしめた。


「人の僕らが争っているのに、昆虫のほうが心を受け止めるなんて……負けているんだ」


「勉強のし過ぎじゃない?」


「そうかもね」


「渉、さっきからそうかもね、しか言ってない!」


「そうかもね」


 檸檬は泣き出しそうになったが、勝ち気な唇をきゅっと噛んだ。


「お願いがあるの。森嶋さんには絶対近づかないって誓って」

「言われなくとも」


 檸檬はつま先を打ち付けると、渉の腕に腕を絡ませた。その腕を振り払っても、また絡ませようとする。勝手だ。見守るだけのクーリャと比べると吐き気がする。


「何だよ。俺とは終わってるんだろ! 金は渡した。それで手切れ金になっただろ」


 ひゅ、と檸檬の小さな手が上がるが見えた。


「――ってぇ……っ!」


 檸檬は叩いたまま静止している。いよいよ大粒の涙を溢れさせ、涙腺を崩壊させた。


「……なら教えてあげる。森嶋さん、今何してると思う?」


「興味ないな」


「渉、十億のゲームに参加したんだってね? その男の人、今度は森嶋さんに同じゲームをさせてるの! 知らないでしょ! 渉の彼女を抱けって! 

それで十億貰えるって!」


 脳裏に氷が張るような音がする。なんだって? クーリャを抱け? 全く同じ依頼を森嶋にしたと言うのか?


(僕が、拒否をするから……何としても……あの男はそういう男だ。分かる。手段を問わない)


 ――クーリャは渡さない。


 渉は駆け出そうとしたが、前のめりになった。「だめよ!」と檸檬にしがみつかれて動けなくなった自分に気づく。


「行かせないんだから! あたしはここで渉を引き留めるの! いいじゃない! これで森嶋はあんたに手は出さない! だから好きにさせたらいいじゃない!」


「離せ……っ!」


 檸檬の顔が恐怖に歪んだ。なによ・・・と檸檬は唇を噛む。


「何も知らないのね。だからあんたは私に逃げられるのよ! 臆病者だからだよ!」


「悪かったな! でも、僕は檸檬を大切にしていたはずなんだ。堕胎なんて……有り得ない……」


 檸檬は言葉を押しとどめた。ひくっと嗚咽が響き始めた。


「檸檬、もう一度聞くよ。……僕に大切にはされなかったか?」


 檸檬は首を左右に振った。


「何を隠してる?」


 檸檬はとうとう観念した。


「お腹の子供と言えと言ったのは森嶋。……そうするしかなかった。それはすべて渉を傷つけたくなかったからなの。渉を殺されたくなければ金を毟り取れと脅迫……」


 その説明でようやく渉は檸檬の本心を読み取った。


〝そんな箱庭みたいにちまちま物事を見ているから、真実が見えないんだ〟


あの監理人の言ったことは正しかった。渉はようやく檸檬を抱きしめる気になった。檸檬の表情は、渉のものだった檸檬に戻っている。


「ごめん。あんな男の傍にずっと……僕が臆病だから……」


「怖かったよ。でも、渉のためなら頑張れたよ。なのに、私以外の彼女、出来ちゃったの?」


 渉はそれには答えず、早足でロードレーサーを置いてある敷地に向かう判断をした。クーリャが殺されることはないだろうが、昨晩クーリャは「おまえを苦しめる男がいたら、私はこの針を相手の首に刺すことも厭わぬよ」と小さく呟いたのを聞いている。


 森嶋が殺されるは、後味が悪いだろう。まして、クーリャはヤドリバチ。


体内に卵を産み付けられれば終わり。


地球に宇宙の凶悪なヤドリバチが棲み着く話になる。


「渉」


 渉は足でロードレーサーが倒れる前に支えて檸檬を振り仰ぐ。


「檸檬、乗って! 森嶋が危ない」


 クーリャのあの針でやられたら、一貫の終わり。スズメバチの針は強力な毒針だ。


 あ、うん。勢いに押された檸檬はのろのろと自転車に跨がった。渉の両肩をしっかりと掴む。


「僕の自転車は足を乗せるところがちゃんとある。サンダルの不安定さを取りあえずしっかり掴むことでカバーして」


 渉は柔らかい髪を靡かせて、ペダルを踏む。横顔は何かを護ろうとする男のそれだ。


「ねえ、渉、どっか変わったね」


「舌噛むよ! ここからは下り坂だ。僕は彼女を喪いたくないんだ!」


「好きなのね」


「わからない。ただ、死なせたくない」


 あの気高き蜂の女王、クーリャの事だ。相手を刺し殺す道を選ぶ! 思えばあの監理人はそれを見越して森嶋都を巻き込んだのか・・・・・・!


