第28話 カレーなアセンション
***
「行きます」
飛鳥の肩を抱くと、蒼桐はいつになくきっぱりと告げた。大学の研究生の血も騒ぐのは、オリジナルの父親のせいだろう。そういえば、母親がいるはずだった。
「……さきほど、rubyからの洗脳を説いていると言いましたよね」
ワームゲートのパネルを引き出す前で聞いてみる。
「ああ、言ったよ」
「――そこに、俺の母も父も……ああ、オリジナルのほうですが」
「君のお父様は立派だったよ。ランドルが知っていると思う。今から連れて行くから聞けばいい。まだ、ヒューマンとAIの戦争は続いているんだと分かるだろう。それとも、心の準備が必要? 飛鳥ちゃん、お腹空いて来た?」
飛鳥は言われて「そう言えば」と小さなお腹に手を当てた。
「これからは食べられる。きみはさっき、rubyのマトリクスを抜けたようだ。思い込みでヒューマンは洗脳できる。AIたちのいつもの手段さ」
これに一番驚いた様子だった。それはそうだ。幼少の時から、飛鳥もまた「AIハーフ」として十年近く生きて来た。
それなのに、こんなに簡単にヒューマンに戻るのか?
「飛鳥、どうなんだ」
「いまいち、実感が」
ワームゲートに慣れないヒューマンと、ヒューマンに慣れないAIハーフを前に、伯井はにっこりと「食事にでも行くか」と微笑み返すのだった。
「食事……」
「そう。ヒューマンに戻ったかどうか。君の体内にはもう命令パッチはないだろうし、食べ物を味わうことも出来るだろう。スープがいい。……腹ごしらえは必要だ」
ふと、伯井ハヤトはヒューマンなのか? と疑問が沸き上がった。
――そうだ。この人のほうが謎。
「兄貴は生きてるんですね。意識だけでも」
「今は見えないだけさ」
言葉一つ一つに謎がついてくる。伯井から全てを聞き出すのは無理そうだった。
******
「お食い初め?」
「そう。生まれて初めて口にする食事。……伝統らしいよ」
飛鳥はスプーンで掬ったカレーをじっと見つめている。
「冷めるぞ。ああ、冷ました方がいいのかな」
しかし、いきなりカレーとは……心配する前で、飛鳥は小さな口を開けた。あむっとスプーンを口に押し込む。
「んん……?」
スプーンをくわえたまま、踊るようにじたばたした。
「なに? 旨いの?」
ぶんぶんぶん。と頭をひたすら振り続ける。そのたびに飛鳥の周りの高度周波数がグラグラと揺れ始めて、小さな地震のようになった。
「なんか、揺れてるんスけど」
「飛鳥ちゃんがマトリクスを振り切ろうとしているんだ。Rubyは米を喰わせると元に戻る。青桐、しっかりと腹ごしらえしておくことだ。これから我々は「国家深層部」サーバに向かうぞ」
「ランドルさんには」
「こちとらサーバ管理のエンジニアだ。軍部機密保持能力は俺のほうが強い。ランドルは俺には逆らえないよ。上司でも、そこはイーブンだからな」
Rubyに来た時もそうだった。
伯井には言いにくいほどの何かの威圧を感じた。保護すると言われて、信用は出来ないと思ったが、伯井の言葉はすんなり信用が出来る。
そう言えば、伯井もruby出身だと言っていた……。
「国家深層部」その言葉が今度は脳裏から離れない前で、飛鳥を取り巻く空気が小さく「パン」とはじけるような音がした。
例えると、シャボン玉のような感覚だ。
「……一つ、アセンションしたな。カレーで次元上昇する子は初めてだ。面白いな、きみの彼女。ランドルが恐れるわけだ」
「……はぁ……何だかですが。飛鳥、気分は?」
飛鳥は手をまじまじと広げながら、何度も頭を揺らしている。
「これが、ヒューマンの感覚……」
「さて、ちょっと眼球検査」と伯井はポケットから小さな器具を出した。立体パネルに飛鳥の眼球が拡大されて映される。「自分の眼をこんな風に見るなんて」と驚きつつも、二回目のカレーに挑むらしい。
「網膜にAI反応はなし。これでrubyに戻っても、洗脳はされないだろう。しかし、バレれば消されるな。さて、さっそく監視中の上司から怒りの電話」
「怒りの電話って」
「君たちに機密を漏洩したからだろ。明日から物流管理になるかもなぁ」
冗談が過ぎる。
「ま、反省会して来ますか。ゆっくり食べていていいよ。消化機能も復活しているのは確認した。この子は今生まれたようなものだ。AIハーフの記憶はある。遺伝子の封印は今解いておいた。本来の繋がるべきものへ繋がるさ」
「あの、伯井さん」
「あのrubyは作り物だ。ここまでで勘弁してくれ」
と苦笑いで去って行った。
「ね、これ、美味しいね」とはふはふとカレーを口にする飛鳥は愛らしかった。どこか、寂し気に見えたのは、ヒューマンであった飛鳥が人知れず上げ続けた悲鳴だったのかもとも思う。
そう言えば、俺。どうやってヒューマンがAIハーフやヒューマノイドになって生まれるかは知らない。
兄貴のこと、ヒューマンのこと、ヒューマノイドのこと……まだまだ情報が足りない。
――まだ、AIとヒューマンの闘いは続いているのだ。例えヒューマノイドにされたとしても。彼女の本当の姿を知ったとしても。
「美味しい?」
多分ずっとこの空間が続いてほしいと願うんだろうーーー
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