「れもん―― !」


 なにーっと風の中で檸檬が聞き返す。


「さっきの僕の答え、ちゃんとくれない? 労りあいって何だと思う? 人の僕らが争って・・・昆虫が心を受け止めるなんて・・・ってヤツ!」


「しらなーい!」


 檸檬は必死で渉に抱きつくと、でもねーっと大声で張り上げた。


「ようやく渉、話を聞いてくれたのー! 苦しみの中の本当のあたしを見つけてくれたの!あたし、それだけでいいのーっ」


「答えになってないだろ・・・・・・檸檬、止めるから降りて」


***


 渉はマンションの前で自転車から飛び降りて階段を駆け上がり、ドアを開けた。


 ――誰がいるのだろう。檸檬は胸のどす黒い感情を覚え始める。


(渉はあたしには、あんなに一生懸命になってくれない・・・・・・誰なのよ)


 心がキシキシと痛む。


 ――あたしじゃなきゃ駄目なの!


 悔しさで綺麗に塗れていた爪のマニキュアを噛んで剥がしてしまって。ささくれを指で引き裂く。小さな痛みが檸檬を襲った。


「森嶋は、まだ来てない。遠回りの道順を教えちゃったから」


 エントランスに座り込んで、檸檬は改めて回想し、その悪夢のような会話に身を震わせた。


***

 

「渉に彼女?・・・」


 そう。と森嶋はこともなげに言う。


「せっかくおまえが俺に尽くしているのにな。…まあいいよ。おまえなんぞいなくても、金の算段はついた。それで坂巻を見逃してもいい。おまえも不要だよ。十億だよ?・・・しかもたった一人を犯るだけで。すっげぇよ。あの男・・・坂巻より俺を見抜いたんだ」


「み、都さん?」


「色々考えていたんだ。坂巻にとりついて一生償わせてやろうかとか。あいつが親父を殺した」んだろ?蜂で。蜂とお友達だもんなあ、渉くんは」


「そんなはずないわ!そんな出任せ」


「ともかく、黙って見てなって。僕は一人ですべてやってきた。今回もだ。金が欲しければ動くし、気に入らなければ手を下す。僕が法だ」


―――――狂ってる。


檸檬はもう逃げるしかなかった。いつもは追ってくる森嶋だが、もう興味を無くしたのか、それとも目の前に現れた幸せのせいか。檸檬はようやく渉の元に戻れると思ったのに。


(何よ、彼女って!)


 なら、ここまで恐怖を味わった私は何なのよっ!



***


 状況を向かいのビルの屋上からTAKUは双眼鏡で眺めていた。全く坂巻渉の周りはどいつもこいつも一度AIDMAの地下に放り込んで電気ショック浴びせたくなる自己中心野郎ばかり。


「ツァイトノート。女王の気は変わらない以上、犠牲が必要なんだよ。要は女王が死ねばいい」


 森嶋に襲われた女王は多分怒りで針を刺すだろう。そして、自滅だ。森嶋の方はこの際いい。他の生物に卵を産みつけ、幼虫はその組織を食べながら成長し、最後には喰い殺してしまう捕食寄生蜂など絶滅するのが一番だ。この際手段は問わない。


「坂巻が出来ないのなら、犠牲を変えるまで。悪く思うな。死体だろうが、十億は払ってやる」



『criminal psychology』

クリミナル・サイコロジーの言葉が脳裏に響き始める。

〝犯罪者〟

(Yes, I'm the national level criminals.But, where is me, when,what will you have committed a crime -)――そう、俺は国家レベルの犯罪者。

 どこで、いつ、どのような犯罪を犯したのか。俺は全て知っているんだ――




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る